好きじゃない言葉

僕は、あまりニュースソースに反応しないようにしている。
それでも人間なので、ニュースを見ていると何らか喜怒哀楽の感情が自然に湧いてしまう。
喜び、楽しみのポジティヴな感情は良いけれど、怒りや哀しみのネガティヴな感情はいけない。

語弊があるね。
怒りや哀しみの感情自体が悪いのではない。
それが負の連鎖に繋がってしまい、根源的な「怒り」「哀しみ」と乖離してしまうといけないのだと思う。

卑近な例を挙げて説明してみる。
・ポケットに入れていた1万円札をどこかに落としてしまった。ものすごく悲しい。
・ついてないと自分自身を嘆く。日々疲れていたせいで、注意力が散漫だったのかもしれない。
・日々の疲れは何のせいだろうか。仕事か?人間関係か?夏の暑さのせいか?
・そう言えば、今年の夏はとりわけ暑い気がする。温暖化の影響だろうか。
・温暖化を生み出すメーカーは悪だ。これまでずっと業績が良かったけれど、たまたまコンプライアンスの問題が報道されている。
・結果的に、僕はそのメーカーを憎む。匿名のメディアでデマを流し、負の連鎖を拡散させる。僕の中で負の連鎖を留めておくことなどできない。

もとは、1万円札を不注意で落としてしまったことに端を発している。
それがみるみるうちに負の連鎖が大きくなってしまった。「怒り」「哀しみ」を押し殺すとストレスになるので、適度に発散するのは良いと思う。だが、それが内なる感情という枠を逸脱して広がってしまうのは良くない。手に触れる様々な物事が「個人メディア」になりうる時代に、注意しなければいけないことだと個人的には思っている。

さて、今回のエントリはそれを延々と語るためのものではない。
東京オリンピックのエンブレムとして、佐野研二郎氏のデザインが採用されたこと・されて以降のことを厚めに言及していきたいと思う。

まあ、賛否両論だったのだ。
僕自身は「可もなく不可もなく と言うよりは やや素晴らしい寄り」という感想だ。つまり「賛」の立場にある。だけど世の中には多くの人間がいて、「1964年のデザインの方が潔くて良い」「Tの視認性が低い」「シンプルに格好悪い」「ピンと来ない」など「否」の感想を持たれる方も少なくない。

それ自体は悪いことだとは思わない。
デザインとは難しいもので、万人を納得させられるものを拵えることは至難の技だからだ。
Appleのデザインは優れていると言われているけれど、機能もそれなりにユーザーを満足させる出来になっている。プロダクトデザインには、機能という付加価値としてデザインが活きてくる。だからこそ、「良い」ものであればファンも納得できるのだ(それが至難と言えば至難なのだが)。

一方で、「まだ何も出来上がっていない」東京オリンピックのデザインが先行して作られているわけだけど、そこに価値を見出そうとするのは、もともと不自然なことだ。賛否両論が生まれやすい環境にあるんだと思う。

そもそも「良い」ものは賛否両論のいずれも出てくるものだと僕は思う。
村上春樹の小説だって、今でこそ市民権を得ているけれど、昔は賛否両論だったと聞く。村上春樹本人も、「日本の文壇の中ではずいぶん冷遇された」という類のコメントを残している。僕の友達も「春樹の何が面白いか判らない」「答えが無いから読んでいてモヤモヤする」ということを言っている。友達と共通の話題で盛り上がれないのは残念だが、そういうもんだと思う。万人が優れていると思うものなど、実は幻想なのだ。サザンオールスターズくらいではないか?

