言葉、ことば(2015年7〜9月) 

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7〜9月の集約が思いの外、遅れてしまった。
印象的な言葉はたくさんある。だけどそれをキャッチアップできるのは、その当人次第だと常々感じる。同じ言葉を発していたとしても、著名人か一般人かで受け止められ方は変わる。「お前が言うな」と糾弾されることもある。

このエントリを続けていくにあたり、そのあたりのバイアスに影響されず、少しでも価値のある言葉を拾っていくことが重要だなと思う次第である。

余談だが、10/26から僕は自分のMacに新OS「OS X El Capitan」をインストールさせた。新機能の1つ「ライブ入力」、未だ慣れないけれど、なんやかんや続けている。凄いかもしれないと思うからだ。キーボードを打っているとき、人間は色々なことを考える。その打ち方が変わるということは、自らの思考過程を変えると言っても言い過ぎでは無いと僕は思う。まだ利便性は高くないけれど、「ライブ入力」をOFFにするには、早いんじゃないかって思います。

***

8/19
『“ひとり出版社”という働きかた』(西山雅子)谷川俊太郎の言葉

自分の詩の理想型をそのように(道ばたの草)想い描いている。つまり、詩というのは、なにかを伝えるものじゃなくて、そこに存在するものだと思っているのね。道ばたの雑草はなにも意味していないし、伝えようともしないけれど、そこにあるだけで美しいわけでしょう?人が見て、感じる力さえあれば。本もそれと同じでいいと思うよね。だって今もう、どんなにいい作品もストックになりようがなくて、全部フローで流れていくじゃない。

自分でもブログを書いたけれど、改めてこの本は面白いなと感じます。詩人・谷川俊太郎がいつまでも情報に対する感度がみずみずしくて驚くばかりです。なかなか書き手で「コンテンツは全部フローだよね」って言い切れる人はいないと思うから。本書を読んでいただければと思うけど、だからと言って、自分の仕事に対して誇りを持っている姿勢が僕はさすがだなと思うわけです。

 

8/21
『コミュニティデザイン』山崎亮

いえしま地域の場合、まちづくり活動もさることながら、主幹産業が衰退する中で新たな産業をどう生み出すかということが大きな課題だった。(中略)採石業の後に観光業に取り組む場合も同じ轍を踏まないように気をつけなければならない。いえしまをリゾート化して、一度にたくさんの人が呼べるようにすれば、一時的に景気が良くなるかもしれない。しかし何年かあとに尾奈じような課題に直面することになるだろう。じわじわと観光拠点をつくり、じわじわと観光案内人を育て、じわじわと町民におもてなしの心を理解してもらう。その間、じわじわと来訪者が増えてくれば、その対応にあわてることもなく、借金して設備投資する必要もなく、急に人を雇うこともない。観光まちづくりをゆっくり進めることにはそれなりの意味があるのだ。そしてその速度は、住民が試行錯誤を繰り返しながらプロジェクトを推進し、そのプロセスで主体性を取り戻すための重要な時間をあたえてくれる。コミュニティデザインにおいて「ゆっくりであること」は大切なことだ。

即効性なんて、どこにも無いんだという話。
あるいは、即効性があったとしても、それにこだわるのは良くないよねというメッセージかもしれない。
人が、人の手を借りて、人の手の中で、じわじわと成長していくっていうのは、人も組織も地域もプロジェクトも変わらない。家島を始め、様々な地方で実績を上げてきた氏の言葉は、じっくりと重みがあります。4年前の情熱大陸も面白かったので、改めて見直してみようかなと思います。(ていうか、もう4年も前のことなのか・・・)

 

9/7
日本経済新聞「私の履歴書:荒蒔康一郎」
参考URL:http://www.nikkei.com/article/DGKKZO91172230R30C15A8BC8000/

「先生、今度の宿直はいつですか。お邪魔してもいいですか」。中学2年の夏休み。理科の鈴木直之先生が学校に泊まる日を楽しみにしていた。生物への興味は年を追うごとに高まっていて、大学出たての鈴木先生は私たち生徒の疑問に親切に答えてくれた。口癖は「興味があるならやってみな」。

