ロバート・ハインデル展(そごう美術館)に行ってきた

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先週、妻の好きなロバート・ハインデルの企画展(そごう美術館、横浜)に行ってきた。
そごう美術館はそれほど大きなハコではない。にもかかわらず、それなりに多くの人が入っていた。後から聞いたのだが、彼の特集がNHK「日曜美術館」で放送されていたらしく、注目を集めていたらしい。

だいたいの企画展において、ウェブサイトやポスターなどで紹介されている「1枚」が、行くか行くまいかの意思決定の判断材料になる。妻が好きでなければ、たぶん彼の企画展に行くことは無かったと思う。スクリーンショットを見ていただければ判ると思うが、これだけでは何となく彼の特徴は掴めない。加えてモチーフが「バレエ」だ。「バレエ」の愛好家であれば別だが、そうでない僕にとって関心事になるには正直なりえない(もっとも、妻はバレエをライフワークとして続けているので、機会があればバレエも観たいと思っている)。

さて、結果的に僕がハインデル作品をどう思ったか。
それを述べる前に、ちょっと話題を変えたい。このブログを書くために、ウェブサイトで色々彼のことを調べてみた。ハインデルは「現代のドガ」と呼ばれることもあるらしい。
ドガと言えば、オルセー美術館の『踊りの花形(エトワール、あるいは舞台の踊り子とも呼ばれる)』があまりにも有名だ。僕も実際にフランスを旅したときに観たし、2010年に横浜美術館で開催された企画展でも改めて観た。小中学校の教科書にも載っていたと思う。色彩、構図、躍動感、少女の立ち振る舞い。印象派ということもあって、細部が緻密に描かれているわけではない。むしろ少女が立つ舞台(グレイ)が作品の半分くらいを占めている。なのに、素人でも息を呑むような万能感は何なんだろう。レンブラント『夜警』やゴッホの『夜のカフェテラス』などでも同様の印象を持つ。仮に模写したときに、1ミリのズレも許されないような完璧な作品だ。
一方で、そのとき以来、僕にとってドガは「優秀な芸術家の一人」という域を残念ながら超えていない。もちろんそれはドガの芸術的価値を否定するものではない。僕が美術全般への素養を十分に持ち合わせていないことに起因している。そのときドガに対して強い感銘を受けていたならば、僕は5年前の関連ウェブサイトをサーフせずとも、自分の言葉で生き生きとドガを語ることができただろう。と言うかドガを持ち出すことなく、すらすらとロバート・ハインデルのことだけを言語化することができただろうに。

5年前。
僕は25歳だったけれど、まあ仕方のないことだと思うしかない。
今も十分に不完全だけれど、そのときはもっと不完全だった。
欲求は生もののまま処理するしか無くて、他人に理解されないと真剣に腹を立てていた。

ロバート・ハインデルに話を戻そう。
冒頭に「妻さえ望まなければ、彼の企画展に行こうと思わなかった」と述べた。
企画展に行く自分と、企画展に行かない自分を比べられるとして、そこには歴然と自分の感性の差が生じえただろうと思う。彼の作品は、どれも素晴らしかった。

それほどまでにハインデルの作品(当たり前だけど静止画だ)には躍動感があった。ダンサーの息遣いや、手先・足先まで張り巡らされた神経、スポットライトの眩さ、バレエという舞台舞踊が長く愛されてきた理由までが、真っ直ぐに伝わってくる。同じ作品を二度、三度観ても、そのストレートに視覚に訴えてくる感覚は変わらないし、むしろ観るたびに新しい発見があって純粋に楽しかった。

当たり前だけど、静止画だ。
ダンサーを生き生きと描ける画家は確かに少なくないだろう。
だが、それを突き詰めたときに、そこに高い芸術性が発生するんだと思う。彼はもともと天才だったのかもしれない。だけど、ただ天才なだけで、「バレエという舞台舞踊が長く愛されてきた理由」まで描き切ることができるだろうか。