また話が脇道に逸れた。
僕の「好きじゃない言葉」の話だ。

「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」。
人間の思考停止を誘発する言葉。ネガティヴな印象しか与えない言葉。クリエイティヴを馬鹿にするような言葉。クリエイターの勇気を奪う言葉。

クリエイティヴな作業をするとき、誰しもが自分に影響を与えたものを意識せざるを得ないと思う。
自分に直接的に影響を与えていなくても、インプットの数が多ければ多いほど、自分の中の引き出しには様々な可能性が生まれている。全く新しいものなど、インプット無しには生まれない。たくさん参照するものが多い中で、組み合わせたり、何かを引き算したりして生まれるものだと思う。

クリエイターの真鍋大渡も言う。http://www.creativevillage.ne.jp/2776

斬新なものをアウトプットするためには、まず類似研究や先行事例といったものを過去に遡ってリサーチすることが必要ですね。Perfumeのプロジェクトでも先行事例を共有するところから始まり、そこからどうやって新しいものを作っていくかということをまずは考えます。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉のように、できる限りのルーツを探ってそのコンテキストの中でも解釈されるものであることが嬉しいし、さらにはその流れの先に行きたいと思っています。

その足し引きの「もと」になるものを指摘して、「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」は本当にクリエイターの才能を馬鹿にしているし、やる気も勇気も削いでしまう。

物を作る、ゼロから新しいものを生み出す。
アマチュアでもプロフェッショナルでも、このクリエイターなプロセスは絶対的にユニークだし、誰かにやんや言われる筋合いのものではない。アウトプットは賛否両論を生むかもしれないけれども、盗作疑惑の批判は軽々しく口にするものではないと僕は思う。

文字をあしらったデザインだとしたら、アルファベットやひらがなのパクリなのだろうか?
ひらがなのもとになったのは漢字だ。じゃあ、ひらがなは漢字のパクリなのだろうか?

僕が懸念していること。
「盗作」だったり「斬新さ」を恐れて、クリエイティヴが進化しないことだ。
過去のもので優れたデザインは確かにある。だけど、社会は様々な進化を遂げているし、価値観も大きく変容している。デザインやクリエイティヴがその変化についていけず、無難なものだけをアウトプットするようになったとき、そのときこそ僕は、「過去を盗作しているだけ」と糾弾してやろうと思う。

追記:
Bubble-BさんのFacebookでシェアされていたブログ。
ここで書いていたようなことが、最悪のケースで発生しうること(「パクリ」と告発するリスクが少ないことが理由)が簡潔な言葉で書かれていた。うーん、考えさせられる。
personalogs.「東京オリンピックのロゴを巡る騒動を見て、改めて著作権侵害の非親告罪化はヤバいと思った」

Apple Musicあれこれ雑記

CI1mFPwUMAAvnID

昨日は仕事を早めに切り上げることができたので、帰宅後にApple Musicを試してみた。
思えば、定額音楽配信サービスはずっと前から恋い焦がれるように待ち侘びていたサービスだったし、そのプロバイダはAppleでなければならなかったと思う。
Appleには自分の音楽観を預けることができるし、そしてアップグレードしてくれる予感がある。音楽を「ビジネス」として捉えている会社に、自分の音楽観を預けることはできない。

音楽ファンなら誰しも、ザッピングが止まらなくなってしまうだろう。
少し判りづらいところはあるけれど、何も気にせず音楽に触れることができる。

この感覚は、最初にiTunesが世の中に登場してきたときと似ている。
あのときは、たったの30秒しか視聴できなかった。けれど、好きな音楽を自在に見つけることができた。それに似たような自由な感覚。Pharrell Williamsの新曲「Freedom」がいきなりミュージック・ビデオ付きで楽しむことができるのも、素晴らしき時代かなと思うわけです。もちろん忌々しい5秒の広告も流れない。

そんな中で、Appleが「ファミリーメンバーシップ」を導入した理由を何となく感じた。
Apple信者と揶揄されるかもしれないし、既にどこかで誰かが言っている意見かもしれない。的外れだと笑われるかもしれないけれど、思い立ったが吉日。とにかくメモしてみる。

***

その1:「お金を払って音楽を聴く」ことの意義
音楽について、親が子どもに教えるべきことがある。
例えば、音楽はクリエイティヴなプロセスを経て生まれるリスペクトすべきものであり、ゆえにアーティストやレーベルに適切な収入をもたらさなければならないこと。でなければ、そもそもアーティストは音楽を作ることが困難になる。

