第42回市原高滝湖マラソン雑記(2016年1月9日)

2016年最初のレースは第42回市原高滝湖マラソン。
1年ぶりのハーフマラソン。千葉県の房総エリアでは、昨年末の〜coast to coast〜 房総半島横断60kに続いてのレースとなる。

「フルマラソンをそれだけ(14回)走っているなら、ハーフマラソンなんて楽でしょ?」
時々走らない人から言われるんだけれど、もちろんそんなことは無い。「もちろん」という副詞を付けてしまったけれど、全てのランナーの皆さまなら共感してくれるのではないだろうか。例え5キロであっても、自分がベストを尽くそうと思うのであれば身体から全エネルギーを放出すべくハッスルしなければならない。仕事において、どんなルーティンにおいても、最善を尽くそうと思えばそれなりに疲労が生まれるのと同じことだ。

さて、今回走った市原高滝湖マラソンだが、市原市で「42回」続く伝統ある大会である。
「元旦マラソン大会」「新春マラソン大会」という過去の名称を引き継ぎながら、地元の市原市民に愛されて開催されている。参加者数も2,059人となかなかの数だ。しかもそのうち、市原市民は1,066人と5割を超えている。市原市の人口は約28万人、0.5%が参加している計算になる。数にすると、少なく感じられるかもしれない。

だけど、実際に参加して実感したのだが、この大会は多くの市原市民に愛されている。
車でなければ、開催地である市原高滝湖には小湊鐵道という地元のローカル線(同じ市原市なのに、JR五井駅から40分以上かかる)を使わなければならない。アクセスがお世辞にも良いと言えない場所に、こうして多くの市原市民を集めるというのは、なかなか困難なはずだ。
大会は、2.5km小学生女子の部から、5km、10km、ハーフマラソンと、実に細かい区分けがなされていた。大会パンフレットによると、小学生なんて男女を合わせても参加者数は100人ほど。だけどそこを「きちんと」拾っていく。運営面・収益性を鑑みると正直煩雑なことだろう。だけど、そんなことちっとも問題ではない。幅広い年齢層の市原市民が、元気であり続けて欲しいということなのだ。その辺は、東京マラソンや湘南国際マラソンといったメガ・レースと一線を画している。レース後に立ち寄った黒湯の温泉旅館で市原市のカレンダーが掲示されていたけれど、ちゃんと【1月9日】には市原高滝湖マラソンが実施される旨が記載されていた。さすがである。

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なお、この大会は妻と走りました。
もともと妻はランナーでは無いのだが、1年に1回くらいは走ろうと決め(僕が決めました)、昨年に引き続いて2回目のハーフマラソン参加である。僕が僭越ながらガイド役を務め、制限時間内で完走するのがミッション。昨年は初回ということもあり何度か二人で練習をしたが、今年は何やかや予定が立て込み、妻は一切練習できなかったのが不安要素。いくら身体が丈夫な妻とは言え、そんなにマラソンは甘くない。
加えて、僕が腕時計を忘れるという失態を犯す。自宅の出発が遅れ、レースに遅刻気味で焦ってしまったのだ。ガイド役失格である。おかげで携帯電話(しかもガラケー)をいちいち取り出しながら、時間確認せざるをえなくなってしまった。ストップウォッチ機能がないために、分単位でしか状況確認できないのも痛い。

市原高滝湖マラソンは、一応関門および制限時間が設定されています。
14キロ地点で1時間40分、ゴール時点で2時間半。つまり、1キロ7分ペースをきっかり守っていかねばならない。標準といえば標準である。ちなみに我々の昨年のゴールタイムは2時間26、27分くらい。コースは基本的にフラットだが、向かい風が発生するなどレース・コンディション次第でタイムに影響が出てしまう。

だいたいにおいて、僕は楽観的な性格だと自覚している。
しかしマラソンを走ることに関しては、楽観的な性格とは言えないように思う。
幾つかの致命的なリスクを想定し、可能であれば予め潰しておく。対策を練った分だけレースの成否可能性が劇的に高まるわけでは無いのだが、事前準備の有効性は実感している(何度もレースで痛い目に遭って来たので)。せっかくレンタカーまで借りて千葉にやって来たのに、ゴールできないなんて絶対嫌だ。

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レースは高滝湖を3周する。
1周あたり7キロなので、1キロあたり6分30秒〜6分45秒くらいで走れれば、2周を終えて余力が無くなったとしてもゴールできるはず。そんな見立てで走ることにした。妻とゆっくりとした速度で走るため、寒さ対策のため普段よりTシャツを1枚多く着込んで走ったが、日なたでは「暑い」と感じるほどの陽気だった。通常ならば2月上旬から咲き始める菜の花も沿道で姿を見せているほど。喉が渇く→給水ポイントで水を飲み過ぎるという懸念があったので、手持ちのポカリスエットで小まめに水分を補給した。無風に近い状態で、実に気持ち良く走ることができるのが本当に有難い。
1周目はどんなコースだろうと思っていたが、初心者ランナーには若干しんどいアップダウンがわりとあるなという印象を受けた。特に2〜3キロの上り、4〜6キロのアップダウンは周回を重ねるほどに脚にダメージを与えるだろうと感じた。

