『新しい音楽とことば』を読んだ

新しい音楽とことば

新しい音楽とことば

音楽を、言葉で説明するのは難しい。
「音楽を聴く者」としてだけ、31年間を過ごしてきた僕個人の実感である。

ライターの真似事をしたこともあるし、ブログにもCD評を書いているし、居酒屋で音楽仲間と音楽談義を楽しむこともあるけれど、本質を語っているつもりでも本質からまるで離れていると感じることがしばしばある。自己嫌悪とまではいかないが、正しく伝えられないことは気持ち良いことでは無い。とりわけ音楽の「作り手」という経験の無い僕が、音楽のことを正しく語ることはたぶん不可能なのだ。きっと。

もちろん個人の自己治癒(自己満足)に止めておけば問題は無い。そこに止まらず「この音楽は素晴らしい」「この音楽は時代を象徴している」という具合に個→多へ向けた瞬間、作為的なレッテル貼りに加担する一部になってしまう。音楽を聴くというのはどこまでも主観的な行為だから何ら悪くは無いのだけれど、音楽家の意図と反してしまう(ズレてしまう)ことは本意では無いし。この匙加減が難しい。

一方で音楽にとって、音楽そのものの補完的な役割を果たす目的として、言葉が重要なのは疑いないだろう。
難しいことだと判っているのに、そういった作為が世の中でまかり通っているのは、音楽家の思いとは裏腹に「言葉」を通してでないと「音楽」をre-presentすることが出来ないからだ。
まだライヴ経験を経たことの無いバンドが世の中に認知されるには、当然客を前にしたライヴという行為が重要になる(ニコニコ動画など、インターネットメディアで注目を集めることもあるが、それは脇に置いておこう)。ただし多くの新人バンドが最初に立つステージは、キャパシティが100人に達するかどうかの狭いライヴハウスのはずだ。幸運に注目を集めたとて、一気に世間に対してブーストできるかは、客やオーガナイザーなどの「言葉」に頼らざるを得ないだろう。「あいつら、素晴らしい」みたいな賞賛を出来る限り拡散していかなければならない。恥ずかしがっている場合では無いのだ。

言葉は音楽そのものの補完的な役割を担っているが、その主要素はプロモーションだけでは無い。
本書『新しい音楽とことば』のメイントピックでもある、「歌詞」だ。むしろ「歌詞」は作り手自身によって構築されるので、これを有効に使わない手は無い。
本書で編者を務めている磯部涼は「はじめに」で以下のように語っている。

もちろん、人々がまず耳を傾けるのは「歌」、そのものである。しかし、歌詞やメロディやサウンドが絡み合った歌という芸術の中でも、歌詞という要素は妙に偏愛されているように思えてならないのだ。それはおそらく、「歌詞」が、一見、誰にでも理解しやすいような感覚を与えるからだろう。たとえば、メロディやアレンジに関しては、音楽的な言葉を持たない人は、それをなぜ「良い」と思ったのか、あるいは、「良くない」と思ったのか、ぼんやりとした印象をもってしか表現することができない。しかし、歌詞、それも特に日本語の歌詞に関しては、私たちが普段使っている言葉でつくられているため、もう少し突っ込んで表現することができる。歌を受動的に消費するだけでなく、歌から受け取ったものを能動的に表現したいと考えたとき、歌詞がまずは取っかかりになる。そう、歌詞はわかりやすいのだ。

もちろん、音楽を言葉で説明するのが難しいのと同じレベルで、「歌詞」について正しく説明することは容易では無い。
生半可にライターの真似事をして語ろうとすれば返り討ちに遭うだろう。怪我が怖ければ止めておいた方が無難だ。
無自覚な人々がTwitterなどのSNSで音楽家を褒め讃える一方で、実に様々な人々が(結果的に、あるいは意図的に)足を引っ張ることもまた多いのだ。

しかし本書が素晴らしいのは、プロフェッショナルのライター陣が意欲を持って音楽の言語化にトライしていることだ。
そしてアーティストの思いに寄り添えるだけの「語彙」「知識」を持ち合わせていることだろう。有機的に音楽と言葉が結合し、意味(無意味)を成そうと努めていることが判る。

ライター陣は磯部涼、飯田一史、柴那典、北沢夏音、竹内正太郎、さわやか、中矢俊一郎の7名だ。
(別にこの文脈でライター陣の名前を列挙する必然性は無い。だけど彼らの挑戦を讃えて列挙したい。Amazonやレビューサイトでは編者の磯部涼の名前はあったけれど、他の諸氏の名前は記載されていないのが殆どだった)

僕の感想は至ってシンプル。
13人の音楽家は歌詞に対して独自かつ強いこだわりを持ち、またそれぞれの成功体験を得た人たちだった。その見解を読み解ける貴重な読み物として本書は有効だと感じた。