感覚的には、音楽は水と同じようなものかもしれない。水と同じようにどこにでもあるものだから、音楽=無料という構図も分からないではない。
その証拠に、若者がCDや音源に対してお金を支払わずに、無料のYouTubeで音楽を聴いているらしい。あるいは違法にアップロードされたサイトで音楽を「落とし」ているらしい。
若者に限らないかもしれない。わざわざお金を払って音楽を聴いている人が、確かに僕の周りでは少なくなった気がする(音楽フェスに行くことは別として)。

親がこのサービスを使うことで、子どもは間接的に音楽に対してお金を支払うことになる。
子どもの頃から、こういった習慣を身に着けることができること。そんな子どもが増えることは、クリエイティヴな職業に携わる人間にとって素敵なことだろう。

その2:没入感の提供
YouTubeで音楽を聴いていて感じる、約5秒の動画広告。
音楽が好きな僕にとって、この瞬間は本当にウザい。お金を払っても良いから音楽だけを聴きたい。何度思ったことか。

「ウザい」と思わない人も世の中には多いだろうと思う。
音楽を聴くには、最初の動画広告を経るのが自然だと感じる人も増えているかもしれない。テレビ番組とテレビCMが切り離せないように。

僕はもっともっと、純粋に音楽だけを楽しめることを重視したい。
1曲だけでなく、1枚のアルバムを通して聴くこと。プレイボタンを押したら、後は目を瞑って音楽だけを楽しめること。
親が「ファミリーメンバーシップ」に入り、子どもとIDを共有できるならば、子どもはYouTubeを観る必要がない。良質かつ正規にアップロードされた音楽を心置きなく楽しむことができるのだ。

その3:未知の音楽に出会えること
これは現在、SoundCloudを始め多くの音楽サービスが価値を提供してきている。
僕たちはテレビ、ラジオ、雑誌などに頼ることなく、ごく自然に様々な音楽に触れることができるようになった。

Apple Musicは、それを更に高めることが価値になる。
アーティストとアーティストの繋がり、視聴履歴からレコメンド、Beat1のクオリティ。
個人的には、iPhoneだけでなく、iPad、Macそれぞれでサービスを最適化してくれたのが嬉しい。

その4:家族全員による共通の音楽体験
上述したことと重複するかもしれないが、これが充実していくと本当に面白いサービスになると思う。
音楽とは、個々が楽しむものである一方、気軽に共有できる側面がある。

「お茶の間」という言葉は死語になってしまったけれど、かつての「お茶の間」にはテレビがあって、テレビ番組や音楽が流れていた。
その中で家族がみなで楽しめる音楽というのは共通言語として価値が生まれたし、それが家族を超えて派生していくとミリオンヒットになる。
1990年代のミリオンヒットナンバーを誰もが口ずさめるのは、家族単位で共有したことが記憶として残っているということもあるだろう。

Apple Musicが、より家族を巻き込んで音楽体験を共有できると素敵になる。
反抗期の中学生にはうっとうしいかもしれないが、お父さんの渋い選曲や、お母さんの80年代のポップ・ソングは思春期にとって少ならからぬ刺激になるはずだ。

一人一台のインターネット・マシンが、Apple Musicをきっかけに開かれた存在になるかもしれない。もともとiPhone、iPad、Macはクリエイティヴな作業が可能な機器であり、それがApple Musicがきっかけとなったとしても何の不思議もないと思うのだ。

***

このように、Appleは音楽のあるべき姿を明確に定義できている。
「ユーザのPVが上がった」というように、ユーザ動線を意識したサービス作りを、彼らはたぶんしていない。

もっと使いやすくなれば良いのに…と思うものの、これは全く新しい音楽体験として機能していくに違いない。

ようやく、大学生のときに夢見た、音楽体験の入り口に立つことができた。

読書メモとか、映画メモとか、音楽メモとか

だいぶ前からHuluを契約しているんだけど、わりとダラダラと視聴してて記憶に残っていないことがしばしば。読書メモも含めて、マメに感想などメモしておきたいなと思った次第。

とは言え、巷にある映画や読書レビューって、悪口になりがち。
「俳優が大根」とか、「著者が何を意図して本を書いているか判らない」とか、けっこう酷いレビューも多い。確かに酷いなと思う作品もあるけれど、制作に携わっている全員をテーブルに並べたとして、一人くらいは必死で、良い作品にしようと思っているはず。

