「アートいちはら2015秋」〜作品編〜

大好きな森ラジオステーション。森遊会の皆さんと

大好きな森ラジオステーション。森遊会の皆さんと

*全体編はこちら

あまりに好きなもの、好きなことを書くとき、
どうしても想いが先行しすぎて上手く表現できないことがある。
僕にとって「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」がそれなんだなと。前回のエントリで言葉に頼ったけれど、自らの表現力の低さを痛感しつつも、改めて想い自体の価値の重みを知った。
いずれ時間をかけて、僕らしい表現で、いちはらアート×ミックスのことを書いていければと思う。

さて「アートいちはら2015秋」に戻ろう。
このイベントは、総合プロデューサーの北川フラムさんの意向もあって、若手の作家がある程度の期間をコミットした上で参加している。その流れで、各会場に作家がいることもあって、僕たちは直接作家の話を聞くこともできる。

実は、僕はどちらかと言えば、作品そのものから何かを吸収したい / 何かを得たいと思うタイプである。
だけど、比較的僕と年齢の近い作家が多いせいか、自然とどのような制作過程を経ているのか気になっていたんだと思う。作家の方々は皆、真摯に対応してくれる素敵な人たちだった。
いくつか素敵な作品にも出会えたので、備忘録も兼ねて、本エントリに諸々書いていきたいと思う。

「仲田絵里」in IAAES
仲田絵里さんの作品に初めて会ったとき、違和感を覚えた。
一室に展示されている写真は十数点くらい。どれも、とてもあっさりした顔の女性モデルが、様々な衣装を纏い撮影されているというシンプルな構成のものだ。
何かグロテスクなものが写っているわけではないのに、何故だろうと思った。
「同じ時代」に生きている感じがしない、あっさり言うとどれも共感性が低いように感じるのだ。

種明かしはこう。
モデル(作家の仲田さん本人だ)は、幼い頃に亡くなった自身の母親の遺品を着て、撮影に臨んでいるというコンセプトだ。「母親の遺品を、娘の自分が着て撮影する」という必然性。

モデル(仲田さん)は今を生きているのに、身に纏っているのは古き時代のもの。
仲田さんも綺麗な人なので全然着こなしているのだけれど、やっぱり違和感がある。

その差分がそっくり価値になっている。
「生きること」「母娘の血縁の価値」を表現している作品なのかもしれない。

なお、仲田さんの写真集の出版元は赤々舎
以前本ブログでも書いた『ひとり出版社という働きかた』でも紹介されていた注目の出版社である(なかなか採算の取れない「写真集」をpublishしている)。
自分の興味・関心が繋がっているなあと、しみじみ感じます。

仲田絵里さんと

仲田絵里さんと

「佐藤香」 in アートハウスあそうばらの谷
アートハウスあそうばらは、養老渓谷駅から徒歩8分くらいの場所にある。いちはらアート×ミックスのために、古民家をリノベーションして造られた展示スペースだ。ハイキングに進む道すがら、ぐっと低い谷間をぬって訪れると、カフェも併設されたアートイベントを象徴したような場所だということが判る。

秋イベントでは、土絵作家の佐藤香さんの大作が展示されていた。

土絵作家、と聞いてもピンと来ないと思うけれど、彼女から話を聞くと、なかなか大変なチャレンジをしていた。
まず素材集めから大変だ。彼女が使用する具材は絵の具では無い。文字通り、土だ。

いちはらアート×ミックスに限らず、大地の芸術祭を始めとする地方のアートイベントに招かれる佐藤さん。
そこで展示をするにあたって、佐藤さんは「現場」の土の採取を試みる。良い土はわりと崖の方にあったりするそうで、命がけで具材を調達している。

作品はどれも大掛かりで、見るものを呑み込むような力強さがある。
どうしてこんな細い方が、このような大きなサイズの作品を作れるのか不思議である。
土絵作家と聞けば肯けるけれど、やはり使われている色は、土をベースにした色合いだ。
古墳とか、壁画とか、そういったものを連想させる。青とかピンクとか、そういう色は皆無だけど、紋様の独特さに迫力があって、多分見るものを唸らせるのだと思う。

