「「ロック」を崇拝し「アイドル」を侮蔑する人々」を読んで

はてなブックマークで、regista13さんが書いたブログが拡散されている。
http://regista13.blog.fc2.com/blog-entry-50.html

regista13さんは、「アイドル」「ロックバンドでないもの」「アーティストでないもの」に対して、様々なミュージシャンや音楽ジャーナリスト、ロックファンが侮蔑していることを「問題」と感じ、この記事を書いた。僕自身も(昔からある)こういった風潮や意見に違和感を持っていた。

「ロックバンドである、それゆえ素晴らしい」っていう謎な論理がベースにある気がします。で、さらにそれが先鋭化すると「ロックバンドじゃないものはダメだ」という話になる。この手の「無根拠な何かに支えられた排他性」って、いわゆる「邦ロック」界隈にいる人たちから日常的に感じられるんですよね。ミュージシャン、ジャーナリズム、リスナーそれぞれの場所から。

僕なりに解釈すると、以下の弊害が生まれるのだ。

・音楽の多様性がなくなる
・マーケットが限定される

邦楽のロックは、「J-POP」にちなみ、「J-ROCK」という風に称されることがある。これを揶揄と捉える人は少数だ。が、なかなか海外に発信できない「J-POP」と「J-ROCK」は、閉鎖的という言葉で表現されることもある。

そのような風潮を壊すべく、「Perfume」や「Dir en grey」、「宇多田ヒカル」のようなアーティストが、海外で積極的に活動を始めた。加えてYouTube、ニコ動、MySpaceなどインターネット・サービスが主流になる。CDやレコードという流通面の垣根を取り払ったインターネットの力。「初音ミク」というボーカロイドの「商品」が、世界で注目されたのは、そういった背景がある。

2012年に大ブレイクを果たした「ももいろクローバーZ」や「ゴールデンボンバー」は、それほど海外向けに有名ではない。しかし国内において、その音楽性の豊かさ、身近さ、ライヴ感などの要素が受け、またテレビだけでなくあらゆるメディアで流布されることにより、音楽ファンに大きな影響を与えた。以上のまとめは僕の持論も含まれているが、あながち間違いではないと思っている。

そんな中で、著名な音楽ジャーナリストである鹿野淳と柴那典の対談が、インターネットサイト「NEXUS」で公開された。 http://www.nexus-web.net/s_s2012/

鹿野淳は言う。

(「2012年の音楽を語る上でアイドルのブームについては避けて通れないと思うんですが、鹿野さんはどう思いますか?」という柴の質問を受け)受け止めがたい出来事として言ってるけどね(苦笑)。だってアイドルのビジネスや戦略を肯定しても、そして楽曲のキャッチーさやクオリティを称賛出来ても、アティチュードやソウルを語れないじゃない。つまり生き物としての音楽として僕は楽しめないんだよね。でもそういう音楽が今、再びマーケットのトップを占めている。(中略)だってロックフェスに行ってもPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅが一番フロアに客を集めてるんだよ?それが現実じゃない。僕は音楽ファンとしてそれは本当に面白くないことだからジャーナリストとして、もっと奥がある音楽を見つけ、それを聴いて楽しもうと推奨するけど、現実的にだからこそ音楽シーンの中で主役がいなかったと思う。

鹿野淳はロッキング・オン社で月刊誌『ROCKIN’ON JAPAN』の編集長を務めたり、FACT社を設立し『MUSICA』創刊や音楽フェス「ROCKS TOKYO」をオーガナイズした人物だ。その編集力は多くの音楽ファンに支持されている。

ある程度、自身の発言に「偏り」があることは計算づくだろう。けれど、regista13さんが憤りを見せている通り、アイドルや自身で作詞・作曲しないアーティストに対するリスペクトが、やや欠如しているように見える。間違いなく。

僕の感想はシンプルだ。

・どんなジャンルの音楽でも、どんなプロセスを経た音楽であっても、素晴らしいものは、素晴らしい
・一般的に支持されている音楽でも、僕は「クソ」みたいな音楽はあると思っている

僕はロックが大好きだし、テクノやポップス、ソウルも好きだ。紅白歌合戦で美輪明宏が歌い上げた「ヨイトマケの唄」に言葉を失い、改めて日本語歌謡の可能性を再認識した。そう、素晴らしい音楽が好きだ。

更に、ジャンルに捉われない聴き方も好む。ロックが他のジャンルの音楽と交流し始めた2000年代後半の音楽シーンを歓迎している。実験的な試みを多くのバンドが行なったがために、玉石混淆の様相を呈したものの、トライした全てのアーティストを尊敬している(まぁ、期待外れだった作品には毒も吐くけれど)

一方で、限りなく個人的に、主観的に、直情的に、大いなる偏見を持って、作品に対する序列をつけたい自分がいる。

「この音楽は最高だ!めっちゃ良い!」
「何でこんなクソみたいな音楽が売れてるんだ。みんな目を醒ませ!」

マジョリティだろうが、マイノリティだろうが、フジロックのヘッドライナーを飾ろうが、寒々しい路上で音楽を披露している無名アーティストだろうが関係ない。「良い」「悪い」の基準が、僕の中にハッキリある。「良い」と感じるもの、それは僕の中で絶対的に「正しい」と信じているものだ。

