言葉、ことば(2015年10〜12月)

2015年最後のエントリです。
「色々あったけれど」という枕詞に相応しいほどに、2015年は良いことも悪いことも気疲れすることも手放しに喜ばしいことも「色々」あった。

その中でも一生に一度(であろう)、入籍というのはとりわけ僕にとって大きなイベントだ。
ライフステージが一気にアップデートされ、取り巻く環境や考えるべきポイントが極めて多岐に及ぶようになった。「入籍以前」「入籍以後」という区分けが生まれそうなくらい。丸くならず、良い意味で尖り続けていければと思う。

昨年に続き、今年も残念ながら小説を公開することができなかった。
長い作品になればなるほど、自分の意思や意欲を1点に集中する必要性を感じてしまう。本当は時間を決めて取り組めば良いのだが、仕事やプライベートの予定が詰まってしまうと執筆を継続することが困難になる。まあ、これは言い訳というか自分の弱い部分でもあるので、反省すべきポイントとして2016年に活かしていきたい。

前段が長くなってしまったが、2015年10〜12月の「言葉」についてのエントリ。
言葉メモは習慣として、1年以上続けることができている。良い傾向の1つである。

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12/12
12/11日本経済新聞朝刊 私の履歴書「奥田務」
参考URL:http://www.nikkei.com/paper/article/?ng=DGKKZO94991190Q5A211C1BC8000

儒学の祖の一人である荀子の言葉から採った「先義後利」というもので、その意味は「企業の利益はお客様と社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされる」。天保8年(1837年)に大阪で多くの豪商が一揆の焼き打ちに遭った大塩平八郎の乱があったが、大丸は逃れることができた。大丸は徳義を重んじる家風が庶民にも広く知られ、乱の頭領の大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じて難を逃れたこともある。先義後利の話を初めて聞いたときに「利益を追求するためにお客さんや社会への言い訳のようなもので詭弁(きべん)だ」と思った。しかし、後に経営者となってすべての経営活動において先義後利の視点を欠くと、必ずと言っていいほどうまくいかなかった。

百貨店業を営む大丸の社長を務め、2007年に大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合(後のJ.フロントリテイリング)を主導した奥田務さんの言葉。「先義後利」という言葉は聞いたことがあったけれど、当時の奥田さんのように、まだ僕の中で腑に落ちていない概念だ。僕もこれから経験を積むにあたり、この言葉の持つ意味合いを実感するだろうと何となく予感している。

 

12/1
村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか』。ギリシャのミコノス島を24年ぶりに再訪した際に感じたこと。

「何年か前に改築したから、昔とは印象が違ってるかもしれないね」とその青年が教えてくれた。僕が礼を言うと、ダムディロプロス青年はにこにこと手を振って「アナルギロスの雑貨屋」に戻っていった。島の人たちは(おおむねみんな)親切で友好的だ。そのへんは昔と変わらない。24年が経過しても、通貨が変わっても、辺りの風景が変化しても、冷戦が終わっても、経済が上がり下がりしても、人々の心根にはそれほど変化はなかったみたいだ。それが僕をほっとさせる。なんといっても人の心は、その土地にとっていちばん大切なものなのだから。

間接的に「福島」のことを示唆しているだろう。『職業としての小説家』に書かれていた「個の回復スペース」というのも、場所そのものの不可欠要素について言及していたけれど、円熟期に入っての村上春樹の言葉の1つ1つに深みがある。本書もさくっと読める紀行記である一方で、読んでいて唸らされるような記述もあって、とても学びになります。


 

10/25
数学者・森田真生とグラフィックデザイナー・原研哉との会談
参考URL:http://www.takeo.co.jp/reading/dialogue/15.html

そもそも「マスマティックス」には「数の学問」という意味はありません。「マテーマタ」というギリシャ語が語源で「最初から知っていたことをあらためて知る」という意味なんです。知らないことを知るのではなくて。

1年前に開催されていた竹尾ペーパーショウの企画「SUBTLE」。
「紙」というものの繊細さ、精密さを再発見することができた展示会だったけれど、専門分野の異なる両氏が何度も熱くクロス・オーヴァーしながら「デザイン」「数学」について語り合う本対談は必読です。上述した言葉はその中で身に沁みた一節。イコールという置き換え作業は、誰もが知っている初まり(前提)から展開されていくものだ。前述した村上春樹『職業としての小説家』にも同様の記述がある。同時多発的なリンクが発生している。

森田真生氏の『数学する身体』、原研哉氏の『デザインのデザイン』も併せてオススメです。


 

