初めての舞台『稔』に行ってきた(その感想)

minoru

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「文化とカルチャーの間で」というブログを書いていながら、
文化なりカルチャーなりに関して、僕が語れる守備範囲は非常に狭い。

小説を読んだり、音楽を聴いたりはするけれど、
その類の熱心なファンの方々に比べれば大したことない。
映画に関しては年に何度か映画館に足を運ぶレベルで、映画好きな友人と映画に関する話題を共有するのも憚られてしまう。(自分の性格ゆえに、そういう話を振ってしまいがちなんだけど)
クラシック、ミュージカル、歌舞伎などの伝統芸能、落語、サブカルチャー、ゲームなどなど、狭いどころか、語れることが皆無のものも山ほどある。

偏り。
全てを網羅することは、なかなか難しいだろう。
だけど少なくとも、食わず嫌いや先入観などは持たぬよう、心掛けたい。

***

さて。
そんな前提のもと、初めて「舞台」なるものに行ってきた。
ザムザ阿佐ヶ谷という、100人が入るかどうかというハコ(そのサイズがどれくらいなのかも僕には判別つかない)。
舞台の名前は『稔』。11/7〜12まで計9回公演されていた。
その回数がどれくらいの水準なのかも、やはり僕には判別つかないのだが。

既に舞台は終わってしまったので、多少あらすじを書いても良いと思う。
男性登場人物の殆どが『稔』という名前。訳あって集められた稔たちが、自らのバックグラウンドを自分語りする。内面を描きながら、他者である私たちに心情を移入させていく。舞台背景が次々に変わることは無い。トーンはだいたい一定に保たれている。だが長回しの台詞がそれぞれ展開されていくので(1人も噛まなかった。すごい!)、間延びせずに舞台を注目することができた。

というか、
ちょっとでも気が緩むと、ついていけなくなるのだ。

なかなか脚本も練られている。
伏線と思われる仕掛け(違和感)があるのだけれど、お客さんに判るか判らないかの絶妙なバランスを保ちながら放たれていた。つまり、だいたいの伏線は、劇中にお客さんが拾っていける(もちろん、意図的に構成されている)。演じられている「現在」と、演じられていた「過去」をお客さん自身が繋ぎ合わせることができる。能動的に舞台に入っていけるということだ。

ちなみに、
肝心要のラストシーンの伏線を、僕は劇終了後に気付くことができた。
「うわぁ、気付かなかった!」という悔しさと共に、「あー、なるほど!」という爽快感がしっかりあった。主演を務めた木田健太さんとも話ができたけれど、してやったりな表情が印象的だった。

そういう演出の妙だけでなく、
100人が入るかどうかというハコという環境が面白みに拍車をかけている。
お客さん同士、あるいは役者との距離が近接していることの効果だろう。息を呑む音、役者の呼吸や汗、感情の高ぶりと共に充血していく役者の眼…。普段ダラっと、ドラマや映画を観る感覚とは、かなり違って、演劇の中にすっぽりと呑み込まれてしまう感覚があった。

前述の通り、演劇に関して比較対象を持ち得ない僕だけど、とても面白かった。
舞台に行く人の気持ちが判ったし、(傲慢かもしれないけれど)舞台に心血を注いでいる人たちの気持ちも判る気がした。

観ること、観られること、そのダイナミズムが「舞台」という装置を通じて、直接的に結びつけている。
いつでもどこでも何度でも観ることのできるユビキタスな時代と相反するアナログなそれは、たぶん今後も消えることは無いだろう。役を演じる人たちに、惜しみない拍手を送りたい。