具材となっている土も展示されていたが、同じ「土色」でも、色によってはかなり様相が異なっている。
赤っぽい色、黒、淡い茶色、土が太陽に照射され続けて褪せてしまったような色。どれもリアルで、何となくデジャヴだ。紋様さの独特さのことを言及したけれど、どこか懐かしさを感じるのは、僕自身が土遊びに興じていた幼少期があるからなのかもしれない。

佐藤さんは気さくな方で、作品を語ることのできる「言葉」も持ち合わせていた。
日本にとどまらず、海外でも活躍していきそうな作家である。

土絵作家・佐藤香さんと作品

土絵作家・佐藤香さんと作品

採取した土たち

採取した土たち

長くなりそうなので、一旦ここまで。
2015年のアート納めには早いので、12月もアートに触れる機会があると良いなあと思っている。
同時に、僕自身の創作意欲も増したように思う。何かを残せる人生でありたい。

栗山斉さんの不思議で美しい作品

栗山斉さんの不思議で美しい作品

月出工舎

月出工舎

第2回日光ハイウェイマラソン大会雑記(2015年11月29日)

典型的な失速レース

典型的な失速レース

僕は楽観的な性格なんだなと、再認識した。

フルマラソンをだいたい3時間30分〜40分で走れるようになったし、
ウルトラマラソンで100キロ完走も果たすことができた。
今年12月はトレイルランニングにも挑戦しようという意気込みだ。

そんな中で、
「お前はまだ、マラソンの大変さを知らない」と宣告されてしまった。
第2回日光ハイウェイマラソン大会は、そんな自分の甘さを指摘してくれたかのようなレースだったように思う。

第2回日光ハイウェイマラソン大会は、
その名の通り、日光宇都宮道路(有料道路)を封鎖し、ランナーのために1日解放してくれる大会だ。普段走れないところを走れるレア感は、ランナーをその気にさせよう。
また紅葉のピークは少し過ぎてしまったものの、男体山、女峰山を始めとする日光連山が綺麗に冠雪している光景は素晴らしかったし、地元・栃木県で走れる喜びは何にも代えがたかった。

練習不足はあったものの、ハーフの時点では「1時間59分台」だったので、まあ4時間前後でまとめられるかなと思ったのが、甘かった。

コースを見て欲しい。

高低差 約400メートル

高低差 約400メートル

スタートから折り返しの大沢ICまでは殆どが下り坂で、大沢ICからゴールまでは殆どが上り坂なのだ。
高低差は約400メートル。ただし400/20=1キロ当たり20メートルというのが計算上の数値。上り坂とは名ばかりで、感覚としてはずっと平地で行けるんじゃないかと踏んでいた。甘かった。

折り返しをして、走り始めた瞬間、
「こりゃ、いつもと違うわ」という状況に陥ってしまう。
足が差し込まれたように硬直し、一歩一歩が踏み出せなくなる。

それでも、最初のうちは1キロ6分をキープした。
それが5キロ毎に、1キロ7分となり、1キロ8分となり、1キロ10分となる。
記録が「4時間半〜5時間」の範囲のランナーが、一番辛いんじゃないかというのが僕の持論だ。
汗が乾いて体感温度が低くなる。給水のペースは掴めなくなる。そして常に「歩く」「歩かない」の判断が頭にちらついてしまう。1キロが途方もなく長く感じられ、どうしてもタイムに支障が出てしまう。

このレースでは、日光宇都宮道路の

・大沢IC
・土沢IC
・今市IC
・日光口PA
・日光IC
・清滝IC

という地点を通過していく。
キロ表示は5キロ毎にあるのだが、有料道路ゆえに、100メートルごとの表示が見える。
これが後半はなかなか縮まらず、身体と精神を蝕んでいった。

そして有料道路の最大の難点は、沿道に応援者がいないことだ。
何を甘ったれたことを言っているのだと叱られるかもしれない。

だけど、僕は沿道の皆さんの応援に支えられて走ってこれたんだということを再認識することになる。
「辛い」ときに「頑張れ」という声があることで、自分の限界を少しだけ伸ばしてくれる効果があるんだと思う。科学的なことは判らないけれど、背中を押してくれるというのは実感としても十分ある。

もちろん、ボランティアを買ってくれた地元の人々も、数百メートルおきに立ってくれて声を掛けてくれることもあった。これがなかったら、本当に途中で諦めていたかもしれない。