12/4
松本人志:ワイドナショー(2015年11月29日放送分)。ワイドナ高校生の水谷果穂がワイドナショーの感想を問われて「すごく素直な意見でとても楽しいです」と答えたのに対して放った一言。

誰のことを言うてんねん。誰のことを何目線で言うてんねん。

「一億総ツッコミ時代」という少し前の言葉もあったように、TwitterなどのSNSで批評家ぶることがもはや常態化した昨今、ワイドナショーで女子高校生が何となしに発した一言+松本人志の返しがとても興味深かった。Face to Faceだと、このように「笑い」という温かみのあるコミュニケーションの中で盛り上がるけれど、匿名性の高い空間だとそうもいかない。僕自身もこうしたエントリを続けているけれど、松本人志の言葉は常に意識の片隅においておくべきポイントだと自戒したい。というかワイドナショー、やっぱり面白いです。

 

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ちなみに、
2015年のブログのエントリ数は39本(本エントリを含む)。
一番読まれたエントリは「漫才の歴史が変わったウーマンラッシュアワーの凄さ」。
2013年12月のエントリだけど、ダントツでアクセス数を稼いでいます。なんでだろ。

2015年7〜9月のエントリはこちら
2015年4〜6月のエントリはこちら
2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

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最後になりましたが、2016年も引き続き「文化とカルチャーの間で」をお願いいたします。
今年は小説も書くぞー!

言葉、ことば(2015年7〜9月) 

2015年4〜6月のエントリはこちら
2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

7〜9月の集約が思いの外、遅れてしまった。
印象的な言葉はたくさんある。だけどそれをキャッチアップできるのは、その当人次第だと常々感じる。同じ言葉を発していたとしても、著名人か一般人かで受け止められ方は変わる。「お前が言うな」と糾弾されることもある。

このエントリを続けていくにあたり、そのあたりのバイアスに影響されず、少しでも価値のある言葉を拾っていくことが重要だなと思う次第である。

余談だが、10/26から僕は自分のMacに新OS「OS X El Capitan」をインストールさせた。新機能の1つ「ライブ入力」、未だ慣れないけれど、なんやかんや続けている。凄いかもしれないと思うからだ。キーボードを打っているとき、人間は色々なことを考える。その打ち方が変わるということは、自らの思考過程を変えると言っても言い過ぎでは無いと僕は思う。まだ利便性は高くないけれど、「ライブ入力」をOFFにするには、早いんじゃないかって思います。

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8/19
『“ひとり出版社”という働きかた』(西山雅子)谷川俊太郎の言葉

自分の詩の理想型をそのように(道ばたの草)想い描いている。つまり、詩というのは、なにかを伝えるものじゃなくて、そこに存在するものだと思っているのね。道ばたの雑草はなにも意味していないし、伝えようともしないけれど、そこにあるだけで美しいわけでしょう?人が見て、感じる力さえあれば。本もそれと同じでいいと思うよね。だって今もう、どんなにいい作品もストックになりようがなくて、全部フローで流れていくじゃない。

自分でもブログを書いたけれど、改めてこの本は面白いなと感じます。詩人・谷川俊太郎がいつまでも情報に対する感度がみずみずしくて驚くばかりです。なかなか書き手で「コンテンツは全部フローだよね」って言い切れる人はいないと思うから。本書を読んでいただければと思うけど、だからと言って、自分の仕事に対して誇りを持っている姿勢が僕はさすがだなと思うわけです。

 

8/21
『コミュニティデザイン』山崎亮

いえしま地域の場合、まちづくり活動もさることながら、主幹産業が衰退する中で新たな産業をどう生み出すかということが大きな課題だった。(中略)採石業の後に観光業に取り組む場合も同じ轍を踏まないように気をつけなければならない。いえしまをリゾート化して、一度にたくさんの人が呼べるようにすれば、一時的に景気が良くなるかもしれない。しかし何年かあとに尾奈じような課題に直面することになるだろう。じわじわと観光拠点をつくり、じわじわと観光案内人を育て、じわじわと町民におもてなしの心を理解してもらう。その間、じわじわと来訪者が増えてくれば、その対応にあわてることもなく、借金して設備投資する必要もなく、急に人を雇うこともない。観光まちづくりをゆっくり進めることにはそれなりの意味があるのだ。そしてその速度は、住民が試行錯誤を繰り返しながらプロジェクトを推進し、そのプロセスで主体性を取り戻すための重要な時間をあたえてくれる。コミュニティデザインにおいて「ゆっくりであること」は大切なことだ。