(中略)話を中学時代に戻そう。先生から解剖の手ほどきをしてもらった。カエル、ウサギ、ネズミ、マムシなど。田舎ならではの贅沢(ぜいたく)な学習だと思う。胴体が太くなったマムシを解剖すると、いくつか卵がでてきた。マムシは卵胎生でお腹(なか)の中で孵化(ふか)して、出てくると聞いて驚いた。大学時代にはこの時の解剖の腕前が役に立つ。理屈はわかっても納得せず、なんでもやってみることを心がけた。光合成による酸素の作り方は知っていたが、水槽の中に水草からたくさんの酸素を発生させるために重曹をいれ、ライトをあてて出てきた水泡から酸素を採取した。時間さえあれば先生がいる理科室に入り浸っていたのが懐かしい。どんなことでもこの目で見ないと納得しない現場主義の考え方はこんなことから根付いていく。

ほかの勉強はそっちのけ。読書も仏細菌学者、パスツールや野口英世の伝記などばかり。母は「もっと違う本も読みなさい」とあきれ顔。父は黙って見ていた。実は社会人になっても「小さなファーブルになりたい」と酔っ払うと言っていた。

元キリンビール会長の「私の履歴書」、初回の言葉。興味関心というのは本当に大事だけど、幼少期〜青年期にその芽を摘まないように配慮や環境の整備をすることは大人の責務だ。なかなか難しいことだけど、「ファーブルになりたい」と言ってしまうくらいのキラキラした大人だったら信用しても良いかもしれない(否、ちょっと痛いかも。笑)

 

9/20
村上春樹『職業としての小説家』。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。

スティーブ・ジョブズも似たような思想で、数々のプロダクトを作っていたと多くの方が解釈しているのは広く知られていることだけど、村上春樹の新著を読むと、同様の考え方で、彼の文体は作り上げられたように感じる。自己表現(アウトプット)にはある程度、インプット量が必要であることは間違いないかもしれないけれど、いざ走り出すときには、なるべく荷物は少なくした方が良いってことなのかな。その答えは、自らの試行錯誤の果てにあるだろう。

 

あっという間に、2015年が終わろうとしています。
無事、年末に着地できるよう、もう一踏ん張り。まずはリズムを取り戻さないと。

村上春樹『アフターダーク』を単行本で読んだ

afterdark

afterdark

2004年に本作が上梓されたとき、僕にとって「村上春樹の小説を読み始めたかどうかの境目の時期」だったと記憶している。
それは僕が大学生のときだった。今から思えば時間だけが有り余っていた頃で(だのに、何故か忙しい状況を作っていた)、あらゆることに時間を割く自由を持っていた。

「読書」という行為が、当時の僕にとって有効な時間の使い方だと確信していた。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を初めて読み、その次に2作目『1973年のピンボール』と、順序良く読んだ。その後は短編とか、『海辺のカフカ』とかに飛んでしまったかもしれない。あまり記憶が定かではないが、授業なんてそっちのけで、大学内のメディアセンターにこもり、ただひたすら村上春樹の世界観に没入していった。

1つだけ言えることは、僕が『アフターダーク』を読んだのは発売後しばらく経ってから、時期的には文庫本として売り出されて以降のことだった。
何の意図もない。デジタルデバイドならぬ村上デバイド。彼の小説の発売タイミングなんて知らなかったのだ。村上春樹の主要作品をおおかた読んだ後の「アフターダーク』は、とにかく暗く、しかも物語性が低いもの。村上春樹「らしからぬ」作品だなと思っていた。

僕が好きなのは『ダンス・ダンス・ダンス』であり『海辺のカフカ』であり、後に発売された『1Q84』であったのだ。物語性が高く、明るさも暗さも、真実も虚栄も含まれる作品たち。何度も何度も繰り返し読んだ。もちろん『アフターダーク』も複数回読んだけれど、他作品に比べれば、読む分量は限定的だったように思う。

***

それから時が流れ、2015年11月7日。
その週からどうも体調が芳しくなく、身体からエネルギーが湧いてこない辛い日々だった。
朝はベッドから起き上がれないし、夜は生気もなくこんこんと眠るだけだった。結婚式に参加した火曜日を除いて、お酒も殆ど飲めなかった。本も読めなかったし、小説を書こうなんて意欲も無かった。いくら寝ても眠かったし、いくら体力を消費しないようにしてもナニカが次々と身体から欠落していくのを感じた。

