好きじゃない言葉

僕は、あまりニュースソースに反応しないようにしている。
それでも人間なので、ニュースを見ていると何らか喜怒哀楽の感情が自然に湧いてしまう。
喜び、楽しみのポジティヴな感情は良いけれど、怒りや哀しみのネガティヴな感情はいけない。

語弊があるね。
怒りや哀しみの感情自体が悪いのではない。
それが負の連鎖に繋がってしまい、根源的な「怒り」「哀しみ」と乖離してしまうといけないのだと思う。

卑近な例を挙げて説明してみる。
・ポケットに入れていた1万円札をどこかに落としてしまった。ものすごく悲しい。
・ついてないと自分自身を嘆く。日々疲れていたせいで、注意力が散漫だったのかもしれない。
・日々の疲れは何のせいだろうか。仕事か?人間関係か?夏の暑さのせいか?
・そう言えば、今年の夏はとりわけ暑い気がする。温暖化の影響だろうか。
・温暖化を生み出すメーカーは悪だ。これまでずっと業績が良かったけれど、たまたまコンプライアンスの問題が報道されている。
・結果的に、僕はそのメーカーを憎む。匿名のメディアでデマを流し、負の連鎖を拡散させる。僕の中で負の連鎖を留めておくことなどできない。

もとは、1万円札を不注意で落としてしまったことに端を発している。
それがみるみるうちに負の連鎖が大きくなってしまった。「怒り」「哀しみ」を押し殺すとストレスになるので、適度に発散するのは良いと思う。だが、それが内なる感情という枠を逸脱して広がってしまうのは良くない。手に触れる様々な物事が「個人メディア」になりうる時代に、注意しなければいけないことだと個人的には思っている。

さて、今回のエントリはそれを延々と語るためのものではない。
東京オリンピックのエンブレムとして、佐野研二郎氏のデザインが採用されたこと・されて以降のことを厚めに言及していきたいと思う。

まあ、賛否両論だったのだ。
僕自身は「可もなく不可もなく と言うよりは やや素晴らしい寄り」という感想だ。つまり「賛」の立場にある。だけど世の中には多くの人間がいて、「1964年のデザインの方が潔くて良い」「Tの視認性が低い」「シンプルに格好悪い」「ピンと来ない」など「否」の感想を持たれる方も少なくない。

それ自体は悪いことだとは思わない。
デザインとは難しいもので、万人を納得させられるものを拵えることは至難の技だからだ。
Appleのデザインは優れていると言われているけれど、機能もそれなりにユーザーを満足させる出来になっている。プロダクトデザインには、機能という付加価値としてデザインが活きてくる。だからこそ、「良い」ものであればファンも納得できるのだ(それが至難と言えば至難なのだが)。

一方で、「まだ何も出来上がっていない」東京オリンピックのデザインが先行して作られているわけだけど、そこに価値を見出そうとするのは、もともと不自然なことだ。賛否両論が生まれやすい環境にあるんだと思う。

そもそも「良い」ものは賛否両論のいずれも出てくるものだと僕は思う。
村上春樹の小説だって、今でこそ市民権を得ているけれど、昔は賛否両論だったと聞く。村上春樹本人も、「日本の文壇の中ではずいぶん冷遇された」という類のコメントを残している。僕の友達も「春樹の何が面白いか判らない」「答えが無いから読んでいてモヤモヤする」ということを言っている。友達と共通の話題で盛り上がれないのは残念だが、そういうもんだと思う。万人が優れていると思うものなど、実は幻想なのだ。サザンオールスターズくらいではないか?

