大原美術館に行ってきた、エル・グレコ『受胎告知』凄すぎた。

2015年10月24日。
是が非でも行きたかった大原美術館に行ってきた。

31年間生きてきて、初めての大原美術館。栃木出身の僕にとって、倉敷にある大原美術館は少し遠かった。このペースで行くと次の訪問は62歳のときか。いやいや、30代のうちに、少なくとも3回は再訪したいと強く思える場所だった。
憧れが叶ったからこそ、この場所は僕にとってのfavoriteになったわけで、その経緯の一端を記したいと思う。

存在自体は知っていたけれど、大原美術館に行こうと強く思ったのは『楽園のカンヴァス』を読んだからだ。
『楽園のカンヴァス』は主要な登場人物であるティム・ブラウンと早川織江が、アンリ・ルソーのマスターピースの真贋を判定する物語。伝説のコレクターと呼ばれるバイラーの屋敷で起こる様々なドラマを描いた小説だ。原田マハの女性らしい日本語は、アートファンだけでなく、多くの読者を魅了し、結果的に彼女の代表作になっている。
『楽園のカンヴァス』の冒頭では、大原美術館内で監視員(セキュリティスタッフ)として働く早川織江のアートへの愛や、断ち切った芸術という世界への想いが描かれている。主に大原美術館内で描かれる早川織江の心模様と共に、『受胎告知(エル・グレコ)』であり『鳥籠(ピカソ)』であり『パリ近郊の眺め、バニュー村(ルソー)』が登場する。

これらの(実際の)絵画が本作に直接影響を及ぼすことは無かったと僕は解釈している。
しかしながら、実際にキュレーターとして働いたことのある原田は言う。「名画はときとして、人生に思いがけない啓示をもたらしてくれる」と。その言葉に僕はしっかり共感したし、あまりにも有名な『受胎告知』を見てみたいと思ったのだった。なんせ、日本に2つしかないエル・グレコの作品の1つなのだ。

もちろんエル・グレコだけでは無い。
モネ、ゴーギャン、ピカソ、セザンヌ、ルソー、ルノワール、デュフィ、マティス。西洋絵画においてあまりにも有名な画家たちの名画が展示されている。
僕が好きなマティス(『楽園のカンヴァス』では、キュビズムに目覚めたピカソの作品を糾弾している、ちょっと残念な画家として登場している)の作品は5,6点あった。扇形に優れてシンプルだけど物の特徴を捉えたような、アートというよりデザインのような作品。多くの人は他の名画に目を奪われてしまうかもしれないけれど、マティスのそんな作品と、しっかりとキュビズム以前を象徴するようなレトロな作品も置かれている。

倉敷という土地柄のおかげで、人もそれほど多くないのは嬉しかった。また、美術館の雰囲気として、整然なものを醸し出してくれたおかげで、誰もがしっかりと絵画に集中できる環境にあった。
絵画と絵画の間も適切な「間」があって、作品と作品がかち合うということも無かったように思う。東京の美術館のように忙しなさが無い。重要なポイントの1つだ。

フレデリック『万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん』という大掛かりな作品をしばし眺め、順路に従って歩いていくと、1枚だけの展覧スペースにぶつかる。

エル・グレコ『受胎告知』だ。
折につけ、この作品を画面上などで見ていたが、実際に見ると、その迫力に驚かされた。
『受胎告知』は聖書の一節がモチーフになっており、キリストの受胎を告げる天使ガブリエルと聖母マリアが描かれている。そのちょうど真ん中を飛翔する鳥の意味は判らないが、作品がダイナミックな動きの中で、差し迫った決断を求め・求められている様子を想像させる。

室内なのか屋外なのか。
光と影。
動と静。

ガブリエルとマリアの色彩も興味深い。
赤と黄。それは当たり前だけど、デュフィの色彩感覚とも全然違う。
デュフィの色彩感覚の豊かさには目を見張るけれど、『受胎告知』の完璧な色合いは、デュフィのそれとは全然違うし、名画たる所以の静謐さがある。そして同時に獰猛さも感じる。

彼女たちが視線を交わす。そのあり方と言ったら!
その絵1つで、どれくらいの物語を感じさせるのだろう!