精神疾患の類では無いかと僕なりに心配したけれど、休みに入り、こうしてブログを書くことができている。自分を客観的に見つめることができるだけで、僕はそれほど深く損傷してはいないだろうと安堵している。専門的な見地も無いし、根拠はまるで無いけれど。でも経験上、たぶん僕は、週明けからいつもと同じように戦っていけているはずだ。

もとい。
本棚を物色できるくらいの元気は取り戻せたけれど、やはり、難しい本を読む意欲は湧いていない。
だから、とりあえず村上春樹を選択することにした。困ったときの村上春樹。安心をもたらす一種の清涼剤的な効果がある(と僕は思っている)。

それで『アフターダーク』を選んだわけだけど、本作をご存知の方は「はて?」と思うからもしれない。
前述の通り、病み上がりの人間が読むには、今ひとつ明るさが足りない。深夜23:56〜翌朝の6:52までを描く物語。視点がぐるぐる動く、不定点カメラのような「私たち」が主語。よくよく考えると、結構難しいチャレンジを村上春樹がしていることが判る。中編小説という手軽さはあるとは言え、なぜ僕はこの本を選んだか。

答えは単純。
村上春樹の本は、目の見える範囲での村上作品は、そのとき『アフターダーク』しか無かったからだ。
『アフターダーク』だけ視線の先にあったのは、たぶん運命だったんだろう。

ちなみに本棚に置いていたのは単行本の『アフターダーク』。僕では無く、妻の持ち物である。
文庫本の『アフターダーク』と違い、単行本の『アフターダーク』は、当たり前だけど重みがある。
文庫本の装填は上下に明るめのグレイのスペースがあるが、単行本は全体が闇色とも言うべきダークな色調を添えている。僕の微妙な状況も重なったのだろう。これまで読んでいた『アフターダーク』よりも、目盛り1サイズ分ほど「暗さ」が深いなと感じた。
正確な物言いでは無いかもしれないけれど、登場人物たちが抱える闇やコンプレックスが、自分の心にはっきり投影されて、彼らの痛みや迷いや悩みが自分事のように感じられてたのだ。

なぜ、そんなことが起こったのか。
僕は理由を説明できるほどの言葉を持たない。

本作に登場する、マリ、高橋、カオル、白川、コムギ、コオロギ、エリなどは、だいたいが主役を張れるようなキャラクターでは無い。
マリや高橋は準主役くらいの位置付けになれるかもしれない。
だけど、いかんせん主義主張がハッキリしない。キャラクターが立ってないし、こう言っちゃ何だけど浅はかな思考の持ち主だと感じるほどだ。もちろん、村上春樹はそう読者に感じさせるために意図的に書いたのだろうけれど。

村上作品が好きな読者は、彼の登場人物がしばしば哲学的になるのを楽しみにしている。
普段、意識的あるいは無意識的に感じていることを、彼の登場人物は問題提起したり再定義したりする。読者に対してブンブンと鉈を振り回すが如く。

『アフターダーク』でも、「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」と高橋が象徴的な台詞を呟く。
僕の言い方が適切かどうか不明だけれど、あまりに読者に解釈を委ね過ぎているように感じる。小説全編を通じて、伏線の回収に至っているとは思えない。もちろん僕の読み方が甘いだけかもしれないけれど。

だけど、ナニカ、今回は登場人物たちとフィーリングが合ったように感じたのだ。
腑に落ちたことで、物語の闇を逆説的に深め、判らないことが闇となり僕の心を黒く染めたのだと思う。

これからマリがどうなるのか、高橋が実質的に成長できるのか、白川は捕まってしまうのか、コオロギは幸せになれるのか。

方向性さえ、予感しえない。
だけど、それを楽しむ余裕が、今日の僕にはあったのだ。

***

「中学生のときに、中古レコード屋で『ブルースエット』っていうジャズのレコードをたまたま買ったんだよ。古い古いLP。どうしてそんなもの買ったのかなあ。思い出せない。ジャズなんてそれまで聴いたこともなかったからさ。でもとにかく、A面の一曲目に『ファイブスポット・アフターダーク』っていう曲が入っていて、これがひしひしといいんだ。トロンボーンを吹いているのがカーティス・フラーだ。初めて聴いた時、両方の目からウロコがぼろぼろ落ちるような気がしたね。そうだ、これが僕の楽器だって思った。僕とトロンボーン。運命の出会い」