また話が脇道に逸れた。
僕の「好きじゃない言葉」の話だ。

「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」。
人間の思考停止を誘発する言葉。ネガティヴな印象しか与えない言葉。クリエイティヴを馬鹿にするような言葉。クリエイターの勇気を奪う言葉。

クリエイティヴな作業をするとき、誰しもが自分に影響を与えたものを意識せざるを得ないと思う。
自分に直接的に影響を与えていなくても、インプットの数が多ければ多いほど、自分の中の引き出しには様々な可能性が生まれている。全く新しいものなど、インプット無しには生まれない。たくさん参照するものが多い中で、組み合わせたり、何かを引き算したりして生まれるものだと思う。

クリエイターの真鍋大渡も言う。http://www.creativevillage.ne.jp/2776

斬新なものをアウトプットするためには、まず類似研究や先行事例といったものを過去に遡ってリサーチすることが必要ですね。Perfumeのプロジェクトでも先行事例を共有するところから始まり、そこからどうやって新しいものを作っていくかということをまずは考えます。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉のように、できる限りのルーツを探ってそのコンテキストの中でも解釈されるものであることが嬉しいし、さらにはその流れの先に行きたいと思っています。

その足し引きの「もと」になるものを指摘して、「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」は本当にクリエイターの才能を馬鹿にしているし、やる気も勇気も削いでしまう。

物を作る、ゼロから新しいものを生み出す。
アマチュアでもプロフェッショナルでも、このクリエイターなプロセスは絶対的にユニークだし、誰かにやんや言われる筋合いのものではない。アウトプットは賛否両論を生むかもしれないけれども、盗作疑惑の批判は軽々しく口にするものではないと僕は思う。

文字をあしらったデザインだとしたら、アルファベットやひらがなのパクリなのだろうか?
ひらがなのもとになったのは漢字だ。じゃあ、ひらがなは漢字のパクリなのだろうか?

僕が懸念していること。
「盗作」だったり「斬新さ」を恐れて、クリエイティヴが進化しないことだ。
過去のもので優れたデザインは確かにある。だけど、社会は様々な進化を遂げているし、価値観も大きく変容している。デザインやクリエイティヴがその変化についていけず、無難なものだけをアウトプットするようになったとき、そのときこそ僕は、「過去を盗作しているだけ」と糾弾してやろうと思う。

追記:
Bubble-BさんのFacebookでシェアされていたブログ。
ここで書いていたようなことが、最悪のケースで発生しうること(「パクリ」と告発するリスクが少ないことが理由)が簡潔な言葉で書かれていた。うーん、考えさせられる。
personalogs.「東京オリンピックのロゴを巡る騒動を見て、改めて著作権侵害の非親告罪化はヤバいと思った」

2015年7月7日

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私事ですが、2015年7月7日に入籍しました。

2015年7月6日〜7月7日はちょっとリッチに、横浜のインターコンチネンタルホテルに宿泊。

入籍に至るまで、自分なりに考えることもありましたが、改めて友人や家族が2倍になることが幸せだなと感じます。(もともと共通の友人は一人だけでした)

まだまだ力不足な僕ですが、これからの人生も楽しく元気に生きていければと思います。取り急ぎ報告まで。

言葉、ことば(2015年4〜6月) 

2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

言葉探しは、楽しい。

僕にとって意味を持つライフイベントが目白押しだった2015年4〜6月。
素敵な人にも会えたし、懐かしい友達にも再会した。広島、奈良、名古屋など普段は行かない場所にも行くことができた。理屈よりは、活動を大事にした3ヶ月間だった。けれど、そうして生きる上でも言葉は当たり前のように目に、耳に、頭に入ってくる。

そのうちの一部を、下記にご紹介。

4/22
北野武インタビュー。
参考URL:http://www.cinra.net/interview/201504-kitanotakeshi

リタイアを控えた人によく言うんだけど。「リタイアした後に何かやろう」としてもダメなんだよね。どうせ続かない。働いているうちから会社にウソをついてでも遊ばなきゃ。それでリタイアすれば楽しくなるし、困らない。だって好きなことをやるだけでいいんだもん。

北野武監督の最新作『龍三と七人の子分たち』を前に、インタビューを受けた北野武。上記はその後半なんだけど、実は前半の方が読み物としては面白くて。芸人・ビートたけしが垣間見える編集の妙は、「たけしがやるなら仕方ねえなあ」と思わず笑ってしまうような内容。「たけしがやるなら仕方がない」「堀がやるなら仕方がない」。そういう風に生きていかなきゃ面白くないよなと。

 