制作者の側に肩入れするわけじゃないけれど、これからは「作り手」がイニシアチブを持てる時代。そのクオリティの高低は問題じゃなくて、何かを「作ろう」という意思が大事。

批判するのは簡単。
百歩譲って、100%批判するのであれば、ブログに書かずに心に留めておけば済む話。
僕も小説を書いているわけで、批判は辞めてほしいと言っているわけじゃない。
だけど、批判を恐れて中途半端な作品を作られるよりは、100人中1人が面白い、それくらいにエッジの効いた作品を僕は待ちたいと思う。『トレインスポッティング』だって『1973年のピンボール』だって、大衆に迎合して作られたわけじゃないはず。でも、むっちゃ面白い。

そういうのを胸に刻みながら、なおかつ自分の芸の肥やしになればと思いつつ、これからちょくちょく読書メモとか、映画メモとか、音楽メモとか書いていきます。

ただ僕のことです。かなり偏ると思うけどね。笑

そうそう、 Apple Musicも出ることだし。定額音楽配信サービスの中では、もうダントツでAppleだって思ってる。

[#86]今こそ『SNOOZER』を振り返る その1(2011年8月号)

snoozer #86

snoozer #86

■基礎情報
表紙
・くるり

ヘッドライン
・CLUB SNOOZER SUMMER TOUR
・TYLER, THE CREATOR
・HOTEL MEXICO
・BRIAN ENO
・CSS
・UNIT 7TH ANNIVERSARY FEAT. WIRE
・THE SOLOIST
・RADIOHEAD
・PRIMAL SCREAM(後半に掲載)
・野田努が田中宗一郎に訊く、スヌーザーの14年(後半に掲載)

インタビュー(前半)
・James BLAKE(田中宗一郎)
・THE HORRORS(小林祥晴)
・Bon IVER(岡村詩野)
・Black LIP(小林祥晴、田中宗一郎)
・Wu LYF(小林祥晴)
・Washed OUT(小林祥晴)
・THE BAWDIES(田中宗一郎)
・ロックブッダ(田中宗一郎)
・The MIRRAZ(田中宗一郎)
・踊ってばかりの国(岡村詩野)
・Atari Teenage Riot(唐沢真佐子)
・Brother(田中宗一郎)
・Dagitalism(小林祥晴)
・Battles(田中宗一郎)
・Kaiser CHIEFS(小林祥晴)
・Turntable FILMS(田中宗一郎)
・くるり(田中宗一郎)

インタビュー(後半)
・the naked and famous(小林祥晴)
・das pop(田中亮太)
・miles kane(妹沢奈美)
・skeletons(小野島大)
・mona(小林祥晴)

RECORDING reviews
・andymori『革命』(田中亮太、岡村詩野、田中宗一郎)
・ウォッシュト・アウト『ウィズイン・アンド・ウィズアウト』(田中宗一郎、野田努)
・ザ・ホラーズ『スカイング』(坂本麻里子、野田努)
・CSS『ラ・リベラシオン』(田中宗一郎)
・ボン・イヴェール『ボン・イヴェール』(坂本麻里子)
・ブラック・リップス『アラビア・マウンテン』(田中亮太)
・マイ・モーニング・ジャケット『サーキタル』(坂本麻里子) etc…

その他
「野田努が田中宗一郎に訊く、スヌーザーの14年」は、あとがきである「すべてのブルーにこんがらがったベットルームのために」まで侵食して綴られている。

■SNOOZER#86を読んで…
プロダクトアウトか、マーケットインか
#86の基礎情報をざっと眺めるだけで、改めて雑誌というメディアの情報量の膨大さに気付く。
読者にとって一覧性という価値がある一方、全184ページのそれは決してユーザフレンドリではない。邦楽ファンは、くるりやTHE BAWDIESのインタビューを見て「終わり」になる可能性があるということだ。ロッキング・オンがTwitterアカウントを洋楽邦楽で分けたように、日本の音楽ファンの関心は二分している。