石野卓球は「いかに意味のないことを書くか」に注力し、
菊地成孔は「批判性を持った歌詞づくり」にこだわり、
じんは「マルチメディアを想定した全体のうちの1つ」として歌詞を捉え、
やくしまるえつこは「どんな解釈も受け入れ」る。
七尾旅人は「試行錯誤し自身が成長する」ための1つの要素になっていて、
三浦康嗣は「ただそこにあるもの」「リスナーのもの」というスタンスを堅持し、
若旦那(湘南乃風)は歌詞で「売れる」ことを疑わなかった。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONのフロントマン、後藤正文は以下のように語る。

自分の場合はもともとサウンド寄りの歌詞づくりをしているから、ちゃんと気にしてもらわないと意味がわからないように書いているんです。それが良いことか悪いことかはわからないけど、一歩でも能動的な気持ちが聴き手にないとコミュニケーションが成立しないような書き方をあえてしています。もちろん、その加減はむずかしいんですけどね。他のジャンルを見渡すと、やっぱりラップなんかは歌詞でコミュニケーションが成立するように送り手も聴き手も訓練されている気がするけど、それに比べると自分のやってる音楽には言葉としての弱さがある気はしている。意味以前に、サウンドの一部として言葉を書いている側面がまずは強いかなと。
(中略)歌詞カードを嫌う人もいるじゃないですか。特にサウンド指向の人ってそういう傾向があると思うんですよ。(中略)日本の英語詞のバンドがものすごく丁寧な訳詞をつけたりすることなんです。そういうのを見ると「言葉が異様に大事にされている」とは思うかな。「言葉」が大事というより、みんながその「意味」とかを大事にしすぎている気がするんですよ。無意味なものを怖がっているというか。もう少し歌うべき言葉、テーマっていろいろあるはずなのにもかかわらず、使われれている言葉の種類がそこに追いついてないというか。「なんでもないことを歌う曲」がなかなかない一方で、「共感」という言葉に集約されていくような。誰かの私小説に自分のフィーリングが一致するかしないかを計るような感覚だけで言葉が選ばれているような気がする。それだけになっていくのはどうなんだろうという気持ちがあるから、そこはもう少し幅広いほうがいいと思う。(中略)すべてものものに意味がなくちゃいけないというのはちょっと怖いなと思います。

音楽と歌詞。
1つの楽曲、1つのアルバム、1人のアーティストの楽曲群(ディスコグラフィ)、1時代として形成された楽曲群。マルチメディアのうちの1つとしての楽曲。
視点によって、歌詞の読まれ方は全然変わってくる。
何かのドラマの主題歌に起用された楽曲は、ドラマを観ていたリスナーにとって特別な物語が付与される。月9ドラマの金字塔「ロングバケーション」で採用された「LA・LA・LA LOVE SONG」を聴くと、木村拓哉と山口智子の恋物語が脳内に情景として浮かぶことだろう。久保田利伸の熱唱具合を連想する人は、稀だ。

このように音楽と歌詞単独だけで無く、様々な文脈から物語として楽曲の価値が高まることも一興だろう。
多くの音楽家たちは、単独で物語性を高めていかなければならない。それはリスクを伴うこともあるし、そもそも純粋に音楽を楽しんでほしいと願う音楽家にとっては無関係な必然性に思われるかもしれない。

だけど、物語性の成立が音楽家のみに許されることでは無いことは自覚的であっても良いはずだ。
誰に?もちろん、一人ひとりのリスナーが、独自の物語を紡ぐのだ。物語という言葉が嫌ならば、意味でも価値でも構わない。
それが広く伝播していくと、いわゆる「名曲」と呼ばれたりもする。下世話な言い方をすれば、「売れる」ということ。

話が脱線しそうだ(僕は良く脱線してしまう)。
僕が思うに、音楽と歌詞の関係性というのは、あくまで原点に過ぎないのかもしれない。
基本的な関係性。あるいは関係性を表出させるための出発点としてのマテリアル。

その関係性を僕はこれからも大切にしていきたい。
そのポイントを見定めて「優れている」か否かの判断も重要だと思うからだ。
そのポイントが軽視されてはいないだろうか。ミュージックステーションの30周年の特番を観ていると、そんな風に感じられなくも無い。

純粋に、音楽が好きな一人のリスナーとして、これからも素晴らしい音楽に出会いたいと思う。

余談だが、今聴いているのはBattlesの新作「La Di Da Di」。
インストゥルメンタルで音と音との組み合わせが、洪水のように脳内に溢れていく。リズムが、読めない。
なのにアルバムを聴き終わると、何だか自分が再編されたかのような錯覚に陥る。

ああ、僕は音楽が大好きだ!