即効性なんて、どこにも無いんだという話。
あるいは、即効性があったとしても、それにこだわるのは良くないよねというメッセージかもしれない。
人が、人の手を借りて、人の手の中で、じわじわと成長していくっていうのは、人も組織も地域もプロジェクトも変わらない。家島を始め、様々な地方で実績を上げてきた氏の言葉は、じっくりと重みがあります。4年前の情熱大陸も面白かったので、改めて見直してみようかなと思います。(ていうか、もう4年も前のことなのか・・・)

 

9/7
日本経済新聞「私の履歴書:荒蒔康一郎」
参考URL:http://www.nikkei.com/article/DGKKZO91172230R30C15A8BC8000/

「先生、今度の宿直はいつですか。お邪魔してもいいですか」。中学2年の夏休み。理科の鈴木直之先生が学校に泊まる日を楽しみにしていた。生物への興味は年を追うごとに高まっていて、大学出たての鈴木先生は私たち生徒の疑問に親切に答えてくれた。口癖は「興味があるならやってみな」。

(中略)話を中学時代に戻そう。先生から解剖の手ほどきをしてもらった。カエル、ウサギ、ネズミ、マムシなど。田舎ならではの贅沢(ぜいたく)な学習だと思う。胴体が太くなったマムシを解剖すると、いくつか卵がでてきた。マムシは卵胎生でお腹(なか)の中で孵化(ふか)して、出てくると聞いて驚いた。大学時代にはこの時の解剖の腕前が役に立つ。理屈はわかっても納得せず、なんでもやってみることを心がけた。光合成による酸素の作り方は知っていたが、水槽の中に水草からたくさんの酸素を発生させるために重曹をいれ、ライトをあてて出てきた水泡から酸素を採取した。時間さえあれば先生がいる理科室に入り浸っていたのが懐かしい。どんなことでもこの目で見ないと納得しない現場主義の考え方はこんなことから根付いていく。

ほかの勉強はそっちのけ。読書も仏細菌学者、パスツールや野口英世の伝記などばかり。母は「もっと違う本も読みなさい」とあきれ顔。父は黙って見ていた。実は社会人になっても「小さなファーブルになりたい」と酔っ払うと言っていた。

元キリンビール会長の「私の履歴書」、初回の言葉。興味関心というのは本当に大事だけど、幼少期〜青年期にその芽を摘まないように配慮や環境の整備をすることは大人の責務だ。なかなか難しいことだけど、「ファーブルになりたい」と言ってしまうくらいのキラキラした大人だったら信用しても良いかもしれない(否、ちょっと痛いかも。笑)

 

9/20
村上春樹『職業としての小説家』。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。

スティーブ・ジョブズも似たような思想で、数々のプロダクトを作っていたと多くの方が解釈しているのは広く知られていることだけど、村上春樹の新著を読むと、同様の考え方で、彼の文体は作り上げられたように感じる。自己表現(アウトプット)にはある程度、インプット量が必要であることは間違いないかもしれないけれど、いざ走り出すときには、なるべく荷物は少なくした方が良いってことなのかな。その答えは、自らの試行錯誤の果てにあるだろう。

 

あっという間に、2015年が終わろうとしています。
無事、年末に着地できるよう、もう一踏ん張り。まずはリズムを取り戻さないと。

『新しい音楽とことば』を読んだ

新しい音楽とことば

新しい音楽とことば

音楽を、言葉で説明するのは難しい。
「音楽を聴く者」としてだけ、31年間を過ごしてきた僕個人の実感である。

ライターの真似事をしたこともあるし、ブログにもCD評を書いているし、居酒屋で音楽仲間と音楽談義を楽しむこともあるけれど、本質を語っているつもりでも本質からまるで離れていると感じることがしばしばある。自己嫌悪とまではいかないが、正しく伝えられないことは気持ち良いことでは無い。とりわけ音楽の「作り手」という経験の無い僕が、音楽のことを正しく語ることはたぶん不可能なのだ。きっと。

もちろん個人の自己治癒(自己満足)に止めておけば問題は無い。そこに止まらず「この音楽は素晴らしい」「この音楽は時代を象徴している」という具合に個→多へ向けた瞬間、作為的なレッテル貼りに加担する一部になってしまう。音楽を聴くというのはどこまでも主観的な行為だから何ら悪くは無いのだけれど、音楽家の意図と反してしまう(ズレてしまう)ことは本意では無いし。この匙加減が難しい。