結果は、4時間56分という散々な結果だ。
殆どジョグで走った、真夏の第56回 六無月東京喜多(北)マラソンよりも遅い。
イメージとしては、今の妻に応援に来てもらった昨年11月の湘南国際マラソンのときのような失速具合だったと思う。

レースも幾つか予定している中で、
改めて自分に喝を入れないといけない。
仕事がいくら忙しくても、「走らないほど暇ではない」わけで、ここから気合を入れ直していきたいと思う。
フルマラソンはサブ3.5で、ウルトラマラソンは2年連続の完走を目指す。

実にシンプルじゃないか。

「アートいちはら2015秋」に行ってきた

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*作品編はこちら

妻と初めて1日デートした場所は、千葉県市原市だった。
芸術肌な彼女の趣味に合わせて「アートが好きだ」と嘯き、参加したのが1年半前の「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」。それから不思議で楽しい縁があり、市原市には何度か足を運んでいる。僕ら夫婦にとって大切な場所だ。

そんな市原市では、11/21,22,23,28,29と「アートいちはら2015秋」が開催されている。
「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」の関連イベントだ。僕らは2日目に参加してきた。
タイミング良く、本イベントの総合プロデューサーを務める北川フラムさん(「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」の総合ディレクターも務めている方)と巡るバスツアーも企画されているとの情報を聞きつけた。参加しない理由が無かった。

バスツアーは、

・IAAES[旧里見小学校]
・月出工舎[旧月出小学校]
・アートハウスあそうばらの谷
・内田未来楽校
・森ラジオステーション
・市原湖畔美術館

という主要エリア全てが網羅されていて、1箇所に滞在する時間は多少タイトだったものの、のんびり鑑賞しがちな僕ら夫婦にとって、全てを満喫できるというのは非常に喜ばしいことだった。
少々文字数も多くなってしまうので、「アートいちはら2015秋」で心に残った作品については別エントリにて紹介するが、魅了的な作品がとても多くて、ほくほくとした気分で三連休を過ごすことができた。多くの現場では作家の方々が待機してくれていて、作品の制作経緯だったり、制作意図などを直接聴くことができた。普通の美術展では考えられないことだし、作品を別視点で見ることのできる貴重な機会だったと思う。

紅葉のピークは来週末とのことだが、市原は銀杏の黄色で色付いていた。
春の菜の花とはまた違う、趣きのある素敵な光景だった。

***

大前提として、「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」もジャンルとしては、最近良く耳にするビエンナーレやトリエンナーレなどと同様のアートイベントに違いないだろう。
僕自身、この手のイベントは門外漢なわけであくまで私見だけど、「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」は単なるアートが主役なイベントでは無いように感じている。

温かさを感じることが多いのだ。

例えば。
たくさんの魅了的なアート作品の傍らでは、イベントを支える地域ボランティアの姿が必ずある。
時には猪汁を振舞ってくれたり、時には受付を担当してくださったり、時にはみかんを袋いっぱい分けてくれたり、時にはバスの出発を見送り手を振ってくれる。

別エントリでも書いたけれど、地元の人たちは現代アートにおいて「何が面白いか」なんてことが(乱暴な言い方だけど)判っていない人たちも少なからずいるんじゃないかと思う。というか、そういうことに価値を感じているのではなく、そこから派生する様々な物事に面白みを感じてくださっているのではないだろうか。それは全然悪いことじゃないし、むしろより健全だとさえ感じる。

その証拠に、市原に来る観光客を案内しようとする彼らの熱意は本当に高い。クリエイティヴという現場で、「作り手」である作家に負けないほどの溢れんばかりの情熱があると感じさせる。

そんな雰囲気の中で楽しむことができたので、今回のバスツアーでは参加者の方と個人的にメールアドレスを交換させていただいたり、地域NPOのチラシをいただいたりして、本当に僕たちの人生にとっても意義深かったと思う。

北川フラムさんはバスの中で、「市原市が抱える問題をどのように解決するか」ということを話されていた。
僕たちも微力ながら、その過程を楽しみながら見つめ、また時には関わっていければと思った次第だ。

