村上隆「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきた

takashi murakami exhibition

takashi murakami exhibition

久しぶりのエントリ。
2月を飛び越えて3月になってしまったけれど、実感としてもそんなところ。
軽くでも良いので、ちょこちょこ更新していこう。

という意気込みの中で、ずっと行きたいと思っていた村上隆「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館、六本木)に行くことができた。
現代アートなのか、サブカルチャー的なマンガなのか、文学というコンテクストなのか、巧妙な引用なのか、卑屈なパクリなのか判らないけれど、巨大で壮大な世界観の前に、ただただ呆然とする時間を過ごした。そこには善悪や好き嫌いなど、もはや基準値としてはどうでも良くて、村上隆にしか描けないオリジナリティを前に感心せざるをえなかった。

「株式市場とアート市場は同じ」という。
自身の作品が15,6億円という金で落札されただけあって、彼の発言には説得力がある。

「お客さんの期待を上回っていくために、開発費を投じて、作品を作っていかなくちゃいけない」
そんな旨の発言のVTRが流れていたけれど、たぶん、この「お客さん」というのはアート作品を純粋に楽しむ我々のような「庶民」ではないだろう。

かなり意図的にターゲットを外し、世の中の文脈を意識しながら、作品を作り続けていく。

これは私の感覚でしかないので、真偽のほどは定かではない(というか、真偽なんてどうでも良くて)。
その外し方に嫌悪に近い感情を抑えながらも、大胆にコンセプチュアルな作品を生み出す村上隆のクオリティに言葉を失う自分がいた。大竹伸朗とは明らかに違う。創作への純粋さは感じられなかった。

展示会はスマートフォンでの撮影が許可されていた。
パシャパシャというiPhoneの音がフロアに響いていたけれど、冷たさに似たナニカを感じた。
図録買わなかったけど、買うべきだったかなあと今更ながら思う。

読み返してみると、「あれ?この人、村上隆のことずいぶん嫌いなんだな」って思われるかもしれないけれど、それは本意ではないんです。自分の表現を借りるなら、善悪とか好き嫌いとか超えたところに村上隆というアーティストはいて、ぐいっと心根を掴んで、それで放置されて今に至る。ぐわっと書き殴ったけど、おそらく正直な感覚だと思うのです。

『風立ちぬ』を観たけど、何だか良く分からない違和感

kazetachinu

公開から1週間、前回の『崖の上のポニョ』も機を逃してしまった僕だから、なるべく早いタイミングで観ようと行ってきました。

「戦争」と「恋愛」を描いた作品、名作が数多くある中で、このような類いの描き方をされた作品を僕は知りません。あまり言うとネタバレになるので詳細は書きませんが、直接の戦闘シーンもないし、何が「喜び」「悲しみ」を左右しているファクターなのか不明瞭で、エンドロールが流れた瞬間、物凄く違和感でした。

登場人物の役割も、極めて分かりづらい。

ジブリ作品『コクリコ坂から』では、主役の松崎海と風間俊を取り巻く人物設定が非常に分かりやすかった(この作品が特別そうなわけではなく、どの作品も「分かりやすさ」は“重要”というか“前提条件”なんだと思うのですが)。例えば、学園の生徒会長を務める水沼史郎。全校生徒のまとめ役として物語の細かい粗を背負い込み、回収していました。また主役の二人が仲を深めるきっかけ(=パス)を送り続けます。「ちょっと寄ってくところがあるから」なんて言って、わざわざ二人きりにさせたり。

一方で、『風立ちぬ』における準主役たちの役割は何だったのだろうか。同僚の本庄や、上司の黒川、服部。そして時折、夢の中で登場するカプローニ。

登場人物だけでなく、物語の周辺を描く伏線のようなもの。何を象徴していたのか、それがいつ具現化されていたのか。TwitterやFacebookでは、「秀作」という声が圧倒的に多いのですが、どのような理解の上でそう評しているのか、僕は分かりません。

ブログ「『風立ちぬ』を見て驚いたこと」は、完全に物語の内容も含まれていますが、僕自身が感じたものに、比較的近い印象です。

ブログの前半に、

宮崎作品の代表的な「悪者」はラピュタのムスカです。宮崎監督はムスカに「人がゴミのようだ」というセリフを言わせていますが、今回は「悪者」にではなく「主人公(=宮崎駿の投影)」に言わせるのではないかと思っていました。なぜなら主人公の声に、宮崎さんが正直者と言って止まない庵野秀明を起用しているからです。

と書かれていますが、「なるほど」と思います。

僕はそうではない、と思います。しかし以下に続く「根拠」が確からしいなと感じるのです。

この作品は、マジで何だか良く分からない

多くの人は、映画を観た後に「ああ、面白かった」「ああ、なるほどね」という感覚を自然に欲している(≒期待している)。マジョリティがそうだとしたら、この作品はマジョリティのニーズには反していると思います。しかし、宮崎駿という日本国民にとってポピュラーな作品を手掛ける人が、そのような映画をつくることは、ちょっとしたビッグ・イベントなんじゃないかと思います。

僕はたいてい、作品を友人に奨めるか否か、ハッキリと意見を持てるのですが、この作品については何とも言えません。少なくとも、僕は『風立ちぬ』について、もう少し理解を深めたいと強く思っています。