一方で音楽にとって、音楽そのものの補完的な役割を果たす目的として、言葉が重要なのは疑いないだろう。
難しいことだと判っているのに、そういった作為が世の中でまかり通っているのは、音楽家の思いとは裏腹に「言葉」を通してでないと「音楽」をre-presentすることが出来ないからだ。
まだライヴ経験を経たことの無いバンドが世の中に認知されるには、当然客を前にしたライヴという行為が重要になる(ニコニコ動画など、インターネットメディアで注目を集めることもあるが、それは脇に置いておこう)。ただし多くの新人バンドが最初に立つステージは、キャパシティが100人に達するかどうかの狭いライヴハウスのはずだ。幸運に注目を集めたとて、一気に世間に対してブーストできるかは、客やオーガナイザーなどの「言葉」に頼らざるを得ないだろう。「あいつら、素晴らしい」みたいな賞賛を出来る限り拡散していかなければならない。恥ずかしがっている場合では無いのだ。

言葉は音楽そのものの補完的な役割を担っているが、その主要素はプロモーションだけでは無い。
本書『新しい音楽とことば』のメイントピックでもある、「歌詞」だ。むしろ「歌詞」は作り手自身によって構築されるので、これを有効に使わない手は無い。
本書で編者を務めている磯部涼は「はじめに」で以下のように語っている。

もちろん、人々がまず耳を傾けるのは「歌」、そのものである。しかし、歌詞やメロディやサウンドが絡み合った歌という芸術の中でも、歌詞という要素は妙に偏愛されているように思えてならないのだ。それはおそらく、「歌詞」が、一見、誰にでも理解しやすいような感覚を与えるからだろう。たとえば、メロディやアレンジに関しては、音楽的な言葉を持たない人は、それをなぜ「良い」と思ったのか、あるいは、「良くない」と思ったのか、ぼんやりとした印象をもってしか表現することができない。しかし、歌詞、それも特に日本語の歌詞に関しては、私たちが普段使っている言葉でつくられているため、もう少し突っ込んで表現することができる。歌を受動的に消費するだけでなく、歌から受け取ったものを能動的に表現したいと考えたとき、歌詞がまずは取っかかりになる。そう、歌詞はわかりやすいのだ。

もちろん、音楽を言葉で説明するのが難しいのと同じレベルで、「歌詞」について正しく説明することは容易では無い。
生半可にライターの真似事をして語ろうとすれば返り討ちに遭うだろう。怪我が怖ければ止めておいた方が無難だ。
無自覚な人々がTwitterなどのSNSで音楽家を褒め讃える一方で、実に様々な人々が(結果的に、あるいは意図的に)足を引っ張ることもまた多いのだ。

しかし本書が素晴らしいのは、プロフェッショナルのライター陣が意欲を持って音楽の言語化にトライしていることだ。
そしてアーティストの思いに寄り添えるだけの「語彙」「知識」を持ち合わせていることだろう。有機的に音楽と言葉が結合し、意味(無意味)を成そうと努めていることが判る。

ライター陣は磯部涼、飯田一史、柴那典、北沢夏音、竹内正太郎、さわやか、中矢俊一郎の7名だ。
(別にこの文脈でライター陣の名前を列挙する必然性は無い。だけど彼らの挑戦を讃えて列挙したい。Amazonやレビューサイトでは編者の磯部涼の名前はあったけれど、他の諸氏の名前は記載されていないのが殆どだった)

僕の感想は至ってシンプル。
13人の音楽家は歌詞に対して独自かつ強いこだわりを持ち、またそれぞれの成功体験を得た人たちだった。その見解を読み解ける貴重な読み物として本書は有効だと感じた。

石野卓球は「いかに意味のないことを書くか」に注力し、
菊地成孔は「批判性を持った歌詞づくり」にこだわり、
じんは「マルチメディアを想定した全体のうちの1つ」として歌詞を捉え、
やくしまるえつこは「どんな解釈も受け入れ」る。
七尾旅人は「試行錯誤し自身が成長する」ための1つの要素になっていて、
三浦康嗣は「ただそこにあるもの」「リスナーのもの」というスタンスを堅持し、
若旦那(湘南乃風)は歌詞で「売れる」ことを疑わなかった。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONのフロントマン、後藤正文は以下のように語る。

