ストレイテナーの「REMINDER」が必要なとき

suchmos、LUCKY TAPES、Czecho No Republic、H ZETTRIO、水曜日のカンパネラ…。
最近聴いている比較的新しいアーティストを挙げるとすると、こんな感じだろうか。

別に最新の音楽シーンを切り取っているという感覚は無い。
前回のエントリで言及した通り、Czecho No Republicは2011年には作品を出しているし、H ZETTRIOのピアニスト・ヒイズミマサユ機はミュージシャンとして既に名声を得ている(椎名林檎率いる東京事変のメンバーだったのだと、僕は最近知った)。suchmos、LUCKY TAPES、水曜日のカンパネラも音楽メディアではかなり取り上げられている。決して「ド新人」枠として語るべきでは無い人たちなのだ。

だけど、少なくとも僕にとって、数多ある音楽の中で「新しい」を感じることは良い傾向だということを理解して欲しい。
僕はしばらくの間「古い」音楽に回帰していたし、ネガティヴな言い方をすると、「古い」音楽を傾向として聴かざるをえなかったのだ。そのサイクルから抜け出すことができなかった。僕は音楽から、新鮮で建設的な刺激を享受できなかった。9割9分くらいは僕に原因があったのだろう。

Apple Musicが日本に訪れてから1年ばかりが過ぎ、僕の中でようやく「古い」音楽からの脱却に成功した。
「新しい」音楽を能動的に、リラックスして聴くことができている。とても良い傾向だと感じる。感じる、というより、感じられるという方が正確だろうか。耳が、自然と「新しい」音楽を求めているのだ。

その求め方は、大学時代、近所のGEOに通いつめて音楽を漁っていた頃に、程度の差こそあれ似ていると思う。
PC(当時はPanasonicのレッツノートを使っていた)の容量が許す限り、僕はたくさんの音楽データを詰め込んで、朝から晩までiPodで聴いていた。そんな時代/行為を笑う世代も出てくるのだろう。夜な夜な音楽データ(しかも聴きたい曲でなく、アルバムの全曲を)を取り込むなんて、とても非効率なことだからだ。
それでも僕は、そんな風に音楽と接触していた日々のことを誇りに思う。音楽は記憶としてしっかり僕の中に染み付いているから、時々思い出したかのように「古い」メロディが蘇ってくる。不意に。過去と現代のクロスオーヴァー。時と場合によるけれど、何にも代え難い素晴らしい瞬間として味わえることもある。そういう瞬間は、誰しもに訪れるものでは無いだろう。それが少なくとも僕にとっては意味のある音楽だと確信しているなら尚更だ。音楽との濃密な接触、浅いコミュニケーションだと絶対にRemindされない類のものだ。

***

さて、今日の主役はストレイテナーだ。
何気が触れたのか、僕がストレイテナーの音楽を聴いてしまった夜のことを、取り留めなく書きたいと思う。

気が触れた、
というのは、あまりに語弊がある。
だけど、その日僕がストレイテナーを聴いていた経緯や理由をロジカルに答えることはできないし、それは僕が普段「音楽を聴く」というプロセスにおいて、ストレイテナーという選択肢が無いことをシンボリックに表現しているに過ぎない。
Apple Musicをザッピングをする中で、(もしかしたら「誤って」)何かの拍子にストレイテナーにヒットしたんだろうと思う。

誤解の無いように言うと、僕はストレイテナーの音楽が好きだ。
「Killer Tune」「Melodic Storm」「ROCKSTEADY」「YES,SER」「Play the Star Guitar」など、イントロが流れるだけで懐かしい思いに駆られる。ロックが殆どタイ・アップされていない時代に、ホリエアツシとナカヤマシンペイの2人構成でバンドがスタートし、それから数年間で生み出された楽曲には孤高に挑もうとする野心で溢れている。

幾つかのメンバー加入があっても、だいたいストレイテナーの特徴に変わりは無い。
フロントマン・ホリエアツシの細く硬質な歌声と、ちょうど良くバックエンドが支える演奏は信頼するに十分なテクニックを有していて、聴いていて「裏切られた」という感覚に陥らない。
その辺は僕がストレイテナーに肩入れする理由の1つなのかもしれない。ELLEGARDEN、ACIDMAN、THE BACK HORNやLOST IN TIMEなど、彼らと同世代のバンドに僕がハマらなかったのは、歌詞や歌唱、振る舞いに過剰な厚みを感じてしまうからだ。「ロックは重い」という経験をしばしばしたというのが大きいと思う(まあ、それぞれ全然違うタイプのロックではあるけれど)。
それに比べると、巷で流行している「草食系」と言えなくも無いビジュアルのホリエアツシ。ささやかなロックンローラーとしての静かな情熱を僕は好ましく感じていたし、ステージに上がると別人のように、演奏で客を囃し立てる潔さは唯一無二の存在だった。だから僕は、音楽フェスがあれば迷わずストレイテナーの「場所」は押さえていた。