大原美術館の礎を築いた児島虎次郎と大原孫三郎の胆力に、未来からあっぱれを送りたい。
実はエル・グレコを何度も何度も繰り返し見たおかげで、本館の作品しか見れなかった。別館含め、東洋館や工芸館もクオリティが高そうなのに、なかなか時間の配分が上手くいかなかった。

次はいつ行けるだろうか。
エル・グレコに呼ばれている気がしなくも無いのだ。

本筋とは関係無いけれど、エル・グレコ『受胎告知』の動線にも感心した。
展示室に入ると、その真ん中に『受胎告知』がどーんと展示されているんだけど、動線的に、まず絵を見る流れになっているのだ。『受胎告知』をしっかりと堪能した後で、解説文(結構長い)を読む。

まず、絵なのだ。

これは重要だと思う。
僕も動線でタイトルや解説があったら、無意識で読んでしまう。

でも、感じるのが先だと常々思うわけです。
こういう動線の仕方が、美術館のスタンダードになれば良いなあと思う。
(海外の美術館は、そもそも英語がそれほど読めるわけではないので、自然と作品を見ることになりますがね)

ロバート・ハインデル展(そごう美術館)に行ってきた

スクリーンショット 2015-07-26 23.16.41

先週、妻の好きなロバート・ハインデルの企画展(そごう美術館、横浜)に行ってきた。
そごう美術館はそれほど大きなハコではない。にもかかわらず、それなりに多くの人が入っていた。後から聞いたのだが、彼の特集がNHK「日曜美術館」で放送されていたらしく、注目を集めていたらしい。

だいたいの企画展において、ウェブサイトやポスターなどで紹介されている「1枚」が、行くか行くまいかの意思決定の判断材料になる。妻が好きでなければ、たぶん彼の企画展に行くことは無かったと思う。スクリーンショットを見ていただければ判ると思うが、これだけでは何となく彼の特徴は掴めない。加えてモチーフが「バレエ」だ。「バレエ」の愛好家であれば別だが、そうでない僕にとって関心事になるには正直なりえない(もっとも、妻はバレエをライフワークとして続けているので、機会があればバレエも観たいと思っている)。

さて、結果的に僕がハインデル作品をどう思ったか。
それを述べる前に、ちょっと話題を変えたい。このブログを書くために、ウェブサイトで色々彼のことを調べてみた。ハインデルは「現代のドガ」と呼ばれることもあるらしい。
ドガと言えば、オルセー美術館の『踊りの花形(エトワール、あるいは舞台の踊り子とも呼ばれる)』があまりにも有名だ。僕も実際にフランスを旅したときに観たし、2010年に横浜美術館で開催された企画展でも改めて観た。小中学校の教科書にも載っていたと思う。色彩、構図、躍動感、少女の立ち振る舞い。印象派ということもあって、細部が緻密に描かれているわけではない。むしろ少女が立つ舞台(グレイ)が作品の半分くらいを占めている。なのに、素人でも息を呑むような万能感は何なんだろう。レンブラント『夜警』やゴッホの『夜のカフェテラス』などでも同様の印象を持つ。仮に模写したときに、1ミリのズレも許されないような完璧な作品だ。
一方で、そのとき以来、僕にとってドガは「優秀な芸術家の一人」という域を残念ながら超えていない。もちろんそれはドガの芸術的価値を否定するものではない。僕が美術全般への素養を十分に持ち合わせていないことに起因している。そのときドガに対して強い感銘を受けていたならば、僕は5年前の関連ウェブサイトをサーフせずとも、自分の言葉で生き生きとドガを語ることができただろう。と言うかドガを持ち出すことなく、すらすらとロバート・ハインデルのことだけを言語化することができただろうに。

5年前。
僕は25歳だったけれど、まあ仕方のないことだと思うしかない。
今も十分に不完全だけれど、そのときはもっと不完全だった。
欲求は生もののまま処理するしか無くて、他人に理解されないと真剣に腹を立てていた。

ロバート・ハインデルに話を戻そう。
冒頭に「妻さえ望まなければ、彼の企画展に行こうと思わなかった」と述べた。
企画展に行く自分と、企画展に行かない自分を比べられるとして、そこには歴然と自分の感性の差が生じえただろうと思う。彼の作品は、どれも素晴らしかった。