自分の場合はもともとサウンド寄りの歌詞づくりをしているから、ちゃんと気にしてもらわないと意味がわからないように書いているんです。それが良いことか悪いことかはわからないけど、一歩でも能動的な気持ちが聴き手にないとコミュニケーションが成立しないような書き方をあえてしています。もちろん、その加減はむずかしいんですけどね。他のジャンルを見渡すと、やっぱりラップなんかは歌詞でコミュニケーションが成立するように送り手も聴き手も訓練されている気がするけど、それに比べると自分のやってる音楽には言葉としての弱さがある気はしている。意味以前に、サウンドの一部として言葉を書いている側面がまずは強いかなと。
(中略)歌詞カードを嫌う人もいるじゃないですか。特にサウンド指向の人ってそういう傾向があると思うんですよ。(中略)日本の英語詞のバンドがものすごく丁寧な訳詞をつけたりすることなんです。そういうのを見ると「言葉が異様に大事にされている」とは思うかな。「言葉」が大事というより、みんながその「意味」とかを大事にしすぎている気がするんですよ。無意味なものを怖がっているというか。もう少し歌うべき言葉、テーマっていろいろあるはずなのにもかかわらず、使われれている言葉の種類がそこに追いついてないというか。「なんでもないことを歌う曲」がなかなかない一方で、「共感」という言葉に集約されていくような。誰かの私小説に自分のフィーリングが一致するかしないかを計るような感覚だけで言葉が選ばれているような気がする。それだけになっていくのはどうなんだろうという気持ちがあるから、そこはもう少し幅広いほうがいいと思う。(中略)すべてものものに意味がなくちゃいけないというのはちょっと怖いなと思います。

音楽と歌詞。
1つの楽曲、1つのアルバム、1人のアーティストの楽曲群(ディスコグラフィ)、1時代として形成された楽曲群。マルチメディアのうちの1つとしての楽曲。
視点によって、歌詞の読まれ方は全然変わってくる。
何かのドラマの主題歌に起用された楽曲は、ドラマを観ていたリスナーにとって特別な物語が付与される。月9ドラマの金字塔「ロングバケーション」で採用された「LA・LA・LA LOVE SONG」を聴くと、木村拓哉と山口智子の恋物語が脳内に情景として浮かぶことだろう。久保田利伸の熱唱具合を連想する人は、稀だ。

このように音楽と歌詞単独だけで無く、様々な文脈から物語として楽曲の価値が高まることも一興だろう。
多くの音楽家たちは、単独で物語性を高めていかなければならない。それはリスクを伴うこともあるし、そもそも純粋に音楽を楽しんでほしいと願う音楽家にとっては無関係な必然性に思われるかもしれない。

だけど、物語性の成立が音楽家のみに許されることでは無いことは自覚的であっても良いはずだ。
誰に?もちろん、一人ひとりのリスナーが、独自の物語を紡ぐのだ。物語という言葉が嫌ならば、意味でも価値でも構わない。
それが広く伝播していくと、いわゆる「名曲」と呼ばれたりもする。下世話な言い方をすれば、「売れる」ということ。

話が脱線しそうだ(僕は良く脱線してしまう)。
僕が思うに、音楽と歌詞の関係性というのは、あくまで原点に過ぎないのかもしれない。
基本的な関係性。あるいは関係性を表出させるための出発点としてのマテリアル。

その関係性を僕はこれからも大切にしていきたい。
そのポイントを見定めて「優れている」か否かの判断も重要だと思うからだ。
そのポイントが軽視されてはいないだろうか。ミュージックステーションの30周年の特番を観ていると、そんな風に感じられなくも無い。

純粋に、音楽が好きな一人のリスナーとして、これからも素晴らしい音楽に出会いたいと思う。

余談だが、今聴いているのはBattlesの新作「La Di Da Di」。
インストゥルメンタルで音と音との組み合わせが、洪水のように脳内に溢れていく。リズムが、読めない。
なのにアルバムを聴き終わると、何だか自分が再編されたかのような錯覚に陥る。

ああ、僕は音楽が大好きだ!

