歴史小説を書くということ

僕は司馬遼太郎の歴史小説が好きだ。

高校時代には坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』、
大学時代には新選組副長土方歳三を描いた『燃えよ剣』、大村益次郎の生涯を描いた『花神』、
社会人に入ってから吉田松陰、高杉晋作を描いた『世に棲む日日』、

これらは、ほんの一例に過ぎない。時期を問わず、短編や中長編、エッセイなど、僕は氏の作品に触れている。氏の作品を通じて、先人の偉業を知り、思考法や人生観を学ぶことができる。それは僕の人生に大きな影響を与えるほど、楽しくスリリングなものだ。

ここ最近僕は、歴史小説はどのようなプロセスを経て書かれているのか気になっている。例えば坂本龍馬を題材としたときに、書き手はどのような龍馬像を想定し、読者に届けるに至るのだろうか。

正確を期すために付け加えておくと、本エントリは企画レベルに留めている。出版社への交渉やプロモーションなどは考えていない。悪しからず。

閑話休題。

司馬遼太郎氏『手掘り日本史』を読むと、幾つかのヒントが見えてくる。

一部引用すると、

史料というのはトランプのカードのようなもので、カードが勝負を語るものでないように、史料自体は何も真実を語るものではない。決してありません。史料に盛られているものは、ファクトにすぎません。しかし、このファクトをできるだけ多く集めなければ、真実が出てこない。できるだけたくさんのファクトを机の上に並べて、ジーッと見ていると、ファクトからの刺激で立ち昇ってくる気体のようなもの、それが真実だとおもいます。

ただファクトというものは、作家にとって、あるいは歴史家にとって、想像の刺激材であって、思考がファクトのところにとどまっていては、ファクトの向こうに行けない。そのためにも、ファクトは親切に見なければいけないと思います。

(中略)

戦後、二宮尊徳は泥棒なり、という説を立てた人がいたそうです。なぜかと申しますと、二宮尊徳は薪を背負って本を読んでいますね。そこで、二つのファクトが考えられる。彼は極貧なり、というファクトがひとつ。彼は薪を背負っている、というファクトがひとつ。この二つのファクトだけをつないでみると、その薪はどこからとってきたんだ、という疑問が出る。極貧だから山をもっているはずがない。だから泥棒だ、という真実が引き出されるわけです。

しかし、そこにもうひとつのファクトを入れてみればどうでしょう。それは、どこの村にも入会山というものがあるということです。農村出身の人なら誰でも知っているこのファクトを、もうひとつ入れてみなければならないので、そうすると二宮尊徳はやっとふつうの人になるんです。

ファクトとトゥルーのかね合いには、厄介な、非常にむずかしい問題が多くあって、それがまた、ひとつひとつのケースで変わってくるんですね。

氏は、上記のことからも分かる通り、多くのファクトを大切にして、出来るだけ真実に近い形を小説として読者に提示した。本書でも書かれているが、奇談奇説(義経が生きてジンギスカンになった、というような説のこと)は否定する。読者が人物に対する「期待」と異なっていたとしても。

読者は、氏の筆力はもちろん、歴史ファンとして歴史を読み解く読み物として価値を感じているわけだ。

翻って。

氏の姿勢に沿って、坂本龍馬を描くとする。極論すると、一次資料が『竜馬がゆく』ではマズい。『竜馬がゆく』で描かれている坂本龍馬は、氏が集めたファクトに沿って成立したものだからだ。『竜馬がゆく』でない坂本龍馬像を提示するためには、氏と同じ(似た)プロセスを経て行なわないと、読者へ説得力を持って伝えることができない。

「司馬遼太郎さんが●●と言っている」
「ゆえに、僕は▲▲という視点を提示したい」

では、氏が「価値」として感じる歴史小説にはなれない。ファクトが圧倒的に不足している。

ただし、歴史小説の書き手には「逃げ道」も用意されている。歴史小説は、あくまでフィクション(創作、作り上げ)だからだ。

基本的に、フィクションは自由だ。ある出来事に対して、無限もの解釈が存在する。読者の存在を無視すれば、いくらでも説得力のない筋書きを用意できる。

だが、多くの書き手は、読者の存在を気にする。
読者に気に入ってほしいと強く願っている。

読者。

読者が相当の歴史通だったら、
読者が坂本龍馬の大ファンだったら、
読者が小学生で、読み物を通じて初めて坂本龍馬を知る場合だったら、
読者がハードボイルドが大好きで、小説にそういった要素を求めているとしたら、

読者には、様々なニーズ/ウォンツがある。

場合によっては司馬遼太郎氏のスタンスが求められるし、場合によっては大河ドラマ『龍馬伝』のような筋書きや演出が求められる。

歴史小説を書くということは、それらを見極めることが非常に重要だということが分かる。