4/23
チームラボ・猪子寿之インタビュー
参考URL:http://logmi.jp/35472

僕らは、チームラボという社名どおりチームでものをつくるんだけれども、僕自身もそうなんだけれども、個人で考えたり個人で作業をするというよりは、チームで考えてチームで作業しながらまた考えていくという、結構共同作業的なことが仕事のほとんどなんだけれども、あんまりチームで何かものをつくるとか、チームで何かアウトプットするということと真逆なんだよね、今の教育は。 例えば宿題は個人でやりなさいだし、テストなんて共同的にチャレンジしたら捕まっちゃうじゃない。でもそれ意味がわからないわけじゃんね。別にコピーで済むような問題を出すほうが悪いというか、コピーで済むようなことはコピーしたほうがいいじゃん。 だから全く概念が違っていて、個人で何かアウトプットを出すよりも、共同的で創造的なアウトプットを出すことを大人になってすごく求められているのにそういう場がない。なので、せめて学校の外で遊ぶような場所をつくって、そこを共同的で創造的な体験をする場所にしたい。 3歳と5歳の子どもがいる社員が自分の子どものためにつくりたくて始めたというそういうプロジェクトです。

これはちょっと目から鱗だった。
コピーで済むことの意味というのを、僕はあまり考えていなかった。
全部が全部チームでやることの意義はさておき、教育の世界に限れば、どういう課題を設定するかは教育者側に委ねられている。その彼らが「はい、今日は単語テストですよ〜」「カンニングはもちろんダメですよ〜」みたいなことを何の疑念も無く行なうことの危うさを感じられるテキストだなと。

 

4/28
TV番組「Get Sports」ダルビッシュ有のインタビュー。「なぜストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強をしているのか?」という質問に対して。
参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=KuAAuwRAwjs

「こういうところで差をつけていくしかない。(メジャーの選手と比べると差をつけるとしたら)頭でしかないから。知識とか知恵とかを持っておかないと、そいつらと同じレベルだったら良いんだけど、勝つにはこういうことをやらないと絶対無理だと思います。日本人はどんだけ才能を持ってても絶対無理です、メジャーのトップになるには。僕には責任があると思う。どの選手に対しても。すごく才能があっても怪我をしてダメになった人はざらにいるけれど、例えば障害を持ってて野球をしたくてもできない人も絶対いると思うんですよ。その人たちがもし野球ができたら、こういうこと(ストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強したりすること)をすると思うんですよ。全部に全部を賭けてやると思うんですよ、それだけ思いが強いから。それをやらない人たちは甘えだと思う。僕はそこが根本にあるので忘れないようにしているし、だからなるべく野球では一番上にいきたいと思うけれど、責任を持って色々やらなくちゃいけないと思います」

YouTubeのコメントで「天才が努力をする」という言葉があったけれど、僕のような凡人から見ると、その行為はしごく脅威に感じる。圧倒的に「勝てない」感を感じさせるからだ。
だけど、どこに目標を設定しているかによって、ダルビッシュのコメントはその通りだと思うわけです。勝てる領域で、勝てる努力をする。負けてられないなと思うのです。

 

5/20
宇野維正さんのツイート。
参考URL:https://mobile.twitter.com/uno_kore/status/580250224054038528

「海街diary」試写。大体みんなスッピンで、大体みんな汗ばんでて、4人ともただごとではなく魅力的。是枝監督、女好きだよなー。最高でした!

音楽や映画の世界を中心にジャーナリスト・エディター・ライターとして活躍している宇野さん。ロッキング・オンに所属されていたときから、僕は彼の文章が大好き。言っちゃえば、「分かるやつだけ、分かれば良い」というようなアンニュイな姿勢は、ロックを語るライターとしてあるべき姿かもしれないとさえ、若かりし少年・ほりそうは思ったものだった。
そんな宇野さんが、肩の力を抜いて「海街diary」についてツイート。もう観るっきゃ無いでしょ、という感じは流石だなと。

 

ある程度、心に余裕があることは大事です。
緊張しながらでは言葉が「刺さる」余地が残されていないから。「待つ」ほど仰々しく構えるつもりはないけれど、不意な出会いを受け入れる余地がある程度に、これからも言葉探しをしていきたい。いよいよ、来月は31歳になるなあ。