言葉、ことば(2015年4〜6月) 

2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

言葉探しは、楽しい。

僕にとって意味を持つライフイベントが目白押しだった2015年4〜6月。
素敵な人にも会えたし、懐かしい友達にも再会した。広島、奈良、名古屋など普段は行かない場所にも行くことができた。理屈よりは、活動を大事にした3ヶ月間だった。けれど、そうして生きる上でも言葉は当たり前のように目に、耳に、頭に入ってくる。

そのうちの一部を、下記にご紹介。

4/22
北野武インタビュー。
参考URL:http://www.cinra.net/interview/201504-kitanotakeshi

リタイアを控えた人によく言うんだけど。「リタイアした後に何かやろう」としてもダメなんだよね。どうせ続かない。働いているうちから会社にウソをついてでも遊ばなきゃ。それでリタイアすれば楽しくなるし、困らない。だって好きなことをやるだけでいいんだもん。

北野武監督の最新作『龍三と七人の子分たち』を前に、インタビューを受けた北野武。上記はその後半なんだけど、実は前半の方が読み物としては面白くて。芸人・ビートたけしが垣間見える編集の妙は、「たけしがやるなら仕方ねえなあ」と思わず笑ってしまうような内容。「たけしがやるなら仕方がない」「堀がやるなら仕方がない」。そういう風に生きていかなきゃ面白くないよなと。

 

4/23
チームラボ・猪子寿之インタビュー
参考URL:http://logmi.jp/35472

僕らは、チームラボという社名どおりチームでものをつくるんだけれども、僕自身もそうなんだけれども、個人で考えたり個人で作業をするというよりは、チームで考えてチームで作業しながらまた考えていくという、結構共同作業的なことが仕事のほとんどなんだけれども、あんまりチームで何かものをつくるとか、チームで何かアウトプットするということと真逆なんだよね、今の教育は。 例えば宿題は個人でやりなさいだし、テストなんて共同的にチャレンジしたら捕まっちゃうじゃない。でもそれ意味がわからないわけじゃんね。別にコピーで済むような問題を出すほうが悪いというか、コピーで済むようなことはコピーしたほうがいいじゃん。 だから全く概念が違っていて、個人で何かアウトプットを出すよりも、共同的で創造的なアウトプットを出すことを大人になってすごく求められているのにそういう場がない。なので、せめて学校の外で遊ぶような場所をつくって、そこを共同的で創造的な体験をする場所にしたい。 3歳と5歳の子どもがいる社員が自分の子どものためにつくりたくて始めたというそういうプロジェクトです。

これはちょっと目から鱗だった。
コピーで済むことの意味というのを、僕はあまり考えていなかった。
全部が全部チームでやることの意義はさておき、教育の世界に限れば、どういう課題を設定するかは教育者側に委ねられている。その彼らが「はい、今日は単語テストですよ〜」「カンニングはもちろんダメですよ〜」みたいなことを何の疑念も無く行なうことの危うさを感じられるテキストだなと。

 

4/28
TV番組「Get Sports」ダルビッシュ有のインタビュー。「なぜストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強をしているのか?」という質問に対して。
参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=KuAAuwRAwjs

「こういうところで差をつけていくしかない。(メジャーの選手と比べると差をつけるとしたら)頭でしかないから。知識とか知恵とかを持っておかないと、そいつらと同じレベルだったら良いんだけど、勝つにはこういうことをやらないと絶対無理だと思います。日本人はどんだけ才能を持ってても絶対無理です、メジャーのトップになるには。僕には責任があると思う。どの選手に対しても。すごく才能があっても怪我をしてダメになった人はざらにいるけれど、例えば障害を持ってて野球をしたくてもできない人も絶対いると思うんですよ。その人たちがもし野球ができたら、こういうこと(ストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強したりすること)をすると思うんですよ。全部に全部を賭けてやると思うんですよ、それだけ思いが強いから。それをやらない人たちは甘えだと思う。僕はそこが根本にあるので忘れないようにしているし、だからなるべく野球では一番上にいきたいと思うけれど、責任を持って色々やらなくちゃいけないと思います」

YouTubeのコメントで「天才が努力をする」という言葉があったけれど、僕のような凡人から見ると、その行為はしごく脅威に感じる。圧倒的に「勝てない」感を感じさせるからだ。
だけど、どこに目標を設定しているかによって、ダルビッシュのコメントはその通りだと思うわけです。勝てる領域で、勝てる努力をする。負けてられないなと思うのです。

 

5/20
宇野維正さんのツイート。
参考URL:https://mobile.twitter.com/uno_kore/status/580250224054038528

「海街diary」試写。大体みんなスッピンで、大体みんな汗ばんでて、4人ともただごとではなく魅力的。是枝監督、女好きだよなー。最高でした!