湖畔美術館

湖畔美術館

木村崇人さんの作品

木村崇人さんの作品

小湊鐵道バス

小湊鐵道バス

妻の現場に行ってきた

11/20〜22の期間中、西荻窪で開催されていた妻の展示会「Koristella展」に行ってきた。
とても印象的な絵を描ける妻と、女性らしい可愛いアクセサリーをコラボレーションしていただいた今回の企画展。「マッテとポッケ」というお店の雰囲気にもぴったり合っていて、僕自身も誇らしい気持ちを持つことができた。妻のチャレンジに心から敬意を表したい。

妻はもともと絵を描くことが好きだった。
仕事が終わり、夕食を共にした後で、時々おもむろにパレットに絵の具を敷いて、とても象徴的な女性の絵を描いていた。彼女の絵は、彼女のまっすぐで邪気のない性格を反映しているように感じる。それは、例えば僕のように、邪な感情ばかり抱いている者の心に、ぐさっと懐かしさと切なさを打ち込んでくる。
表現が適切かどうか今ひとつ自信がないけれど、年に数回姪っ子に会って、すっかり心が浄化されるような感覚に似ていると思う。なんでこんなに癒されるのかというと、それは子どもが本来持つ無邪気さであったり、汚れていない純度の高い素直な感情表現がそうさせるんだと思う。

身内びいきで大変恐縮だけれど、彼女の絵は、それに近い力がある。
誰しもが持つ想像力に向かって、じわりと喚起を促すような。

彼女の絵に囲まれた彼女は、とても堂々としていて素敵だった。
料理をするときに、割と高い確率でフライパンを焦がしてしまうような、おっちょこちょいな要素は一切無かった。ほくほくとした充実感を彼女は纏っていたんだと思うし、それがおそらく彼女の絵を見た全ての人たちの実感でもあったはずだ。

「またこれからも絵を描いていきたい」
そう宣言する彼女をいつまでも応援するだろうし、僕自身も「作る」という行為にこだわっていきたい。妻の現場で、その決意が強まったのは本当に妻のなせるわざで、有難いことだと思うのです。

マッテとポッケ

マッテとポッケ

アクセサリーとパッケージにして

アクセサリーとパッケージにして

内装もおしゃれ

内装もおしゃれ

感嘆する夫

感嘆する夫

ポストカード

ポストカード

言葉、ことば(2015年7〜9月) 

2015年4〜6月のエントリはこちら
2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

7〜9月の集約が思いの外、遅れてしまった。
印象的な言葉はたくさんある。だけどそれをキャッチアップできるのは、その当人次第だと常々感じる。同じ言葉を発していたとしても、著名人か一般人かで受け止められ方は変わる。「お前が言うな」と糾弾されることもある。

このエントリを続けていくにあたり、そのあたりのバイアスに影響されず、少しでも価値のある言葉を拾っていくことが重要だなと思う次第である。

余談だが、10/26から僕は自分のMacに新OS「OS X El Capitan」をインストールさせた。新機能の1つ「ライブ入力」、未だ慣れないけれど、なんやかんや続けている。凄いかもしれないと思うからだ。キーボードを打っているとき、人間は色々なことを考える。その打ち方が変わるということは、自らの思考過程を変えると言っても言い過ぎでは無いと僕は思う。まだ利便性は高くないけれど、「ライブ入力」をOFFにするには、早いんじゃないかって思います。

***

8/19
『“ひとり出版社”という働きかた』(西山雅子)谷川俊太郎の言葉

自分の詩の理想型をそのように(道ばたの草)想い描いている。つまり、詩というのは、なにかを伝えるものじゃなくて、そこに存在するものだと思っているのね。道ばたの雑草はなにも意味していないし、伝えようともしないけれど、そこにあるだけで美しいわけでしょう?人が見て、感じる力さえあれば。本もそれと同じでいいと思うよね。だって今もう、どんなにいい作品もストックになりようがなくて、全部フローで流れていくじゃない。

自分でもブログを書いたけれど、改めてこの本は面白いなと感じます。詩人・谷川俊太郎がいつまでも情報に対する感度がみずみずしくて驚くばかりです。なかなか書き手で「コンテンツは全部フローだよね」って言い切れる人はいないと思うから。本書を読んでいただければと思うけど、だからと言って、自分の仕事に対して誇りを持っている姿勢が僕はさすがだなと思うわけです。

 