今の洋楽の現状は嘆かわしいとしか言いようがないですね。まず、聴く人が減っている。それはリスナーを導く「入り口」がなくなっているからです。かつては洋楽を専門に紹介するようなラジオメディアがあった。今はそんな番組はほとんどないし、ラジオのリスナー自体も減っている。洋楽に触れるチャンスがなければファンが増えるはずがない。
http://musicsommelier.jp/interview/interviewonuki.html

(以下安直だが)マーケティングの観点であれば、邦楽ファンに媚びるなら邦楽コンテンツを増やせば良いし、洋楽ファンに媚びるなら熱心な音楽ファンが聴くアーティストを取り上げれば良い。プロダクトアウトで「ものづくり」をする時代は終わった。マーケットインを徹底すれば売り上げが伸び、雑誌は休刊しなくて良い。良いこと尽くめではないか。

でも、田中宗一郎(以下:タナソウ)は、その道を選ばなかった。

野田努との対談で『SNOOZER』を創刊した理由と共に、断片的に理由を語っている。

(野田努の「大衆性みたいなところに不満を覚えてたじゃない。やっぱり細分化ってところでさ」の発言を受けて)『スヌーザー』が終わることと一番関係があるんだとすれば、そこだよね。俺は、雑誌っていうのはあくまで不特定多数の読者の持ちものであって、その帰属意識に訴えかけるものなんだと思ってた。でも、それって、前提として、ある種の大衆性が一夜にして生まれ得る可能性というのがひつようなわけじゃない。それが失われていく、分断化されていく時に、雑誌が読者の持ちものじゃなく、自分の持ちものになっていく。でも、単に一方通行的に自分のメッセージを投げかけるものになったら、それは『スヌーザー』でなはなくなってしまう。『君達が無意識下で待っていたのはレディオヘッドだよね?ストロークスだよね?』ってことをやるのが、『スヌーザー』の目的だと思ってたから。でさ、創刊号作ったわけよ。したら、1000枚近いハガキが来た。『待ってた!!!』っていう。

SNOOZERが復刊しない現状、the sign magazineを脈々と運営していることを鑑みると、雑誌という「メディア」は諦めるが、タナソウを始め編集部の「意思」が決して廃れていないことを感じる。

 
SNOOZERの「意思」とは?
野田努とのインタビューには、その答えとなりそうな事柄が書かれている。
敢えて遠回りに、その「意思」のかけらを探そうと思う。

SNOOZER#86では、インタビュアーがこのような問いをアーティストに投げ掛ける。

あなたにとってこのアルバムは、一番何をリプリゼントしていると思いますか?
「ホラーズというバンドにとっての、大きなステップをリプリゼントしていると思うんだ。(中略)本当に、いろんな可能性のドアが開かれたんだ。それに、僕らは他のバンドがやろうとしないことがやれるバンドなんだ、っていう強いメッセージを伝えるレコードだとも思う。
(interview with SPIDER WEBB from The Horrors)

このアルバムであなたは何をオファーしようとしているのでしょうか?
「アメリカ音楽の財産について語るのは、興味深いね。今は変な時代だと思うんだ。60年代を振り返ると、ローリング・ストーンがいて、ビートルズがいて……ま、どっちもイギリスのバンドだけど(笑)。とにかく、ああいった音楽ムーヴメントがあったわけだよね。でも今の音楽の流れを見ると、もうあんなインパクトを一つのものが与えられるとは思えなくて。(中略)今は、『コミュニティの強さが自分の強さであり、同時に人は、そのコミュニティの中で強い個人でなければならない』ってことを理解するべき時代なんじゃないかな。僕が音楽で表現したいのはそこなんだ」
(interview with Bon Iver)

あなたから見て、理想のポップ・ソングとは?理想のポップ・ソングにはどんな要素が必要だと思いますか?
「かなり難しい質問ね。素晴らしいポップ・ソングがたくさんありすぎるし、それを構成する要素も数え切れないほどあるから、1曲には絞れないな。聴いた途端に感情が伝わってくるもの、普遍的な感情に語りかけてくるものじゃないかな。私は聴いてて、どこか懐かしくなるような音楽が好きなんだけど(中略)」
(interview with ALISA XAYALITH from the naked and famous)