それでも、妻の顔を見ると余裕さえ感じられたし、知り合いの市原市の方にお会いして記念撮影できるくらい和気藹々と2周(14キロ)を過ぎることができた。関門の制限時間を5分ほど上回るペース。だけど後々振り返ると、2周目のペースは若干上がり過ぎていたかもしれない。近くで走っていた4人組のランナーたちの後を走っていたけれど、彼らのペースが想定よりも上がっていたので、僕としては少し自制してみるべきだった(妻は何度も「ペース上がってない?」と心配してたが、僕は「想定内のこと」として処理してしまったのだ)。

案の定、3周目に入ると我々のペースがグッと落ちた。
4人組のランナーたちとも少しずつ距離を空けられていった。妻の表情に変化は無かったし「昨年よりも全然疲れていない」と話しているほどに、疲労が溜まっているわけではなかった。要するに妻の言葉は間違っていなかったのだけど、その一方で昨年に比べ、ゴールに向かう馬力のようなものが、なかなか湧き上がって来なかったのだ。

疲れない。
その一方で、ペースはしっかり落ちていく。

数値化すると、その落差はしっかりと表れている。

残り7.1キロの時点で、制限時間まで55分(1キロあたり7.74分ペース)。
残り3.1キロの時点で、制限時間まで22分(1キロあたり7.09分ペース)。

幸いだったのは、残り3.1キロからは殆どフラットなコースが続いたこと、最後まで無風だったこと、そして終盤まで妻が余力を振り絞れるほどにモチベーションを保てていたことだ。残り1.1キロの地点(制限時間まで7〜8分)で沿道の方々が「制限時間ギリギリだよ」と発破をかけてくれたことにも助けられた。我々を更にギアチェンジさせてくれて、残り300メートルは中距離走のごとく駆けることができた。

結果は、制限時間の6秒前にゴール(2時間29分54秒)。
本当にギリギリだった。
かつて、これほどまでに制限時間に近接したことは無かった。

あまりにエネルギーを使い過ぎて、妻と抱き合って喜ぶことは無かったけれど(単なるモラルの問題でもあるが)、ゴールできたことの感慨深さは昨年の比では無い。ちなみに記録が残ったランナーとしては、我々が最後。つまり「ビリッケツ」である。だけど、実に誇らしい「ビリッケツ」だった。

走っているときは、景色を見る余裕なんて無いものだけど、写真を整理したり記憶の糸を辿っていったりすると、僕がこれまで参加した中でも3本の指に入るくらいの良い環境下でのレースだったと思う(1位はぶっちぎりで南伊豆町みちくさウルトラマラソン)。
そんなレースを妻と無事に完走できたことを喜びたいと思うし、これからも機会を得て走っていきたい。翌日・翌々日と妻は筋肉痛に苦しんでいたけれど、フィジカルに思い出を作るっていうのも良いものだと僕は思います。

高滝小学校に集まる老若男女のランナーたち。

高滝小学校に集まる老若男女のランナーたち。

ご覧の通り、快晴!

ご覧の通り、快晴!

太陽が眩しい。

太陽が眩しい。

高滝湖をぐるっと3周。

高滝湖をぐるっと3周。

適度なアップダウン、走りやすかった!

適度なアップダウン、走りやすかった!

実際のコースマップ、高滝湖を3周します。

実際のコースマップ、高滝湖を3周します。

積ん読リスト(2016年1月)

年末にエントリした通り、2015年の積ん読リストをちょっとだけ片付けた。
誰かが言っていたけれど、「書物」というのはたくさんの人々の知恵が詰まっているものだと思う。

作家が著名であろうとなかろうと、多くの本は一人の人間による出版物で無いことが多い。
作家の力に加えて、編集者を始め出版に関わる多くの人たちの英智が詰まっているし、読ませるための工夫が至るところに施されている。それでいて「当たり外れ」があると感じるのは、出版文化がこの国に根付いている証拠でもあるように思うわけです。

なので、なるべく本はこれからも読んでいきたいし、
小説や仕事で役に立つ情報に偏ることなく、色んな種類の本も読みたいなと思う次第です。
今後もこの形のエントリを定期的に行なっていき、読書スタイルの変遷を追えるようにしていければと思います。


◆『The Long Good bye -ロング・グッドバイ-』レイモンド・チャンドラー
村上春樹翻訳の古典。だいぶ前に買ったけれど、分量からなかなか読み切れていない。本作に限らず、海外ものの大作って手をつけられていない。『グレート・ギャツビー』くらいの量だといけるんだけど。