画家の色彩に特徴を感じるのが僕は好きだ。
ハインデルの色彩もとても特徴的だ。赤や青や黒など、その時々に応じて色彩に喜怒哀楽を見出したデュフィのような拘りは希薄だが、たぶん感じるままに色を選んでいたんじゃないかと思う。そして、その色は時にはダンサーよりも前に出る。表情を隠したり、腕を見せなくしたり。このハインデルの意図は判らなかったけれど、それが味になっていたのは事実だと思う。

またバレエに限らず、ミュージカルや日本の伝統舞踊をテーマにした作品も展示されていた。
舞踊全体に対する彼の愛(あるいは関心)を感じた。画家であり、舞踊愛好家であり、研究者だったんじゃないかと思う。ハインデルのパーソナリティは知らないけれど、絵からは実直な性格だったのでは?と思わせる静謐さがあった。ピカソと真逆だ(ピカソが不真面目だったと言いたいわけではないです、ピカソはどこまでも大胆でダイナミックだと思うのです)。

時間の関係で1時間半も観れなかったけれど、夢を見たかのような時間を過ごすことができた。
その日の昼食は沖縄料理で、うっかりオリオンビールを飲んでしまってからの鑑賞だった。願わくばアルコール抜きの状態、思考がクリアになっているときに観られたらと少し後悔している。

さて、敢えて僕に許されるなら、僕は改めてドガの作品も見直したいと思う。
現代のドガに強い感銘を受けた僕が、引用されることの多い「オリジナル」のドガを改めて鑑賞することで、以前とは違う感想を持つと信じているからだ。

そこに甲乙は無いし、仮にあったとしても、そのときの気分次第で天秤はいずれかにも振れてしまうことになると思う。
それは「人生」という言葉を持ってすれば完結に片付けることも可能なんだけど、出来ればもう少し、しっくり再現性のある言葉で語りたいなと強く思う。ということで、言葉が適切ではないかもしれないけれど、これからも美術館巡りの感想をブログでも書いていこうと思うわけです。

参考「アートオブセッション」の画家紹介ページ
http://www.art-obsession.co.jp/artist/artist01.html

参考ブログ:
http://yukko96.blog91.fc2.com/blog-entry-921.html

追記:
Twitterで色々調べてみたら、期間は短いけれど、渋谷のBunkamuraでロバート・ハインデルの息子・トッド・ハインデルの作品も含めた企画展が開催されるのだそう。これも行ってみたいな。2015/9/3(木)~9/14(月)とのこと。
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/exhibition/150903heindel.html

ドゥフィ展に行ってきた

Bunkamuraで7月27日まで開催されているドゥフィ展に、ぎりぎりで行くことができた。

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僕が好きな画家って、ピカソとかゴッホとかウォーホルとか、色彩感覚に特徴のある人が多い。そのことに改めて気付かされたドゥフィ展だった。

評価されない時代はデザイナーとして、商業的な作品も制作していたドゥフィ。
年代順に作品を見ると、彼の作品がどんどん変遷していったのが分かる(そんな風に仕向けている感もあるけれど)。

絵画に関して僕は素人で、言葉を付け加えるたびに不適切な思いに駆られるのだけれど、日常と非日常の狭間を揺れるように描いていたドゥフィの作風には、とても心惹かれました。失礼ながら、あまり注目したことのない画家だけれど、意識して彼の作品に触れていければと思う。10月から開催される、「夢見るフランス絵画〜印象派からエコール・ド・パリへ〜」も楽しみです。

くるりと踵を返した【短編】

相変わらず時間を見つけて小説らしきものを書こうとトライしている。

でも、なかなか難しい。出版されている小説は、どれもこれも有り触れているように見えるけれど、同じように言葉を作り、紡ぎ、重ねることは容易ではないことに今更気付く。

それでも、何か書ける気がする。少なくとも、そう思える限りは何か書こう。

『くるりと踵を返した』

クソみたいなJ-POPがJAZZ風にアレンジされている。編曲家には日銭が入り、作曲家には幾らか著作料が入る。カフェで流せば、ジャスラック経由でレコード会社にお金が入る。カフェにいるのは僕で、牛すじ煮込みカレーとグラスビールを注文する。朝井リョウの『桐島、部活やめたってよ』を読む。出版社と著者にお金が入る。薄利多売の製本所にもお金が入・・・