男は『ファイブスポット・アフターダーク』の最初の八小説をハミングする。

「知ってるよ、それ」とマリは言う。

彼はわけがわからないという顔をする。「知ってる?」

マリはその続きの八小説をハミングする。

「どうして知ってるの?」と彼は言う。

「知ってちゃいけない?」

この小説には、どれくらい異なる世界が林立していたのだろう。
混じったり、交わらなかったり。重なったり、すれ違ったり。

闇は物事の境界を曖昧にするけれど、ナニカをしっかり浮き立たせている。
『アフターダーク』はある意味、村上作品で一番、哲学的なのかもしれない。

好きじゃない言葉

僕は、あまりニュースソースに反応しないようにしている。
それでも人間なので、ニュースを見ていると何らか喜怒哀楽の感情が自然に湧いてしまう。
喜び、楽しみのポジティヴな感情は良いけれど、怒りや哀しみのネガティヴな感情はいけない。

語弊があるね。
怒りや哀しみの感情自体が悪いのではない。
それが負の連鎖に繋がってしまい、根源的な「怒り」「哀しみ」と乖離してしまうといけないのだと思う。

卑近な例を挙げて説明してみる。
・ポケットに入れていた1万円札をどこかに落としてしまった。ものすごく悲しい。
・ついてないと自分自身を嘆く。日々疲れていたせいで、注意力が散漫だったのかもしれない。
・日々の疲れは何のせいだろうか。仕事か?人間関係か?夏の暑さのせいか?
・そう言えば、今年の夏はとりわけ暑い気がする。温暖化の影響だろうか。
・温暖化を生み出すメーカーは悪だ。これまでずっと業績が良かったけれど、たまたまコンプライアンスの問題が報道されている。
・結果的に、僕はそのメーカーを憎む。匿名のメディアでデマを流し、負の連鎖を拡散させる。僕の中で負の連鎖を留めておくことなどできない。

もとは、1万円札を不注意で落としてしまったことに端を発している。
それがみるみるうちに負の連鎖が大きくなってしまった。「怒り」「哀しみ」を押し殺すとストレスになるので、適度に発散するのは良いと思う。だが、それが内なる感情という枠を逸脱して広がってしまうのは良くない。手に触れる様々な物事が「個人メディア」になりうる時代に、注意しなければいけないことだと個人的には思っている。

さて、今回のエントリはそれを延々と語るためのものではない。
東京オリンピックのエンブレムとして、佐野研二郎氏のデザインが採用されたこと・されて以降のことを厚めに言及していきたいと思う。

まあ、賛否両論だったのだ。
僕自身は「可もなく不可もなく と言うよりは やや素晴らしい寄り」という感想だ。つまり「賛」の立場にある。だけど世の中には多くの人間がいて、「1964年のデザインの方が潔くて良い」「Tの視認性が低い」「シンプルに格好悪い」「ピンと来ない」など「否」の感想を持たれる方も少なくない。

それ自体は悪いことだとは思わない。
デザインとは難しいもので、万人を納得させられるものを拵えることは至難の技だからだ。
Appleのデザインは優れていると言われているけれど、機能もそれなりにユーザーを満足させる出来になっている。プロダクトデザインには、機能という付加価値としてデザインが活きてくる。だからこそ、「良い」ものであればファンも納得できるのだ(それが至難と言えば至難なのだが)。

一方で、「まだ何も出来上がっていない」東京オリンピックのデザインが先行して作られているわけだけど、そこに価値を見出そうとするのは、もともと不自然なことだ。賛否両論が生まれやすい環境にあるんだと思う。

そもそも「良い」ものは賛否両論のいずれも出てくるものだと僕は思う。
村上春樹の小説だって、今でこそ市民権を得ているけれど、昔は賛否両論だったと聞く。村上春樹本人も、「日本の文壇の中ではずいぶん冷遇された」という類のコメントを残している。僕の友達も「春樹の何が面白いか判らない」「答えが無いから読んでいてモヤモヤする」ということを言っている。友達と共通の話題で盛り上がれないのは残念だが、そういうもんだと思う。万人が優れていると思うものなど、実は幻想なのだ。サザンオールスターズくらいではないか?