つまるところ、ストレイテナーとは。
あまり目立つことの無かった僕が、大学時代にようやく見つけた「青春」だったのかもしれない。
2005年にASIAN KUNG-FU GENERATION主催「NANO-MUGEN FES」に行き、初めてストレイテナーの生の演奏を聴いて、身体がバキバキに凍りつくくらいに凄まじいロック・ナンバーが展開されて、20歳の僕はただただ両腕を振り上げるしか無かったんだ。気付けば、かなり前方まで行ってしまい、汗が飛び交うモッシュの渦に呑まれた。ライヴ中の僕は、聴衆としてひたすら「青春」を満喫していたし、それが音楽を聴取する上での基本的態度として身についたわけだ。

僕がゲリラ豪雨を避けてスターバックスに向かう道すがら、ストレイテナーの「Reminder」を聴いたわけだけれど、それが後年どんな影響を僕に及ぼすだろう。答えは単純「どんな影響も与えやしない」。

そこから何かが変わっていくだろう
壊れた形や消え失せた色
そこにある何かが伝えていくだろう
優しさや悲しみや遠い記憶を
(ストレイテナー「REMINDER」)

それでも僕は、この曲を聴いて「懐かしさ」を感じ、思わず2000年代前半の色々なことを思い出したのだ。

思い出させること、あるいは、思い出させるもの。
リマインダーという言葉はいつしか、警告や通知のように、人為的な手段として用いられることが多くなったけれど、そういう情緒がちゃんとあり、いささかメランコリックに人を寄せてしまう引力があろう。痛みや迷い、苛立ちや怒り。思い出されるものは負の感情が伴い、それでも経験して有意義だったと感じるものが少なくない。

あまりに僕はストレイテナーと同じ時期に音楽を聴いてしまった。
「青春」というタグが貼られ、良いも悪いも「青春」抜きにストレイテナーを語ることは困難だし、不意にFlashbackされる厄介さに巻き込まれたくないと感じることが、この先も続くだろう。

新作「Cold Disc」を遅ればせながら聴いた。エラく格好良かった。
あの頃と変わらぬホリエアツシが歌い、信頼できるバックエンドがきっちりと支える。ちょっとアコースティックな楽曲も幾つかある(調べてみると、アコースティック編成でのライヴもちょこちょこやっているらしい)。

また巡り会う世界はきっと
変わり果てていても
辿り着く時には僕も
少しは優しくなれるかな

負けられない戦いに僕らは
(ストレイテナー「Force」)

時代は変わる。
ストレイテナーもちょっと変わり、だけどちっとも変わらない。

それでも、いや、だからこそ、好ましい思い出はそっと胸の奥に仕舞い、ストレイテナーの再登場をしばらく待つことにしたい。時折エネルギーが切れる僕だから。

未来のことが正確に判るならば、定期的に「REMINDER」をセットできれば良いのだけどな。

The Libertinesの狂気を求めて

the-libertines-album-cover

朝5時に起きて、新幹線に飛び乗り、暴風域の関西で20時半までみっちり仕事をして(その間、宝塚線の運休により30分駅でタクシー待ちぼうけ)、新幹線で帰京する。家に着くのは24時前後。Boseのノイズキャンセリングイヤホンをしているから、新幹線の轟音は気にならない。だが行きの新幹線と違い、車内に充満したアルコールの臭いには辟易する
どうでも良い話だけど、僕は出張のとき、移動中にビールを飲まない。先輩社員に勧められればそのポリシーはあっさり覆すけれど、一人でいるときにはまず飲まない。そう決めている。
本質的には、新幹線で他人がビールを飲んだって構わないのだ。僕だってプライベートのときには構わず飲む。350ml缶をを2本は持ち込む(プレモルとサッポロビールだ)。行きも帰りも飲む。でも出張のときには飲まない。だからこそ辟易できるわけであり、そんなとき少なからず狂気が芽生える。

狂気、狂うこと。
あまりこの言葉に良いイメージは持たれないだろう。
自分の娘に「狂子」という名前をつけないのが、その証左でもある。僕だって、そんな名前をつけるんだったらキラキラネームをつける。(今鹿[なうしか]とかね)