◆『忘れられた巨人』カズオ イシグロ
こちらは昨冬購入したもの。評判になっていたけれど、手をつけていなかったもの。買ったのに、やはり手をつけていなかったので改めて。


◆『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』会田 誠
会田誠の作品って、けっこうどれも好きです。個展にも行ったし、MIZUMA ART GALLERYが中目黒にあった頃のギャラリーにも立ち寄ったことがある。訴えかける力があるんだよなあ。


◆『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』クリス・アンダーソン
『ロングテール』『FREE』などの著者としても有名。本書が発売されてから日が経っているけれど、「作り手」が主要になりそうな現代だからこそ、やっぱり読むべきだと直感しております。


◆『リーン・スタートアップ』エリック・リース
これも導入部で挫折しちゃいました。本ブログでもちょいちょい紹介しているフローレンスの駒崎弘樹さんの対談記事で出てきたことがきっかけかな。


◆『MBA クリティカルシンキング コミュニケーション編』
グロービスに通ったのは、もう5年前とかになるなんて。時が経つのは早いもの。時々グロービスの本は読み返しているけれど、本書は買ってから積ん読状態なので早めに読んでみようかなと思った次第。

そう言えば、今年は毎年恒例で読んでいた『7つの習慣』を読めていない。
こちらも時間を見つけて読んでいこう。定点観測できる書物って、貴重なものだから。

いとうせいこう『想像ラジオ』を読んだ

いとうせいこう『想像ラジオ』

いとうせいこう『想像ラジオ』

「話し言葉」
「会話中心」

時々、そういったフォーマットの小説を読むことがあるけれど、当たり外れが結構激しいので個人的にはあまり好みません。
あまりにリアリティを意識した「話し言葉」が綴られていると浅いと感じるし、一方で小説というフォーマットを意識したものだと流れが悪く会話として成立しない。

ラジオを聴いているからこそ、
ラジオというフォーマットが生きるわけで、
ラジオを小説にそのまま置き換えたとて、その瑞々しさがそっくり移行されるわけでは決してない。ということ。

特に、わりと日常的に「読書」に勤しんでいる人たち(村上春樹は全国民の5%くらいだと見積もっている)は、意識的・無意識的に関わらず小説というフォーマットにどっぷり浸かっている。
起承転結があり、地の文があり、適切な人称の形があり、常体と敬体があり、作家独自の文体があり、過去からの適切な引用があり、時代の不文律がある。ルールとか、マナーとか、そういった呼び方でも支障は無い。そんな中で、「話し言葉」「会話中心」の小説というのは奇を衒っている印象を持たれがちだし、前述のルールないしマナーにそぐわない側面が生じてしまう。

だから、

こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中でオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。
でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。ていうかもう凍えています。赤いヤッケひとつで、降ってくる雪をものともせずに。こんな夜更けに聴いてくれてる方々ありがとう。

といきなり導入されても、初回はついていけない。それも無理からぬことなんじゃないだろうか。

ただ、著者は話し言葉を武器に仕事をしている(□□□のメンバーだったり、タレントとしてテレビに出たり)だけあって、読み進めているうちに、徐々にラジオを聴いているかのような錯覚に陥るから不思議だ。本書がベストセラーになるのも理解できる(裏表紙に「ベストセラーとなった」と書いてあるので、しっかり売れたのだろうと推察している)。
これだけ書くとあまりに乱暴なので具体例を一つ挙げると、主人公のDJアークの人柄や声色を想像し、何となく読者の耳元で展開されているような気分を味わえるということだ。
多かれ少なかれ、良い小説というのは、登場人物に感情移入してしまうものだし、自分が原作を映像化するときの妄想さえ勝手にしてしまうものではないかと僕は考えている。だからこそ実際に映像化されたときに、愛読者は不平不満を漏らしてしまうのではないだろうか、その思い入れの強さから。

僕はこの小説を映像化するときの妄想はしなかったけれど、DJアークの声をけっこう具体的に想像した(妻もこの小説を2年前に読んでいたけれど、面白いくらいに僕の印象とは異なっていた)。彼が章を経るごとに「弱く」あるいは「潔く」なっていく様子も、彼と同じレベルで気持ちを寄せることができたように思う。東日本大震災という重いテーマを、軽やかかつ誠実に描けるいとうせいこうの筆力は、世間で評価されているよりもずっと高いように僕は感じた。

なかなか作家間では辛口な評価もあるみたいです。
僕は、近々もう1度読みたいなと感じましたけどね。
想像の中で。

想ー像ーラジオー。

***

なお、そのときApple Musicで聴いていたThe Whitest Boy Aliveの「Rules」という2009年の作品が個人的にすごく好みだったのでご紹介しますね。
この時代のバンドって、現時点で解散しているのが殆どで、彼らも残念ながら例に漏れずといったところですが。。。