それほどまでにハインデルの作品(当たり前だけど静止画だ)には躍動感があった。ダンサーの息遣いや、手先・足先まで張り巡らされた神経、スポットライトの眩さ、バレエという舞台舞踊が長く愛されてきた理由までが、真っ直ぐに伝わってくる。同じ作品を二度、三度観ても、そのストレートに視覚に訴えてくる感覚は変わらないし、むしろ観るたびに新しい発見があって純粋に楽しかった。

当たり前だけど、静止画だ。
ダンサーを生き生きと描ける画家は確かに少なくないだろう。
だが、それを突き詰めたときに、そこに高い芸術性が発生するんだと思う。彼はもともと天才だったのかもしれない。だけど、ただ天才なだけで、「バレエという舞台舞踊が長く愛されてきた理由」まで描き切ることができるだろうか。

画家の色彩に特徴を感じるのが僕は好きだ。
ハインデルの色彩もとても特徴的だ。赤や青や黒など、その時々に応じて色彩に喜怒哀楽を見出したデュフィのような拘りは希薄だが、たぶん感じるままに色を選んでいたんじゃないかと思う。そして、その色は時にはダンサーよりも前に出る。表情を隠したり、腕を見せなくしたり。このハインデルの意図は判らなかったけれど、それが味になっていたのは事実だと思う。

またバレエに限らず、ミュージカルや日本の伝統舞踊をテーマにした作品も展示されていた。
舞踊全体に対する彼の愛(あるいは関心)を感じた。画家であり、舞踊愛好家であり、研究者だったんじゃないかと思う。ハインデルのパーソナリティは知らないけれど、絵からは実直な性格だったのでは?と思わせる静謐さがあった。ピカソと真逆だ(ピカソが不真面目だったと言いたいわけではないです、ピカソはどこまでも大胆でダイナミックだと思うのです)。

時間の関係で1時間半も観れなかったけれど、夢を見たかのような時間を過ごすことができた。
その日の昼食は沖縄料理で、うっかりオリオンビールを飲んでしまってからの鑑賞だった。願わくばアルコール抜きの状態、思考がクリアになっているときに観られたらと少し後悔している。

さて、敢えて僕に許されるなら、僕は改めてドガの作品も見直したいと思う。
現代のドガに強い感銘を受けた僕が、引用されることの多い「オリジナル」のドガを改めて鑑賞することで、以前とは違う感想を持つと信じているからだ。

そこに甲乙は無いし、仮にあったとしても、そのときの気分次第で天秤はいずれかにも振れてしまうことになると思う。
それは「人生」という言葉を持ってすれば完結に片付けることも可能なんだけど、出来ればもう少し、しっくり再現性のある言葉で語りたいなと強く思う。ということで、言葉が適切ではないかもしれないけれど、これからも美術館巡りの感想をブログでも書いていこうと思うわけです。

参考「アートオブセッション」の画家紹介ページ
http://www.art-obsession.co.jp/artist/artist01.html

参考ブログ:
http://yukko96.blog91.fc2.com/blog-entry-921.html

追記:
Twitterで色々調べてみたら、期間は短いけれど、渋谷のBunkamuraでロバート・ハインデルの息子・トッド・ハインデルの作品も含めた企画展が開催されるのだそう。これも行ってみたいな。2015/9/3(木)~9/14(月)とのこと。
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/exhibition/150903heindel.html

ドゥフィ展に行ってきた

Bunkamuraで7月27日まで開催されているドゥフィ展に、ぎりぎりで行くことができた。

Screen Shot 2014-07-23 at 23.15.25

僕が好きな画家って、ピカソとかゴッホとかウォーホルとか、色彩感覚に特徴のある人が多い。そのことに改めて気付かされたドゥフィ展だった。

評価されない時代はデザイナーとして、商業的な作品も制作していたドゥフィ。
年代順に作品を見ると、彼の作品がどんどん変遷していったのが分かる(そんな風に仕向けている感もあるけれど)。

絵画に関して僕は素人で、言葉を付け加えるたびに不適切な思いに駆られるのだけれど、日常と非日常の狭間を揺れるように描いていたドゥフィの作風には、とても心惹かれました。失礼ながら、あまり注目したことのない画家だけれど、意識して彼の作品に触れていければと思う。10月から開催される、「夢見るフランス絵画〜印象派からエコール・ド・パリへ〜」も楽しみです。