又吉直樹『火花』を読んだ

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我がドラゴンズの又吉こと又吉克樹は今シーズン不調だが、こちらの又吉こと又吉直樹の小説『火花』は絶好調である。今年3月に発売され、いまや200万部突破という話題の小説を読んでみた。

200万部を打った作家と自らの執筆経験を比較するのも恐れ多いのだが、「物を書く」とりわけ「物語を書く」というのは自らを切り売りするだけでなく、深層心理(あるいは真相)へと深く潜り込む作業だと思っている。
名探偵コナンは難解な事件を30分(前後編にすれば1時間)で解決してしまうけれど、それほど才能の無い人間が小説を書き、自らの考えを深めるべく執筆していくとゴツゴツとした岩場に何度もぶつかる。それは痛いだけじゃなくて、真っ直ぐ掘り下げていたと思っていたらまるで見当違いの方角へ進んでいたと気付かされることもある。いわゆる「ノッている」ときならまだしも、だいたいは疲弊する。何より小説の場合、ある程度の時間を要するのだ。最終的な風景が見えるまで、途方もないと思わせる道のりに立たされる。
それでも「書く」のが止められない状況になることがある。「この小説を何としても書き上げよう」という強い意思があるからだ。それゆえ日々どんなに疲れていても書こうと思えるし、執筆が止まったときにも意識の片隅に小説のことが頭を過る。
その状況に自分を持っていくことができれば、それはとても幸福なことだし、その状況がどうしても作れないときは最悪、書くのを止めなければならない(言うまでもなく、作家にとって最も不幸なことの1つだ)。

又吉直樹の『火花』は圧倒的に前者の強い意思を感じる。
漫才コンビ・ピースのボケ担当としてバラエティ番組で活躍していることもあり、神谷と徳永という二人の芸人を扱うことは彼の領域にピタリと当てはまる。また「笑いを生む」でなく「笑いを表現する」という意思がもともと強かったんだと思う。その意思をしっかりと感じるし、実際漲っていたのだろう。意思あればこその本作なんだと思う。

文章の感性が瑞々しいというわけではなく、どこか昭和(昭和以前)を感じさせるのは、彼が敬愛する太宰治などの影響かもしれない。そんなに引用を感じさせるような記述は無いのだけど(そして太宰を語れるほどの知見を私自身も持ち合わせていない)、独特の一文の長さには、現代の作家性の中でひときわユニークであるというイメージを持った。どことなくフェミニンな要素のある作家なのかもしれない。

祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞き取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の感覚で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高過ぎるので、敢えて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。

「笑い」のことを小説や映画などで表現するのは野暮と糾弾する必要があるかもしれない。
芸人は舞台やテレビで「笑い」を取るべきだと言う人もいるかもしれない。

だけど、あるメディアを通じてでしか語れない(表現できない)こともあると思うし、又吉直樹本人もドキュメンタリー番組で「小説も笑いも一緒」という節の発言をしている。彼にとって書くことは「笑い」を追求するための1つの実験に過ぎないのかもしれない。そして小説『火花』からは、その野心が表出し、愛すべき実験の試行錯誤さえ垣間見える清々しいアウトプットだなと僕は感じた。そして最終的に又吉直樹は、神谷も徳永のことも愛し切ったのだと思う。

「笑い」が好きな人は、必読である。
願わくば、文庫版が出る前に。

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