The Libertinesの狂気を求めて

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朝5時に起きて、新幹線に飛び乗り、暴風域の関西で20時半までみっちり仕事をして(その間、宝塚線の運休により30分駅でタクシー待ちぼうけ)、新幹線で帰京する。家に着くのは24時前後。Boseのノイズキャンセリングイヤホンをしているから、新幹線の轟音は気にならない。だが行きの新幹線と違い、車内に充満したアルコールの臭いには辟易する
どうでも良い話だけど、僕は出張のとき、移動中にビールを飲まない。先輩社員に勧められればそのポリシーはあっさり覆すけれど、一人でいるときにはまず飲まない。そう決めている。
本質的には、新幹線で他人がビールを飲んだって構わないのだ。僕だってプライベートのときには構わず飲む。350ml缶をを2本は持ち込む(プレモルとサッポロビールだ)。行きも帰りも飲む。でも出張のときには飲まない。だからこそ辟易できるわけであり、そんなとき少なからず狂気が芽生える。

狂気、狂うこと。
あまりこの言葉に良いイメージは持たれないだろう。
自分の娘に「狂子」という名前をつけないのが、その証左でもある。僕だって、そんな名前をつけるんだったらキラキラネームをつける。(今鹿[なうしか]とかね)

僕は狂気という言葉の、すぐ隣に青春を位置づけてしまう。
青春。何て青い響きだろう。サカナクションの「Aoi」が聴こえてきそうだ。
でも僕は、青春が狂気とマッチしたとき、サカナクションでもカナブーンでもなく、The LibertinesというUKのロックンロール・バンドを連想する。「リバティーンズ宣言」というすこぶるダサい邦題を課せられた「Up The Bracket」というアルバムを。あるいはバンド名をタイトルにした「The Libertines」というアルバムを。20代前半の僕の青春総てが含まれていると言っても過言では無い。

僕にとって青春とは、福士蒼汰と本田翼の月9ドラマのように、キラキラと輝くものでは無い。
何だか理由も判らずイライラして、先輩に反発し、論破されると彼(あるいは彼女)のいないところで酒を浴びるほど飲んで愚痴るような、そんな鈍く鬱屈した時代がそうだ。僕が詩を書いていたのもその時代で、「死」や「痛み」、「裏切り」などをモチーフとして多用した。もちろん詩を書いているなんて誰にも言えなかった。文字の集積からキリキリとした疼きを感じさせる。人前で披露するだに憚られるほどの負のオーラを纏ったメロディ。今も昔も、ザラザラとした雑音と共に脳内を廻る。

今は、僕にとって青春では無い。
その時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
30歳を過ぎ、日々の仕事に忙殺され少しずつ責務の大きさに押されながらも、わりかしクールに日々を送っている。熱くなり過ぎず、正面からぶつかり過ぎないこと。パートナーにも恵まれ、僕はかなり自己肯定できるくらい満足度の高い生活を送っている。はっきり言って、喜ばしいことだ。

でも時々僕は、空白を埋めるべく、あるいは空白を作るべくThe Libertinesの音楽を聴く。
狂気という世界に閉じ込められた王様、フロントマンであるピート・ドハーティの狂気を身体に染み込ませる。
UKロックが好きな人ならば、彼の音楽の素晴らしさを知るだろう。薬物依存でズタボロになったとしても、2〜3分のトラックはグルーヴィでメロディに優れ、そして遊び心に富んだ仕掛けが仕込まれているのに驚き、そして愛する。死んだ魚のような眼で、いかにも「俺は絶望してる」という歌を、歌う。全然呂律が回っていない。そこが、味と言えば味だ。しかも韻の踏み方が格好良いんだよね。

I lived my dream today.
And I have lived it yesterday.
And I’ll have lived it tomorrow.
Ah, don’t lookat me that way.