アーティストに対して、「(曲やバンドが)リプリゼントしているのは何か」、「ポップソングとは何か」、「(聴衆に)オファーしたいことは?」と問う意味は何だろうか。
Bon Iverのインタビューでは、60年代のムーヴメントの言及があった。作品を時代毎の「点」として表現するのでなく、過去から現在にかけて「線」の中でポジショニングさせるという意図があるのではないかと思う。

くるりとのインタビューで、フロントマンの岸田繁は、新メンバーの吉田省念(2013年4月まで在籍)の印象を次のように話している。

「『90年代のものって聴いてないやろ』って。そしたら、まったく聴いてない。通ってない。世代は近いのに。オアシスの何が素晴らしかったか、っていうことを、俺は力説して。それはビートルズとか、ローリング・ストーンズとか、フーとか、その辺の人達が歪まへんギターで、なんとかコーラスを積んだりとか、ベースの人がメロディっぽいことを弾いたりとか、いろいろやって、(中略)俺らは聴いたから、そういうもんやと思って、爆音 で”虹”とかやってる。『だから貸すよ、90年代の』って」

 
参照マニアのタナソウ
投稿プラットフォームサービス・note「くるりの一回転」(タナソウが執筆)の第4段落でも「積極的に過去の音楽を参照しようとするアティチュード」が語られている。

椎名林檎、aikoなど、いわゆるJ-POPのアーティストも挙げている。椎名林檎は60~70年代の歌謡曲+40年代のスウィング・ジャズ/ジャズ・ヴォーカルを、aikoはキャロル・キングを。aikoの音楽ファンでさえ、どれくらいキャロル・キングの影響を感じているだろうか。

そう、SNOOZERでは、アーティストのインタビュー内に、頻繁に過去の音楽のことが言及されている。
これはどの雑誌にも共通することではない。複数のインタビュアーが意図的に行なったことだと推察されるし、つまりSNOOZERの編集意図なわけだ。

冒頭のプロダクトアウトかマーケットインか、という話に戻る。
「この音楽は参照が多いんだ、素晴らしい、お金を出してCDを買ってみよう」というストーリーが描かれることはないだろう。マーケティング戦略として成立しないことを意味する。

 
タナソウは嘘つきか
アンサー:タナソウは嘘つきだ。
#86でもたびたび記述のある「メディアガイド」について。3年以上経った今でも、1冊たりとも発売されていない。タナソウのTwitterなどで本件に関する言及はあったかもしれない(『リトルモア』のウェブサイトには特に言及はない)。僕は待っていたし、そういう元読者は多いだろう。

僕の記憶だと、タナソウは過去にも大風呂敷を広げたことが多かったように思う。
「もうクラクソンズしか愛せない」(#59)と言ったはずなのに、田中宗一郎の「生涯ベスト・ソング11」には含まれていない。それはおろか、SNOOZER発刊以降の音楽が1つも含まれていない。Radioheadの「Lift」は発表すらされていない。

ただ、そもそも「嘘」とは何だろうか。
「嘘」、「幻想」、「虚構」、「フィクション」など類義語がある。単体ではポジティヴにもネガティヴにも振り切らない。
タナソウの成否は保留する。そもそもタナソウの功罪を露わにする旅ではない。

 
3.11以降の音楽
視点を変えて。RECORDING reviewsにて、磯部涼が書いた中川敬「街道筋の着地しないブルース」に3.11の言及があった。

3.11以後、歌が違って聞こえるようになったという人は多いと思う。筆者がそれをはっきりと認識したのは、3月15日に自分のオーガナイズで七尾旅人にライヴをやってもらった時だった。(中略)中川敬の弾き語りによるソロ・アルバムも同様である。石田正隆のライナーノーツによると、3.11以前に録音された曲が大半だというのに、今、聴くからには、どうしたって震災のイメージから逃れることは出来ない。

#86でSNOOZERは終わってしまったので、震災以降の音楽が語られるのはこの号限りである(2011年8月号だが、発売されたのは2011年6月18日)。くるりも社会的意義を考えたと苦悩していたし、タナソウは「音楽で社会は変えられない」と開き直っている。