音楽や映画の世界を中心にジャーナリスト・エディター・ライターとして活躍している宇野さん。ロッキング・オンに所属されていたときから、僕は彼の文章が大好き。言っちゃえば、「分かるやつだけ、分かれば良い」というようなアンニュイな姿勢は、ロックを語るライターとしてあるべき姿かもしれないとさえ、若かりし少年・ほりそうは思ったものだった。
そんな宇野さんが、肩の力を抜いて「海街diary」についてツイート。もう観るっきゃ無いでしょ、という感じは流石だなと。

 

ある程度、心に余裕があることは大事です。
緊張しながらでは言葉が「刺さる」余地が残されていないから。「待つ」ほど仰々しく構えるつもりはないけれど、不意な出会いを受け入れる余地がある程度に、これからも言葉探しをしていきたい。いよいよ、来月は31歳になるなあ。

言葉、ことば(2015年1〜3月)

言葉って不思議です。言葉だけでは意味を持ちません。受け手の解釈が重要で、そこから意味あるいは価値が発生します。僕にとって重要だった言葉が、あなたにとって重要だと思いません。その逆も然り。あるいは僕にとって重要だった言葉が、あなたにとって人生を変えるくらい重要である可能性もあるわけです。

少し前のエントリで書いた通り、前四半期で感じた言葉について書きたいと思います。
言葉って、やっぱり武器にもなるし凶器にもなる。「武器」って、捉え方次第だなあ。うーん、難しい。

1. 2015/1/5
普段の会話の中で。

先輩の家では廊下に本棚があって、1000冊以上の本が並んでいた。そこで育つ子どもは自然に本に触れることができるし、家族と色んな本を共有できる

紙の本や電子書籍の話をしていたときの話でした。何だか素敵な生活だなと印象に残り、このブログでもシェアします。
本に限らず、音楽や視聴メディアなどがパーソナライズされていくと、人にシェアする機能はTwitterやFacebook、まとめサイトなどに移行されます。それは悪くないのだけれど、意図しないナチュラルなシェアにも価値があると思っています。
前の会社でも、ビジネスに関する書籍が会社の本棚に並んでいました。新入社員だった僕は、「こういう本を読まなくちゃいけないんだな」という思いに駆られました。広島カープに復帰した黒田博樹投手も、「男気」という生き方のシェアをナチュラルにしています。人間は、社会の中で相互依存せざるをえない生き物なので、日々何に接しているかというのは本当に大事やなと思いました。

 

2. 2015/1/18
やる気は5秒で死んでしまう。テレビ司会者のメル・ロビンス(Mel Robbins) 氏の言葉。
参考URL:http://logmi.jp/32799

リスクを冒すのではなく、居心地が良いところから抜け出すのです。ベッドから出た後の3秒間は最悪ですよね。でも一度起きてしまえば、最高です。このような会場で座っていて、誰かが「立って、一緒に踊ろう!」と言った瞬間、あなたは「あぁ、私は踊るべきだわ」と思います。でもすぐに「でも……」となってしまうのです。やりたいという衝動があったのに、それを強制的にさせるための活動的エネルギーを出さなかったという経験は、まさに緊急ブレーキが作動したときです。「ここに座っていよう。あんなクレイジーな人たちと踊ったりしないわ。踊るのは好きじゃないし……」。

(中略)

もうひとつ使えるもの、私は「5秒ルール」と呼んでいます。人間の頭は、人の表情を33ミリ秒で判断することができます。かなり速く働きますよね。もうひとつ速くできることは、もし何かやりたい衝動があっても、それを5秒以内に行動に移さなければ、緊急ブレーキを作動させるということです。そしてそのアイディアは死んでしまいます。立ち上がり、バンドが演奏している間に踊りたいという衝動があっても、5秒以内にそれをしなければ、緊急ブレーキを引いてしまうのです。もし今日誰かのスピーチを聞いて、何かをしようという衝動にかられてら、5秒以内に、ノートをとる、自分にメールを送るなど、実際に何か行動をしなければ、緊急ブレーキを引いてしまいアイディアを殺してしまいます。問題はアイディアではないのです。問題は実際に行動しないということです。あなたがそれを殺してしまうのです。

これはすごく分かりやすいし、実感としても正しいものだと思いました。
早起きにせよ、仕事終わりのトレーニングにせよ、「ああ、面倒臭いな」と思ったら最後です。5秒以内に行動すること、これはシンプルで強力なメッセージのように思います。(未だ実践できていませんが)

 

3. 2015/1/31
バカリズムと三遊亭円楽(6代目)のやり取り。バカリズムの「僕はリアリティについて聞きたい。僕も師匠と一緒でコンビでなく一人でやることが多いが、コンビよりもリアリティを演出する、リアリティのある作り方が難しいんですけど、一人で細かくリアリティを出す演出を出すっていうのは(どうすれば)」という問いに対して。
参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=ac4d5UrYEXA