僕は狂気という言葉の、すぐ隣に青春を位置づけてしまう。
青春。何て青い響きだろう。サカナクションの「Aoi」が聴こえてきそうだ。
でも僕は、青春が狂気とマッチしたとき、サカナクションでもカナブーンでもなく、The LibertinesというUKのロックンロール・バンドを連想する。「リバティーンズ宣言」というすこぶるダサい邦題を課せられた「Up The Bracket」というアルバムを。あるいはバンド名をタイトルにした「The Libertines」というアルバムを。20代前半の僕の青春総てが含まれていると言っても過言では無い。

僕にとって青春とは、福士蒼汰と本田翼の月9ドラマのように、キラキラと輝くものでは無い。
何だか理由も判らずイライラして、先輩に反発し、論破されると彼(あるいは彼女)のいないところで酒を浴びるほど飲んで愚痴るような、そんな鈍く鬱屈した時代がそうだ。僕が詩を書いていたのもその時代で、「死」や「痛み」、「裏切り」などをモチーフとして多用した。もちろん詩を書いているなんて誰にも言えなかった。文字の集積からキリキリとした疼きを感じさせる。人前で披露するだに憚られるほどの負のオーラを纏ったメロディ。今も昔も、ザラザラとした雑音と共に脳内を廻る。

今は、僕にとって青春では無い。
その時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
30歳を過ぎ、日々の仕事に忙殺され少しずつ責務の大きさに押されながらも、わりかしクールに日々を送っている。熱くなり過ぎず、正面からぶつかり過ぎないこと。パートナーにも恵まれ、僕はかなり自己肯定できるくらい満足度の高い生活を送っている。はっきり言って、喜ばしいことだ。

でも時々僕は、空白を埋めるべく、あるいは空白を作るべくThe Libertinesの音楽を聴く。
狂気という世界に閉じ込められた王様、フロントマンであるピート・ドハーティの狂気を身体に染み込ませる。
UKロックが好きな人ならば、彼の音楽の素晴らしさを知るだろう。薬物依存でズタボロになったとしても、2〜3分のトラックはグルーヴィでメロディに優れ、そして遊び心に富んだ仕掛けが仕込まれているのに驚き、そして愛する。死んだ魚のような眼で、いかにも「俺は絶望してる」という歌を、歌う。全然呂律が回っていない。そこが、味と言えば味だ。しかも韻の踏み方が格好良いんだよね。

I lived my dream today.
And I have lived it yesterday.
And I’ll have lived it tomorrow.
Ah, don’t lookat me that way.

「The Man Who Would Be King」

薬物依存の彼が、夢を生き続けることを歌う。
僕は基本的に歌そのものを聴きたいと思うので、アーティストのパーソナルな事情はなるべく切り離したいと思っている。だが、もう僕は彼の事情を知ってしまっている。狂気の海にどっぷり浸かっていることを知ってしまっている。
4つの文が意味するものを、意図せず拡大解釈しがちだ。
最初の3文は、まるで子どもが純粋に信じていることじゃないか。
俺のことそんな眼で見るな、と言ってひっくり返すピート・ドハーティ。

と、ここまで書いていて、特に2枚目のアルバムはもう一人のフロントマンであるカール・バラーが作っていたことを思い出した。彼もピートに負けず劣らず狂っていると思う。その方向性が違うだけで。
最も、僕はカールに対して狂気ではなく、「不思議なやつだ」という感覚を抱いてしまう。
というのもピートはThe Libertines解散後もBabyshamblesだったり、ピート・ドハーティ名義で素晴らしい楽曲を生み続けているのに対し、カールはDirty Pretty Thingsという「それほどユニークでは無い(あまり目立たない)」バンドを3年間続けたに過ぎない。それはThe Libertinesの域から抜け出せない、そこそこに優秀な音楽に留まった。

少し脱線した。
結論を急ごう。

言いたいのは、結局次のことだけだ。

村上春樹は空白を得るために走ると書いていた。
僕は狂気を得るためにThe Libertinesを聴く。

なぜ狂気を得る必要があるのか。
それは活動する上でのエネルギー源になりうるからだ。理性や理屈や論理を超えたもの。何か為すためには、たぶん狂うほどのエネルギーが必要なのだ。
リターンを期待するだけで何かに夢中になることはできない。
「何かを為す」。日々、満足度の高い生活を送っていると現状維持が目的になる。何かを変えるための労力が惜しくなる。変えることが悪にさえなる。

「王になるはずだったのに」
1800年代の引用もまた滑稽なほどに正直で、大人が妄想するには狂い過ぎている。だけど、その狂気を浴びたくなるのも確かだ。

そう考えると、「リバティーンズ宣言」という邦題もあながち悪くはないか。

参考:
http://kawasaki5600.blog64.fc2.com/blog-entry-286.html?sp