何が言いたいかというと、音楽は社会と関連付けられている。
音楽をはじめとするクリエイティヴは人々の感情を揺らす。社会と切っても切れない関係にあることは、ある意味当然のことなのかもしれない。

SNOOZERの歴史を読み解くということは、1997年まで遡るということだ。9.11もリーマンショックも戦争もiPodにも関わりがある。もしかしたら神戸の震災や、地下鉄サリン事件にインパクトを受けたアーティストもいるかもしれない。これらの「事件」を改めて考えるきっかけになるだろう。

 
僕が再会した音楽
この振り返りを通じて、僕が再会した音楽をリスト化しようと思う。
「再会」と書いたが、初めて聴いた音楽も含んでいる(というか初めての音楽の方が多い)。

旅を通じて、たくさんの音楽に再会できますように。

Hotel Mexico「Dear Les Friends」

The Beatles「Tomorrow Never Knows」

Carole King「You’ve got a friend」

Radiohead「Lift」

■補足
バージョン
1.1

追記情報
・「SNOOZER#86を読んで…」にて大幅に加筆(下書きした内容がゴッソリ抜け落ちていました)

10月5日

ちょうど1年前の今日、僕は初めての小説『星とビール』をiTunes Storeにて電子出版しました。予想を遥かに超えて、2,000を超えるダウンロード、多くの人に読まれました。

そして「10月5日」というのは、とある方々にとっては特別な日でしょう。
Apple創業者のスティーヴ・ジョブズの命日です。僕はAppleの作品に魅了されただけでなく、クリエイティヴということに対する考え方がガラリと変わった人間です。多分僕は、どちらかと言うと左脳で物事を論理的に考えようとする人間です。ビジネスでいう、「マーケティング」などのフォーマットに、悪い意味で囚われてしまうことが多い。それだけではない、むしろそれ以上にクリエイティヴには、人の生き方を変える大きな力がある。

前述の『星とビール』でも書いたけれど、

小説や詩を書くことばかりがクリエイティヴではない。歩くこと、町を眺めること、呼吸すること。実にあらゆるクリエイティヴな作業がある。クリエイティヴな行動がある。クリエイティヴな仕事がある。

自分で言うのも何だけど、本当にその通りだと思う。
そのときは何となく書いたような気がするけど、何か考え方1つで、「あ、これってクリエイティヴな作業だよな」と思うことが多くなってきた。

それにつけても、最近、色々自分で「作る」という作業をすることが多い。
僕は「作る」ことが苦手だと思っていた。

「書く」ことは得意だったし、好きだった。科目でいう国語。
「描く」ことは全く得意じゃなかった。科目でいう図工や美術。

今でも覚えてるんだけど、「足」「足の指」をどんな風に描けば良いか分からなかった。
たまたまマグレで描けたことはあったけれど、それを再現することがどうしても出来なかった。
単純に模写すれば良かったと今は思うけれど、文章に比べると複写が難しくて、やがて食わず嫌いになってしまった。

僕は「話す」ことも得意じゃない。
考えていることの1%も伝えられなかった後、トイレで「ああ、あんな風に話題を展開すれば良かったのに」と思うこともしばしば。「話す」ことが得意な人が羨ましいと思うし、どこか妬ましいと思う気持ちさえあった。「話す」ことなど簡単だと思っていたのに、ビジネスシーンで「伝える」ことの難しさを痛感している。社会人8年目の今でも、今だからこそ難しさに恐ろしさすら覚える。

人には得意分野がある。人には苦手分野もある。
思い込みが多分にある。僕にとって、クリエイティヴな分野が、そうだ。

表現を容易にするツールやテクノロジー、テンプレートがめちゃくちゃ豊富になっている。
絵を描いたり、メロディを作ったり、動画を編集したり、小道具を作ってみたり、プログラミングをしたり。

手を動かして、形になるのが好きだ。
その過程が視えるのも楽しい。

僕にとって、10月5日は、クリエイティヴの大切さを再確認できる1日だ。
なかなかガッツリ、クリエイティヴに軸足を移す(置く)ことは出来ないけれど、俺は「作る」ことの大切さを噛み締めて生きていきたい。同じように、クリエイティヴな分野で頑張っている人を尊敬できるようになりたいとも思っている。