例えば。僕が「F」という三人組の音楽グループに対して、「クソ」だと思っているとする。すると僕はリスナーとして、ブロガーとして、人間として、それらのアーティストを他人に勧めることは絶対にしない。彼らのことが大好きな友達がいたとしても、その考えは決して変わらない。「何がええねん」と論争をふっかけ、とことんまで喋り通すことだって厭わない。

一応、音楽を作るアーティストに対して、出来るだけ「フェア」でいたい自分はいる。「嫌い」な音楽のアルバムを聴き通すことはしないけれど、ヒットチャートやテレビ番組に彼らが出てくれば、チャンネルを変えずに観る。最後まで。それは僕なりのリスペクトのつもりである。

だからね。批難されている鹿野淳に対して、個人的にはサポートしたい気持ちがたくさんあるんです。僕が信じている「音楽」があるように、鹿野淳にも信じている「音楽」があるんだと思う。それを音楽ジャーナリストという影響力のある立場で伝えるのって、完全にエゴだ。エゴだけど、「好き」を前面に押し出せる「音楽」で、エゴを通せないなんて悲しいじゃないか。

もちろん伝え方はある。下品で、アーティストに対してリスペクトを感じないような書き方を、僕は公に向けて発信したりはしない。うーん、でも、時々はするかもしれないな。

それでも、色んな意見があることは良いと思う。鹿野淳を支持する人、支持しない人、中庸を保とうとする人、無視する人・・・。それは、「ロックしか聴かない人」、「パンクしか聴かない人」、「アイドルが大好きな人」、「洋楽オンリーで聴く人」、「何でも聴く人」、「Bob Dylanの熱狂的なファン」、「フジロックに行く人」、音楽ファンには様々なタイプがいるのと同じことだ。別に、常に自制しながら音楽のことを考えている必要なんて無いではないか。

人には「好み」がある。その「好み」は変化する。時間、付き合う友達や恋人の影響、偶然つけたテレビ番組、何でもアリだ。

マーケットのことはプロが考えている。僕はこれからも、大好きな音楽を、良い感じで聴くだけなのである。

最後に、中盤で記述した、様々な音楽ジャンルを横断した音楽作品を列挙する。

Arctic Monkeys「Humbug」

Vampire Weekend「Vampire Weekend」

Passion Pit「Manners」

サカナクション「DocumentaLy」

くるり「ワルツを踊れ Tanz Walzer」

□□□(クチロロ)「GOLDEN LOVE」

この中で、1つだけ「クソ」だと思っている作品がある。それは、秘密ということで(笑)

buncul.com、2013年から本格運用します

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

2012年12月〜運用開始した「文化とカルチャーの間で」。なかなか自分自身の考えを深めることができないまま1ヶ月を過ごしてしまいました。

書籍を読んだり、美術館や博物館に足を運んだり、人に話を聞いたり。
既に自分の中で「100日プロジェクト」と銘打った企画も検討中です。

ということで、本格運用に向けて、良い年になるよう頑張ります。

***

新年は「習慣」が盛りだくさんです。

・年賀状
・(喪中のときは)「明けましておめでとう」を言わない
・紅白歌合戦からの、ゆく年くる年
・おせち料理
・一富士二鷹三茄子

などなど。

長く続いている「習慣」や「常識」や「慣例」というものは、概して「何故それが行なわれているのか?」ということを知らない。知らないにも関わらず、それらを「守らない」と、不義理のレッテルを貼られることになる。

レッテルを貼れるか否かは、所属しているコミュニティが、行為に対して、どれくらい支持をしているかに依る。詳しいことは分からないが、所属しているコミュニティの9割が年賀状を出すのであれば、「出さない」ことはマイノリティになるし、一部の人から糾弾されたりしうるだろう。

マイノリティにとっては、不義理のレッテルを貼られることは、不名誉なことだ。

だけど、「習慣」や「常識」や「慣例」の背景を知らなかったとしても、それが、所属するコミュニティに対してマイナスにならないのが面白いところだろう。

何も言わなくても、行為に対して、コミュニティの構成員たちが遂行してくれる。それは、時間や費用が大幅に節約できることを意味する。その意味には、かけがえのない価値がある場合もあろう。

それらの「習慣」や「常識」や「慣例」を切り崩すのは、PESTと呼ばれるマクロ環境要因だろう。

P・・・政治
E・・・経済
S・・・社会
T・・・技術

これらは、なかなか自分ではコントロールできないもので、世の中の動きに順応する(しない)を、我々は選択することが求められるというわけだ。

長くなってしまったけれど、「文化」や「カルチャー」を考察することは、そういった背景を丁寧に検証することであり、往々にして時間がかかることだ。けれど、ブログ開設の際に書いたように、それらを求めることで人生を「おもしろく」できれば良いなと感じている。

ということで、2013年も、よろしくお願いいたします。