また話が脇道に逸れた。
僕の「好きじゃない言葉」の話だ。

「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」。
人間の思考停止を誘発する言葉。ネガティヴな印象しか与えない言葉。クリエイティヴを馬鹿にするような言葉。クリエイターの勇気を奪う言葉。

クリエイティヴな作業をするとき、誰しもが自分に影響を与えたものを意識せざるを得ないと思う。
自分に直接的に影響を与えていなくても、インプットの数が多ければ多いほど、自分の中の引き出しには様々な可能性が生まれている。全く新しいものなど、インプット無しには生まれない。たくさん参照するものが多い中で、組み合わせたり、何かを引き算したりして生まれるものだと思う。

クリエイターの真鍋大渡も言う。http://www.creativevillage.ne.jp/2776

斬新なものをアウトプットするためには、まず類似研究や先行事例といったものを過去に遡ってリサーチすることが必要ですね。Perfumeのプロジェクトでも先行事例を共有するところから始まり、そこからどうやって新しいものを作っていくかということをまずは考えます。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉のように、できる限りのルーツを探ってそのコンテキストの中でも解釈されるものであることが嬉しいし、さらにはその流れの先に行きたいと思っています。

その足し引きの「もと」になるものを指摘して、「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」は本当にクリエイターの才能を馬鹿にしているし、やる気も勇気も削いでしまう。

物を作る、ゼロから新しいものを生み出す。
アマチュアでもプロフェッショナルでも、このクリエイターなプロセスは絶対的にユニークだし、誰かにやんや言われる筋合いのものではない。アウトプットは賛否両論を生むかもしれないけれども、盗作疑惑の批判は軽々しく口にするものではないと僕は思う。

文字をあしらったデザインだとしたら、アルファベットやひらがなのパクリなのだろうか?
ひらがなのもとになったのは漢字だ。じゃあ、ひらがなは漢字のパクリなのだろうか?

僕が懸念していること。
「盗作」だったり「斬新さ」を恐れて、クリエイティヴが進化しないことだ。
過去のもので優れたデザインは確かにある。だけど、社会は様々な進化を遂げているし、価値観も大きく変容している。デザインやクリエイティヴがその変化についていけず、無難なものだけをアウトプットするようになったとき、そのときこそ僕は、「過去を盗作しているだけ」と糾弾してやろうと思う。

追記:
Bubble-BさんのFacebookでシェアされていたブログ。
ここで書いていたようなことが、最悪のケースで発生しうること(「パクリ」と告発するリスクが少ないことが理由)が簡潔な言葉で書かれていた。うーん、考えさせられる。
personalogs.「東京オリンピックのロゴを巡る騒動を見て、改めて著作権侵害の非親告罪化はヤバいと思った」

The Libertinesの狂気を求めて

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朝5時に起きて、新幹線に飛び乗り、暴風域の関西で20時半までみっちり仕事をして(その間、宝塚線の運休により30分駅でタクシー待ちぼうけ)、新幹線で帰京する。家に着くのは24時前後。Boseのノイズキャンセリングイヤホンをしているから、新幹線の轟音は気にならない。だが行きの新幹線と違い、車内に充満したアルコールの臭いには辟易する
どうでも良い話だけど、僕は出張のとき、移動中にビールを飲まない。先輩社員に勧められればそのポリシーはあっさり覆すけれど、一人でいるときにはまず飲まない。そう決めている。
本質的には、新幹線で他人がビールを飲んだって構わないのだ。僕だってプライベートのときには構わず飲む。350ml缶をを2本は持ち込む(プレモルとサッポロビールだ)。行きも帰りも飲む。でも出張のときには飲まない。だからこそ辟易できるわけであり、そんなとき少なからず狂気が芽生える。

狂気、狂うこと。
あまりこの言葉に良いイメージは持たれないだろう。
自分の娘に「狂子」という名前をつけないのが、その証左でもある。僕だって、そんな名前をつけるんだったらキラキラネームをつける。(今鹿[なうしか]とかね)

僕は狂気という言葉の、すぐ隣に青春を位置づけてしまう。
青春。何て青い響きだろう。サカナクションの「Aoi」が聴こえてきそうだ。
でも僕は、青春が狂気とマッチしたとき、サカナクションでもカナブーンでもなく、The LibertinesというUKのロックンロール・バンドを連想する。「リバティーンズ宣言」というすこぶるダサい邦題を課せられた「Up The Bracket」というアルバムを。あるいはバンド名をタイトルにした「The Libertines」というアルバムを。20代前半の僕の青春総てが含まれていると言っても過言では無い。

