若さゆえ:ラ・ラ・ランドとナビ派展

僕には1つの仮説がある。
どんな世界においても「若さ」がブレイクスルーを生み、時代を変えていると。

2002年にArctic Monkeysがバンドを結成し、2005年にデビュー曲「I Bet You Look Good on the Dancefloor」が生まれた。このとき彼らは20歳前後だった。
カート・コバーンもジム・モリソンもジミ・ヘンドリックスも志村正彦も20代で活躍し、同じ20代で短い生命を終えている。

日本ハムファイターズの大谷翔平は18歳でプロ入りし、最初からピカピカに輝いていた。
FCバルセロナのリオネル・メッシも17歳でデビューを果たし、その活躍は誰もが知るところにある。

ミクシィもグリーもサイバーエージェントも2ちゃんねるも、
フェイスブックもツイッターもグーグルも、
寝食を忘れて若者たちが夢中になって作り上げ、結果として時代を変えた。

もちろん若さが成果に結びつかなかった事例も、事実としてたくさんある。
だが若さゆえの「何も知らない」が武器になり、前述のように、歴史に残るインパクトを多数残してきたのも事実だ。

「認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」
と言ったのは「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブル。あまりに広く認知されているが、劇中での設定年齢が20歳であったことも見逃せない。

さて本題。
先週、妻と一緒に映画「ラ・ラ・ランド」と、三菱一号館美術館の企画展「ナビ派展」を鑑賞した。
結論から言うと、どちらもとても良かった。

まずは「ラ・ラ・ランド」。
僕はTVドラマ「Glee」の大ファンなので、ミュージカル作品に対するアレルギーはない。
喜怒哀楽を表現するために用いられる歌とダンスが何といっても印象的だった。ポップなのにダサさがないのは、アメリカ文化への憧憬(≒白人コンプレックス)によるものだけではあるまい。
冒頭に「Another Day of Sun」が流れ、そのままウキウキして作品にのめり込む。デイミアン・チャゼル監督を始めとするスタッフ陣の演出のセンス、セバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)とミア(演:エマ・ストーン)の掛け合いのスピード感は楽しさしかなかった。

劇中の登場人物は、人間的には欠落している部分もあるのだけれど、Gleeを観ていたときと同様に物語の中で自然に気持ちを寄せていくことができる。
「それが物語っていうもんだろ?」と反論されるかもしれないが、ミュージカルという舞台装置が、観者の共感を加速させているのは間違いない。
デイミアン・チャゼルの前作「セッション」でも感じたことだが、チャゼルは物語の整合性をそこまで丁寧に描くことはしない。あえて余白を残している。それはつまり、論理の飛躍や破綻をある程度のレベルであれば許容し、受け手のイマジネーションに解釈を預けているということだ。

ラブ・ストーリーという枠組みに乗せ、徹底的に耽美に描かれたラ・ラ・ランド。
「夢を追いかけている」「夢を追いかけたい」「夢を諦めてしまった」という普遍的なモチーフも重なり、多くの映画ファンを虜にしたことだろう。

続いては「オルセーのナビ派展」。
有楽町駅から徒歩5分くらい、ビル街を抜けて姿を見せた洋風な建物が三菱一号館美術館だ。(この美術館を訪ねるのは初めてだった)

ナビ派とは何か。
館内の紹介文を引用すると、19世紀末、新しい芸術の創造を目指し、自らを新たな美の「ナビ」(ヘブライ語で「預言者」)と称した若い画家たちのグループである。
本展でも展示があった、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、フェリックス・ヴァロットン、アリスティード・マイヨールの面々が挙げられる。