「The Man Who Would Be King」

薬物依存の彼が、夢を生き続けることを歌う。
僕は基本的に歌そのものを聴きたいと思うので、アーティストのパーソナルな事情はなるべく切り離したいと思っている。だが、もう僕は彼の事情を知ってしまっている。狂気の海にどっぷり浸かっていることを知ってしまっている。
4つの文が意味するものを、意図せず拡大解釈しがちだ。
最初の3文は、まるで子どもが純粋に信じていることじゃないか。
俺のことそんな眼で見るな、と言ってひっくり返すピート・ドハーティ。

と、ここまで書いていて、特に2枚目のアルバムはもう一人のフロントマンであるカール・バラーが作っていたことを思い出した。彼もピートに負けず劣らず狂っていると思う。その方向性が違うだけで。
最も、僕はカールに対して狂気ではなく、「不思議なやつだ」という感覚を抱いてしまう。
というのもピートはThe Libertines解散後もBabyshamblesだったり、ピート・ドハーティ名義で素晴らしい楽曲を生み続けているのに対し、カールはDirty Pretty Thingsという「それほどユニークでは無い(あまり目立たない)」バンドを3年間続けたに過ぎない。それはThe Libertinesの域から抜け出せない、そこそこに優秀な音楽に留まった。

少し脱線した。
結論を急ごう。

言いたいのは、結局次のことだけだ。

村上春樹は空白を得るために走ると書いていた。
僕は狂気を得るためにThe Libertinesを聴く。

なぜ狂気を得る必要があるのか。
それは活動する上でのエネルギー源になりうるからだ。理性や理屈や論理を超えたもの。何か為すためには、たぶん狂うほどのエネルギーが必要なのだ。
リターンを期待するだけで何かに夢中になることはできない。
「何かを為す」。日々、満足度の高い生活を送っていると現状維持が目的になる。何かを変えるための労力が惜しくなる。変えることが悪にさえなる。

「王になるはずだったのに」
1800年代の引用もまた滑稽なほどに正直で、大人が妄想するには狂い過ぎている。だけど、その狂気を浴びたくなるのも確かだ。

そう考えると、「リバティーンズ宣言」という邦題もあながち悪くはないか。

参考:
http://kawasaki5600.blog64.fc2.com/blog-entry-286.html?sp

短期間で文章をまとめ上げる能力について

先日、サロマ湖100kmウルトラマラソンのブログを書いた。今日の昼に読み直してみたけれど「こんなにも誤字があるかね」というような内容で、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。初めての100km走だ、6,000字を超えるほどの熱量は評価しよう(自分に対して)。でもね、同じ言い回しをそこかしこでしていたり、ストライド走法のことを「スライド」と書いてしまったり、過去形/現在形/未来形の使い分けにブレがあったり、なかなか統一感のあるトーンで文章が書けていない。

話が逸れるけれど、トーンとは、つまり僕らしい文章のことだ。僕らしさとは何か?それを明確にすることはしていないから、僕は僕の文章をトーンという言葉で表現している。
改めて。僕はトーンを意識した文章を書きたいと思っている。文章の巧拙は、たぶんトーンには関係なくて、むしろ書けることが増えれば増えるほど、トーンがバラけてくるのかもしれないとさえ思っている。トーンとは身近で、かつ奥深いものだ。

さて話を本題に戻す。短期間で文章をまとめ上げる能力というのは希少価値が高いと思う。長い時間をかけて面白い文章や小説を生み出すというのも希少価値は高いけれど、ニーズという側面で見れば、短期間で書けるというスキルは裾野広く重宝されることだろう。そして、それはライターを専門職としない方(もちろん専門職であっても、この能力の高さは喜ばれるだろうが)にとって、その能力が極めて有効になるんじゃないかと思っている。

デザイナー、研究職、政治家、スポーツ選手、経営者…etc
別のフィールドでとりわけ強みを有している方が、それを正しく言語化することで、他者に伝わっていく。旬、というのも大事になるから、あまりダラダラと書かない方が良い。5分以内で読めるものをさっくりとまとめ上げる。他者に伝わっていく。
もちろん強みを何1つ有していなくても、上手い文章はすっと自分に落ちる。そもそも文章とは書き手と読み手のキャッチボールみたいなもので、いくら高尚な文章を書いたとて読み手に伝わらなければ、(あんまり)意味がない。

僕はけっこう、ダラダラと文章を書いてしまう。
たくさんの文章が、「草稿」として眠っていることが多い。
それは将来に活きるネタなのかもしれない。いずれにせよ、僕の中で眠る宝(のようなもの)を、僕は有効に活用していこうと思う。