例えば蕎麦を食べるときの所作、普通はこう(盛りそばを口元まで運んで)見せる。だけど柳朝師匠に言われたの、楽太それじゃ蕎麦が入っていかねえよ。ここまで行けと(目の上くらいまで)。だけど現実はそこまでいかない、これは誇張だよね。これはリアリズムじゃないもんね。いい加減なところがあっていい。ちょっと破れてるくらいがね、お客様の方で勝手に(想像を)張り混ぜにしてくれるから。(中略)ファジーな部分があると、柔らくなって面白く伝わると思う。(リアリティを出し過ぎると)芝居になっちゃう。

前回の博多華丸大吉に続き、お笑い界からのエントリ。
芸をより良く見せることに対して、ベテランの円楽師匠は本質的なことを言っていると思いました。

これはビジネスにも、小説にも言えることも知れません。
つまり、僕自身のリアリティと受け手の感受性との間に、ギャップというものが常に存在するわけです。誇張することで腑に落ちたり、オーバーリアクションすることでメッセージが伝達したり。村上春樹も読者の想像力をとても信頼しています(そう僕は感じます)。プロフェッショナルの一端を垣間見た気がするのです。

 

4. 2015/2/1
日本にて行なわれた、イチローのマーリンズ入団記者会見において。
参考URL:http://full-count.jp/2015/01/29/post7640/

(若く将来性のあるマーリンズ外野陣のバックアップが役割と見做されていることについて)そのことはもちろん分かっていますし、4番目の外野手であるというのは想定内のことで。なかなか3番目、特にアメリカでは40(歳)を越えた野手にポジションを与えるということは……、その時点でカットされる、年齢を見ただけでね。そういう傾向がありますから、4番目というのは何の問題もないことで……。3番目を望むというのはそんな自分はどうかなと思いますけどね。5番目ではそれはつらいかもしれないですけど。

「応援してください、とは言わない」という言葉が広まりましたが、僕はむしろこの言葉にプロフェッショナルを感じました。期待される役割は誰しもある。けれど、それに甘んじないのがイチローなのです。

例えばアマチュアの僕が小説を書くとして、何かの新人賞に引っ掛けるために小説を書こうとするのか。それとも1000年に1度残る小説を書こうとするのか。どちらも真剣かもしれないけれど、スケールが変わるような気がします。現状や少し先の未来に迎合するのでなく、僕は後者でありたいと思いますし、そこはエゴの張り過ぎかもしれないけれど全力を尽くす(クオリティが例え追いつかないにせよ)道を選びたいと思います。

その道を信じるのであれば、ですが。

 

5. 2015/2/7
村上春樹「村上さんのところ」
参考URL:http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/05/073700

<質問>
僕は40歳ですが、ずいぶんと想像力や記憶力が減退して来ていることを実感しています。村上さんは僕より歳上で父と同学年ですが、『1Q84』のような創造の塊のような進歩的作品を生み出しました。なぜそのようなことが可能なのでしょうか。

<村上春樹の回答>
十年先のことを考えてみてください。五十歳のあなたはきっと「十年前はおれもまだ若かったよな」と思われるはずです。そういう(まだ)若い日々を、老いを愚痴りながら生きていていいんですか? 腰を上げて何か新しいことに挑戦してみてください。四十歳なんて、そんな老け込む歳じゃないですよ。がんばらなくちゃ。

5月末まで掲載されるという期間限定サイト「村上さんのところ」。朝と昼と夜に、このサイトを見るのが楽しみになっています。
質問主の悩みは、僕もすごく分かります。そして20歳になったばかりの頃、可能性が限定されていた自分に嘆息した記憶もあります。「俺はこの彼女(当時付き合っていた女性)と何年後かに結婚して、のんびりと余生を過ごすのかなあ」みたいな。全然違う人生を歩みましたし、20代で持っていたエネルギーや感受性は微笑ましくもあります。

村上春樹の言う通り、失ってしまったものに思いを馳せるより、失ってしまった後に生えてきた草に水や栄養を与えて、後世に残るナニカを作っていきたいものです。それがクリエイティヴってものでしょう。

 

日々の忙しさに追われてしまうと、印象に残る言葉が、記憶から溢れてしまいます。
心の中に、個人的なゾーンを残しておくこと。これを意識しながら、2015年度も頑張っていかなくちゃ。