妻はもともと、モーリス・ドニが好きだったようで。色使いの独特さ、ドニならではの佇まいの潔さは僕の目にも普通ではないものとして映った。

僕はナビ派というものをこれまで意識したことはなかったが、なるほど、過去の時代の流派の影響も受けつつ、絵画を再定義しようとする意欲をひしひしと感じることができる。
僕はピエール・ボナールの作品をとりわけ気に入った。図録の表紙にも選定された「黄昏(クロッケーの試合)」は輪郭線を排し、塗りと模様の組み合わせだけで1つの達成を成し遂げたような作品だ。印象主義の絵画が情景に対するイマジネーションを掻き立てるのと対照的に、「黄昏(クロッケーの試合)」からは何も想像できない/想像させないような意図すら感じさせる。

やや説明的になってしまった。
僕が言いたいことを端的にまとめるなら、「デュフィは色彩が綺麗」「ロバート・ハインデルは踊り子の物語性を訴えかける」「ピカソはとにかく天才だ」みたいなことが言えるのに、ナビ派の作家たちに関しては、そういったことがなかなか難しい。好きな人は好きだけど…というように結論を留保しがちな難解さがあると言えなくもない気がする。

否定的に聴こえてしまったら、僕の本意ではない。
僕はたくさんの解釈を思索できるので、何時間でも絵の前に立っていられるような魅力を持っていると感じている。フェリックス・ヴァロットンの「髪を整える女性」のようにセンスしか感じないような作品もあり、とても楽しい時間を過ごすことができた。

さて、冒頭の「若さ」についてである。
ラ・ラ・ランドの監督であるデイミアン・チャゼルは32歳で、僕と全くの同じ年齢だ。
そしてナビ派で上記した面々において、展示されている殆どの作品は作家が20代(30代前半)で描かれていたものが多かった。
(なおラ・ラ・ランドの音楽を担当しているジャスティン・ハーウィッツも1985年生まれで、チャゼルと大学時代に知り合ったという同世代である)

僕と同じ年齢、またそれよりも下の年齢のときに、これほどまでに才気溢れた作品を上梓できるというのは、どれだけの凄まじさなのだろうと、まずは感服してしまう。
「僕」という何も実績のない人間と比較することに意味は乏しいのだけれど、同じ人間であるという共通項(それに伴う視点)で俯瞰したときに、ラ・ラ・ランドやナビ派にまつわる全ての事項のエネルギーはあまりに熱々しく迸っている。

「映画に新たな観点を導入しよう」
「既存の枠組みに対抗しよう/絵画の再定義に挑戦しよう」

その意志は固く、頑なである。
頑なでないなら、どうしてあれだけのパワーは産出できるだろう。
冒頭に「若さ」について言及した自らの仮説に対して、僕は一層の納得を感じてしまうのだ。

最後に(蛇足かもしれない)。

ナビ派の代表格として知られた、件のピエール・ボナールだが、本展では展示されていた30歳を過ぎてからの作品に対して、僕はそれほど親密な気持ちを寄せることができなかった。(ちなみに図録の作家解説には1900年頃からは光に溢れる柔らかくも鮮やかな色彩表現を確立していく、とある)

あくまで、僕個人の印象だが、ナビ派という括りの中で才気溢れた作家たちが、それぞれ新しいフェーズに向かう旅路において「何かを知る」ようになったのではないだろうか。きっとそれは、年齢と無縁ではいられなかったのだ。

「若さ」という武器は、人生で何度も再来することのない得難いものである。
僕はそう思うからこそ、ラ・ラ・ランドを完成させたデイミアン・チャゼルの達成を声高に祝したいのである。現在という時間軸において立ち会えたことを心から嬉しく思うのだ。

The Rifles「None the Wiser」を買った

本当に好きなアーティストというのは、もう宿命的に好きなのだ。
という書き出しは何となく既視感を覚えるが、誰にとってもフェイバリット・バンドや、フェイバリット・アーティストがいると思う。