僕にとって青春とは、福士蒼汰と本田翼の月9ドラマのように、キラキラと輝くものでは無い。
何だか理由も判らずイライラして、先輩に反発し、論破されると彼(あるいは彼女)のいないところで酒を浴びるほど飲んで愚痴るような、そんな鈍く鬱屈した時代がそうだ。僕が詩を書いていたのもその時代で、「死」や「痛み」、「裏切り」などをモチーフとして多用した。もちろん詩を書いているなんて誰にも言えなかった。文字の集積からキリキリとした疼きを感じさせる。人前で披露するだに憚られるほどの負のオーラを纏ったメロディ。今も昔も、ザラザラとした雑音と共に脳内を廻る。

今は、僕にとって青春では無い。
その時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
30歳を過ぎ、日々の仕事に忙殺され少しずつ責務の大きさに押されながらも、わりかしクールに日々を送っている。熱くなり過ぎず、正面からぶつかり過ぎないこと。パートナーにも恵まれ、僕はかなり自己肯定できるくらい満足度の高い生活を送っている。はっきり言って、喜ばしいことだ。

でも時々僕は、空白を埋めるべく、あるいは空白を作るべくThe Libertinesの音楽を聴く。
狂気という世界に閉じ込められた王様、フロントマンであるピート・ドハーティの狂気を身体に染み込ませる。
UKロックが好きな人ならば、彼の音楽の素晴らしさを知るだろう。薬物依存でズタボロになったとしても、2〜3分のトラックはグルーヴィでメロディに優れ、そして遊び心に富んだ仕掛けが仕込まれているのに驚き、そして愛する。死んだ魚のような眼で、いかにも「俺は絶望してる」という歌を、歌う。全然呂律が回っていない。そこが、味と言えば味だ。しかも韻の踏み方が格好良いんだよね。

I lived my dream today.
And I have lived it yesterday.
And I’ll have lived it tomorrow.
Ah, don’t lookat me that way.

「The Man Who Would Be King」

薬物依存の彼が、夢を生き続けることを歌う。
僕は基本的に歌そのものを聴きたいと思うので、アーティストのパーソナルな事情はなるべく切り離したいと思っている。だが、もう僕は彼の事情を知ってしまっている。狂気の海にどっぷり浸かっていることを知ってしまっている。
4つの文が意味するものを、意図せず拡大解釈しがちだ。
最初の3文は、まるで子どもが純粋に信じていることじゃないか。
俺のことそんな眼で見るな、と言ってひっくり返すピート・ドハーティ。

と、ここまで書いていて、特に2枚目のアルバムはもう一人のフロントマンであるカール・バラーが作っていたことを思い出した。彼もピートに負けず劣らず狂っていると思う。その方向性が違うだけで。
最も、僕はカールに対して狂気ではなく、「不思議なやつだ」という感覚を抱いてしまう。
というのもピートはThe Libertines解散後もBabyshamblesだったり、ピート・ドハーティ名義で素晴らしい楽曲を生み続けているのに対し、カールはDirty Pretty Thingsという「それほどユニークでは無い(あまり目立たない)」バンドを3年間続けたに過ぎない。それはThe Libertinesの域から抜け出せない、そこそこに優秀な音楽に留まった。

少し脱線した。
結論を急ごう。

言いたいのは、結局次のことだけだ。

村上春樹は空白を得るために走ると書いていた。
僕は狂気を得るためにThe Libertinesを聴く。

なぜ狂気を得る必要があるのか。
それは活動する上でのエネルギー源になりうるからだ。理性や理屈や論理を超えたもの。何か為すためには、たぶん狂うほどのエネルギーが必要なのだ。
リターンを期待するだけで何かに夢中になることはできない。
「何かを為す」。日々、満足度の高い生活を送っていると現状維持が目的になる。何かを変えるための労力が惜しくなる。変えることが悪にさえなる。