8/21
『コミュニティデザイン』山崎亮

いえしま地域の場合、まちづくり活動もさることながら、主幹産業が衰退する中で新たな産業をどう生み出すかということが大きな課題だった。(中略)採石業の後に観光業に取り組む場合も同じ轍を踏まないように気をつけなければならない。いえしまをリゾート化して、一度にたくさんの人が呼べるようにすれば、一時的に景気が良くなるかもしれない。しかし何年かあとに尾奈じような課題に直面することになるだろう。じわじわと観光拠点をつくり、じわじわと観光案内人を育て、じわじわと町民におもてなしの心を理解してもらう。その間、じわじわと来訪者が増えてくれば、その対応にあわてることもなく、借金して設備投資する必要もなく、急に人を雇うこともない。観光まちづくりをゆっくり進めることにはそれなりの意味があるのだ。そしてその速度は、住民が試行錯誤を繰り返しながらプロジェクトを推進し、そのプロセスで主体性を取り戻すための重要な時間をあたえてくれる。コミュニティデザインにおいて「ゆっくりであること」は大切なことだ。

即効性なんて、どこにも無いんだという話。
あるいは、即効性があったとしても、それにこだわるのは良くないよねというメッセージかもしれない。
人が、人の手を借りて、人の手の中で、じわじわと成長していくっていうのは、人も組織も地域もプロジェクトも変わらない。家島を始め、様々な地方で実績を上げてきた氏の言葉は、じっくりと重みがあります。4年前の情熱大陸も面白かったので、改めて見直してみようかなと思います。(ていうか、もう4年も前のことなのか・・・)

 

9/7
日本経済新聞「私の履歴書:荒蒔康一郎」
参考URL:http://www.nikkei.com/article/DGKKZO91172230R30C15A8BC8000/

「先生、今度の宿直はいつですか。お邪魔してもいいですか」。中学2年の夏休み。理科の鈴木直之先生が学校に泊まる日を楽しみにしていた。生物への興味は年を追うごとに高まっていて、大学出たての鈴木先生は私たち生徒の疑問に親切に答えてくれた。口癖は「興味があるならやってみな」。

(中略)話を中学時代に戻そう。先生から解剖の手ほどきをしてもらった。カエル、ウサギ、ネズミ、マムシなど。田舎ならではの贅沢(ぜいたく)な学習だと思う。胴体が太くなったマムシを解剖すると、いくつか卵がでてきた。マムシは卵胎生でお腹(なか)の中で孵化(ふか)して、出てくると聞いて驚いた。大学時代にはこの時の解剖の腕前が役に立つ。理屈はわかっても納得せず、なんでもやってみることを心がけた。光合成による酸素の作り方は知っていたが、水槽の中に水草からたくさんの酸素を発生させるために重曹をいれ、ライトをあてて出てきた水泡から酸素を採取した。時間さえあれば先生がいる理科室に入り浸っていたのが懐かしい。どんなことでもこの目で見ないと納得しない現場主義の考え方はこんなことから根付いていく。

ほかの勉強はそっちのけ。読書も仏細菌学者、パスツールや野口英世の伝記などばかり。母は「もっと違う本も読みなさい」とあきれ顔。父は黙って見ていた。実は社会人になっても「小さなファーブルになりたい」と酔っ払うと言っていた。

元キリンビール会長の「私の履歴書」、初回の言葉。興味関心というのは本当に大事だけど、幼少期〜青年期にその芽を摘まないように配慮や環境の整備をすることは大人の責務だ。なかなか難しいことだけど、「ファーブルになりたい」と言ってしまうくらいのキラキラした大人だったら信用しても良いかもしれない(否、ちょっと痛いかも。笑)

 

9/20
村上春樹『職業としての小説家』。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。

スティーブ・ジョブズも似たような思想で、数々のプロダクトを作っていたと多くの方が解釈しているのは広く知られていることだけど、村上春樹の新著を読むと、同様の考え方で、彼の文体は作り上げられたように感じる。自己表現(アウトプット)にはある程度、インプット量が必要であることは間違いないかもしれないけれど、いざ走り出すときには、なるべく荷物は少なくした方が良いってことなのかな。その答えは、自らの試行錯誤の果てにあるだろう。

 

あっという間に、2015年が終わろうとしています。
無事、年末に着地できるよう、もう一踏ん張り。まずはリズムを取り戻さないと。