村上春樹にとっての、ビーチボーイズやザ・ドアーズやローリング・ストーンズのように。
ある種の人たちにとっての、フリッパーズギターのように。

今でも新しい音楽を聴くたび、身体が疼くような興奮を禁じ得ないことがある。
2013年で言えば、グラミー賞を授賞したDaft Punkの「Random Access Memories」、スピッツが2年半ぶりに奏でた「小さな生き物」、Franz Ferdinandの「Right Thoughts, Right Words, Right Action」の3枚。何度も聴いた素晴らしい作品だった。
新しい音楽で言うと、邦楽ならシシド・カフカやクリープハイプ、MOP of HEAD。新たな潮流を感じさせる自由度の高い音楽を聴かせてくれた。洋楽ならば、何と言ってもアイルランド出身のThe Strypes。まだ高校生くらいの年齢にも関わらず、バリバリのロックンロールは痛快そのものだった。

だが、僕が20歳だったら。
もっと僕は暑苦しく音楽に興奮していたし、寝る間も惜しんでYouTube巡りをしていたと思う。

家庭は無いけれど、30歳を間近に控え、僕はそれなりの生活を営んでいる。
相変わらず考えていることは青いままだし、悩んだり迷ったりしているけれど、それなりに全うな時間の使い方をしていると思う。つまるところ、明日のことなど無視して音楽に耽るような時間の使い方はしなくなったということだ。同様に、女の子と遊ぶことばかり考えて携帯電話を弄っていることも無くなった。

ある意味で、20歳の頃に見たこと聞いたこと行動に移したことは、身体の中にすっかり染み込んでいる。「価値観」という手垢のついた言葉に逃げたくはないけれど、その頃に「良い」と思ったものは今も「良い」と思えるし、その頃に「悪い」と思ったものは(残念ながら)そのイメージを覆すことは難しい。

僕が20歳の頃に夢中で聴いた音楽は、邦楽であればBUMP OF CHICKENであり、ASIAN KUNG-FU GENERATIONであり、スーパーカーであり、くるりであり、SPARTA LOCALSであり、BACK DROP BOMBであり、髭であり、奥田民生であり、GRAPEVINEだ。洋楽であればArctic Monkeysであり、ASHであり、THE KOOKSであり、JETであり、CSSであり、SIMIAN MOBILE DISCOであり、HADOUKEN!であり、TORTOISEであり、Digitalismであり、Metronomyであり、The Hollowaysであり、Keithであり、The Riflesだ。

まだ第一線で活躍している者、小さなステージで音楽を続けている者、音楽は続けているが裏方として再起を図った者、消失してしまったバンドなど実に様々だ。

だけど、その頃に、飽きずに聴いたメロディーラインやリズム、その時代の空気感は未だに僕の中で生き続けている。

先週、3枚目のアルバム「None the Wiser」を出したThe Rifles。
僕の無条件で大好きなバンドの1つだ。

イングランドを旅行したときに、ロンドンのアストリアというライブハウスで彼らのライブを観た。
2007年3月だったと思う。もう1ヶ月もすれば社会人、というタイミングでの一人旅だった。

2007年1月に彼らの音源「No Love Lost」を聴き、あっという間に彼らの音楽にハマってしまった。ギターボーカル、ギター、ベース、ドラムスの極めて普通なロック・バンドだ。凝った表現をするわけではない。思わずシンガロングしてしまうような、シンプルなメロディ。3分半の楽曲群。何が好きなのか、言葉にするのは意外に難しい。3枚のアルバムは、たぶん進化しているはずだけど、何も進化していないように見える。ライフルズは、ライフルズなのだ。

この記事で言いたいことは何か。
好きなものは大声で好きと言い続けていきたいし、忙しい最中だけど、できればしっかり好きなものを追いかけていきたい。

当たり前のことかもしれないけれど、
新しいアルバムが出たらお金を払うし、日本でツアーが組まれるならライブハウスに行くし、時々はTwitterやFacebookでリツイートやシェアをする。

当たり前のことだし、誰でもできることだけれど、何故か「しない」。
そんなことが多くなってきたような気がするけれど、それはやはり年齢のせいなのか。