「王になるはずだったのに」
1800年代の引用もまた滑稽なほどに正直で、大人が妄想するには狂い過ぎている。だけど、その狂気を浴びたくなるのも確かだ。

そう考えると、「リバティーンズ宣言」という邦題もあながち悪くはないか。

参考:
http://kawasaki5600.blog64.fc2.com/blog-entry-286.html?sp

言葉、ことば(2015年1〜3月)

言葉って不思議です。言葉だけでは意味を持ちません。受け手の解釈が重要で、そこから意味あるいは価値が発生します。僕にとって重要だった言葉が、あなたにとって重要だと思いません。その逆も然り。あるいは僕にとって重要だった言葉が、あなたにとって人生を変えるくらい重要である可能性もあるわけです。

少し前のエントリで書いた通り、前四半期で感じた言葉について書きたいと思います。
言葉って、やっぱり武器にもなるし凶器にもなる。「武器」って、捉え方次第だなあ。うーん、難しい。

1. 2015/1/5
普段の会話の中で。

先輩の家では廊下に本棚があって、1000冊以上の本が並んでいた。そこで育つ子どもは自然に本に触れることができるし、家族と色んな本を共有できる

紙の本や電子書籍の話をしていたときの話でした。何だか素敵な生活だなと印象に残り、このブログでもシェアします。
本に限らず、音楽や視聴メディアなどがパーソナライズされていくと、人にシェアする機能はTwitterやFacebook、まとめサイトなどに移行されます。それは悪くないのだけれど、意図しないナチュラルなシェアにも価値があると思っています。
前の会社でも、ビジネスに関する書籍が会社の本棚に並んでいました。新入社員だった僕は、「こういう本を読まなくちゃいけないんだな」という思いに駆られました。広島カープに復帰した黒田博樹投手も、「男気」という生き方のシェアをナチュラルにしています。人間は、社会の中で相互依存せざるをえない生き物なので、日々何に接しているかというのは本当に大事やなと思いました。

 

2. 2015/1/18
やる気は5秒で死んでしまう。テレビ司会者のメル・ロビンス(Mel Robbins) 氏の言葉。
参考URL:http://logmi.jp/32799

リスクを冒すのではなく、居心地が良いところから抜け出すのです。ベッドから出た後の3秒間は最悪ですよね。でも一度起きてしまえば、最高です。このような会場で座っていて、誰かが「立って、一緒に踊ろう!」と言った瞬間、あなたは「あぁ、私は踊るべきだわ」と思います。でもすぐに「でも……」となってしまうのです。やりたいという衝動があったのに、それを強制的にさせるための活動的エネルギーを出さなかったという経験は、まさに緊急ブレーキが作動したときです。「ここに座っていよう。あんなクレイジーな人たちと踊ったりしないわ。踊るのは好きじゃないし……」。

(中略)

もうひとつ使えるもの、私は「5秒ルール」と呼んでいます。人間の頭は、人の表情を33ミリ秒で判断することができます。かなり速く働きますよね。もうひとつ速くできることは、もし何かやりたい衝動があっても、それを5秒以内に行動に移さなければ、緊急ブレーキを作動させるということです。そしてそのアイディアは死んでしまいます。立ち上がり、バンドが演奏している間に踊りたいという衝動があっても、5秒以内にそれをしなければ、緊急ブレーキを引いてしまうのです。もし今日誰かのスピーチを聞いて、何かをしようという衝動にかられてら、5秒以内に、ノートをとる、自分にメールを送るなど、実際に何か行動をしなければ、緊急ブレーキを引いてしまいアイディアを殺してしまいます。問題はアイディアではないのです。問題は実際に行動しないということです。あなたがそれを殺してしまうのです。

これはすごく分かりやすいし、実感としても正しいものだと思いました。
早起きにせよ、仕事終わりのトレーニングにせよ、「ああ、面倒臭いな」と思ったら最後です。5秒以内に行動すること、これはシンプルで強力なメッセージのように思います。(未だ実践できていませんが)

 

3. 2015/1/31
バカリズムと三遊亭円楽(6代目)のやり取り。バカリズムの「僕はリアリティについて聞きたい。僕も師匠と一緒でコンビでなく一人でやることが多いが、コンビよりもリアリティを演出する、リアリティのある作り方が難しいんですけど、一人で細かくリアリティを出す演出を出すっていうのは(どうすれば)」という問いに対して。
参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=ac4d5UrYEXA