経済はぐるりと循環し、誰もが最低限の生活ができる。それが成熟された世界の構成。牛すじをカレーで煮込むアイデアも、その世界を構成する一要素。

ホテルに戻る。昨年オープンしたばかりのホテルのアニメティは、どれも新しい。ご丁寧にマッサージチェアまで備え付けられている。座り心地は最低と普通の間くらい。この部屋は暗すぎる。少し酔いが回った状態でテレビのリモコンに手をかける。僕の手にすとんと収まらない太めのボディ。安物のセット、安いタレントが安い笑いを提供するバラエティ番組。なし崩しで行なわれる性行為のようなやり取りの背景に、ブンブンサテライツの音楽を雑に切り取ったBGMが流れる。

テレビを通してなのだろう、僕はちょっとだけ笑ってしまう。腹を抱えて笑うことは少なくなったけれど、そうして時間を潰すのは悪くない。妻も子もいない僕は、来年で29になる。もう落ち着い良い年頃らしい。フェイスブックで毎週のように繰り広げられる結婚報告、結婚式(およびその準備)、出産(およびその準備)、娘・息子との触れ合い。僕がスクリーンに向かっている時間、彼らは家庭を築いていく。

家庭を築くこと、それが社会への貢献。少しずつ、確実に、相対的に、義務を果たさない僕の価値は下がる。親も友達も僕を哀れむ。レム睡眠。

ここで、くるりと踵を返せたら、僕はどこまで時代を遡るだろう。

1年前?大学生?それとも小学生のとき?

安い藁半紙に印字された計算問題。あの頃、学校の授業は退屈で、僕は血が出るまで耳穴をほじっていた。出来の悪い女の子に汚いと指摘される。救いがない少年の目には、空の青さと女子のパンティに目が眩んだ。

いつからか出てこない魔法の配色が、僕の将来を黒く塗りつぶしている事実。黒に何を混ぜても黒いまま。どこかで借りてきた白で濡らし、かろうじてグレーを保てるのは数日間だけ。すぐに部屋は汚れた。

どんなクリエイティヴを提示しても、箸にも棒にもかからない賞レース。この年で「どうして?」と他人に相談することはできないし、愛の言葉をささいだとしても、勇気を出した後悔しか掴むことはできない。僕の夜汽車はコトコト遅い。

オリジナルじゃないんだ。
オリジナルじゃないんだ。僕は。

でも、勇気はあるんだよ。

ナンパでも自慰行為でも、勇気がないとできないんだ。前に踏み出さないとできないんだ!

なんなんだ、その論理は(笑)

(笑)なんて使ったら、また、あの娘に笑われるかもしれないwwwwwwww

おもむろにパソコンを起動して、取引先から送られてきた7GBのbmpデータに辟易しながら、それを丁寧にトリミングする。レイヤーのある風景が真実だとしても、傍から見ればたった一面しか見えなくて。その必要性は中の人にしか分からない。小学5年生は、音楽をCDでなくYouTubeで聴く。ソフトバンクの脆弱な回線に耐えながら、あの娘は、その瞬間に満足しているんだ。それはそれで正しいのかもしれない。

僕が小学5年生に戻ったとして、だけど時代は現在(いま)のままだったら。僕はきっと、あの頃と同じように、美術室の端っこで絵ばかり描いているに違いない。文字も音もない、柔らかい彩色を愉しみながら。絵筆を操りながら僕は、ゴッホやセザンヌみたいな絵を描いている。あの娘がそれを見つけて、貝が開く。声が漏れる代わりに僕は紅くなる。

今は分かる。それは青春ていうんだ。