例えば蕎麦を食べるときの所作、普通はこう(盛りそばを口元まで運んで)見せる。だけど柳朝師匠に言われたの、楽太それじゃ蕎麦が入っていかねえよ。ここまで行けと(目の上くらいまで)。だけど現実はそこまでいかない、これは誇張だよね。これはリアリズムじゃないもんね。いい加減なところがあっていい。ちょっと破れてるくらいがね、お客様の方で勝手に(想像を)張り混ぜにしてくれるから。(中略)ファジーな部分があると、柔らくなって面白く伝わると思う。(リアリティを出し過ぎると)芝居になっちゃう。

前回の博多華丸大吉に続き、お笑い界からのエントリ。
芸をより良く見せることに対して、ベテランの円楽師匠は本質的なことを言っていると思いました。

これはビジネスにも、小説にも言えることも知れません。
つまり、僕自身のリアリティと受け手の感受性との間に、ギャップというものが常に存在するわけです。誇張することで腑に落ちたり、オーバーリアクションすることでメッセージが伝達したり。村上春樹も読者の想像力をとても信頼しています(そう僕は感じます)。プロフェッショナルの一端を垣間見た気がするのです。

 

4. 2015/2/1
日本にて行なわれた、イチローのマーリンズ入団記者会見において。
参考URL:http://full-count.jp/2015/01/29/post7640/

(若く将来性のあるマーリンズ外野陣のバックアップが役割と見做されていることについて)そのことはもちろん分かっていますし、4番目の外野手であるというのは想定内のことで。なかなか3番目、特にアメリカでは40(歳)を越えた野手にポジションを与えるということは……、その時点でカットされる、年齢を見ただけでね。そういう傾向がありますから、4番目というのは何の問題もないことで……。3番目を望むというのはそんな自分はどうかなと思いますけどね。5番目ではそれはつらいかもしれないですけど。

「応援してください、とは言わない」という言葉が広まりましたが、僕はむしろこの言葉にプロフェッショナルを感じました。期待される役割は誰しもある。けれど、それに甘んじないのがイチローなのです。

例えばアマチュアの僕が小説を書くとして、何かの新人賞に引っ掛けるために小説を書こうとするのか。それとも1000年に1度残る小説を書こうとするのか。どちらも真剣かもしれないけれど、スケールが変わるような気がします。現状や少し先の未来に迎合するのでなく、僕は後者でありたいと思いますし、そこはエゴの張り過ぎかもしれないけれど全力を尽くす(クオリティが例え追いつかないにせよ)道を選びたいと思います。

その道を信じるのであれば、ですが。

 

5. 2015/2/7
村上春樹「村上さんのところ」
参考URL:http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/05/073700

<質問>
僕は40歳ですが、ずいぶんと想像力や記憶力が減退して来ていることを実感しています。村上さんは僕より歳上で父と同学年ですが、『1Q84』のような創造の塊のような進歩的作品を生み出しました。なぜそのようなことが可能なのでしょうか。

<村上春樹の回答>
十年先のことを考えてみてください。五十歳のあなたはきっと「十年前はおれもまだ若かったよな」と思われるはずです。そういう(まだ)若い日々を、老いを愚痴りながら生きていていいんですか? 腰を上げて何か新しいことに挑戦してみてください。四十歳なんて、そんな老け込む歳じゃないですよ。がんばらなくちゃ。

5月末まで掲載されるという期間限定サイト「村上さんのところ」。朝と昼と夜に、このサイトを見るのが楽しみになっています。
質問主の悩みは、僕もすごく分かります。そして20歳になったばかりの頃、可能性が限定されていた自分に嘆息した記憶もあります。「俺はこの彼女(当時付き合っていた女性)と何年後かに結婚して、のんびりと余生を過ごすのかなあ」みたいな。全然違う人生を歩みましたし、20代で持っていたエネルギーや感受性は微笑ましくもあります。

村上春樹の言う通り、失ってしまったものに思いを馳せるより、失ってしまった後に生えてきた草に水や栄養を与えて、後世に残るナニカを作っていきたいものです。それがクリエイティヴってものでしょう。

 

日々の忙しさに追われてしまうと、印象に残る言葉が、記憶から溢れてしまいます。
心の中に、個人的なゾーンを残しておくこと。これを意識しながら、2015年度も頑張っていかなくちゃ。