山種美術館「日本画の教科書 東京編 ― 大観、春草から土牛、魁夷へ ―」に行ってきた

Yamatane Museum Of Art

前回のエントリが7月なので、半年以上も間が空いてしまった。
これからは少しずつ、ゆっくりと更新の頻度を高めていければと思っている。

物事には色々な側面があるけれど、その中でも2月は「激動」な月だった。
その詳細はここには書かない。「激動」とはジェットコースターに乗っているような派手なイメージを思い浮かべるかもしれないけれど、そのときの僕にとっては地味なものだった。静かで、もの寂しい。小さな舟が、真夜中の大波に揺られる。必死でコントロールしているのが僕だった。

さて2017年2月24日、村上春樹の新作『騎士団長殺し』が発売された。
半月も経つので、主人公の職業くらいは言及しても良いだろう。主人公は肖像画を専門とした30代半ばの職業画家で、美術大学を卒業して筆一本で生計を立てている。本人は「自分の描きたいスタイルがない」ことに対して思うところがあるようだが、いまいち釈然としない思いを抱えている…。
そんな感じで物語が始まっていくわけだが、本作では日本画がテーマの1つになっており、全編を通じて日本画の性質や佇まいがありありと表現されている。

僕自身、美術全般に通じているわけではない。特に日本画に対しては疎い(昨年、若冲の展覧会に行ったくらいだ)。

村上春樹の筆致からすれば必然なことだと思うが、『騎士団長殺し』の世界に浸っていると、日本画にも興味が湧いてくる。
早速調べてみたところ、Bunkamuraミュージアムと山種美術館にて、展覧会が催されていることが判った。Bunkamuraミュージアムは何度か足を運んでいるが、これまで山種美術館には足を運ぶ機会に恵まれていなかった。というわけで、僕は山種美術館を訪ねることになった。

山種美術館には、想像していたよりもたくさんの人が来場していた。
その証拠にロッカーの空きは1つもなかった。全てが『騎士団長殺し』の影響を受けた人々のわけがないから、つまり日本画というのは(あるいは山種美術館が)日本人に厚く支持されているということだろう。
日本人にとっての日本画というのは、当然嗜好の中心にあるべきだと思うわけだけど、僕にとっては意外なことだった。僕のマインドセットの転換が行なわれたことを、密やかに書き添えておきたい。

以下は、僕が面白いと思った作品だ。5つほど挙げたい。

・下村観山「老松白藤」(1921年制作)
この絵を見て、私はデザイナー原研哉氏は著書『日本のデザイン』の中で以下のように述べていたことを思い出した。

ファッションとは衣服や装身具のことではなく、人間の存在感の競いであり交感であるという暗黙の前提のようなものだ。(中略)
やや極端なたとえを言えば、おなかが出るのは自然なこと。やせた若い男には出せないやすらぎやユーモアがそこにあるわけで、自信を持ってそれを表現する器量さえあれば、おじさんは十分セクシだしファッショナブルなのだ、とそんな風に考えて過ごしてきた。

意味合いは異なるかもしれないが、老年に差し掛かった松が、6曲1双の屏風に力強い筆致で描かれている。どっしりとした強さは、若く健康的な松には到底出せない。
近くから見ると、松のヤニやら苔やらがびっしりと巡らされている。日本画を通じて、人生を感じさせるような絵だった。
こちらのブログもご参照ください。

・落合朗風「エバ」(1919年制作)
『旧約聖書』の「創世記」を題材にした作品だ。
一見するとアンリ・ルソーの「夢」を思わせる。ルソーの絵が濃いグリーンで描かれているとしたら、落合郎風は瑞々しいグリーンで描かれている。題材が題材だけに、日本画にも関わらず西洋の匂いを感じる。色使いが大胆で、僕は何度もこの絵の前で立ち止まって彼の世界観に浸っていた。
こちらの紹介記事もご参照ください。

・東山魁夷「春静」「緑潤う」「秋彩」「年暮る」(1968年〜1986年制作)
山種美術館では、これらの作品が連作のように飾られていたけれど、改めて確認してみると4つの作品には約20年のスパンがある。「秋彩」が一番最後に描かれた作品だ。(実際に山種美術館の資料によると、「連作」であることは示されていない)
東山魁夷は京都の四季を描いている。例えば「春静」は緑(山)と白(桜)の2色が基本的に使われている。非常にシンプルな色合いで情緒に訴えかけるのは、やはり画力のなせる技だろう。
こちらのブログもご参照ください。

・守屋多々志「慶長使節支倉常長」(1981年制作)
支倉常長が慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡欧した「歴史」を題材にしている。
この絵は支倉がローマのとある城にいるときを描いたものだろう。手すりに腰掛け、足元にはダルメシアンがいる。侍(支倉)がダルメシアンを引き連れているようにも見える。侍は思索にふけりながらヨーロッパの町並みを涼しい目で眺めている。世界を俯瞰しているのだろうか。
事情を知らずに作品を一見すると、侍がヨーロッパの世界にタイムスリップしたような印象を受ける。
ご本人は岐阜県大垣市のご出身。歴史画家として、様々な時代を切り取ってきたわけで、この作品も多分に漏れず、特別な意図はなかったのかもしれない。
それをどう解釈するのかは、観る側に委ねられている。それもまた僕は面白いと思う。

・平山郁夫「バビロン王城」(1972年制作)
全てが計算づくされたような作品だ。精細、精緻、精密。同時に、ドット絵のような粗さも垣間見える。なのに余韻がある。見る者の状態によって印象は変わる。おそらく全て精妙にコントロールしている平山のスマートさを、作品から窺うことができる。

なるべく簡潔に書こうと思ったが、思い入れのある作品ばかりで長くなってしまった。
日本画の魅力というのは、実に様々なバリエーションがあることと、作家が独自の解釈を加えながら創作してきた過程にあるのではないかと思う。

もちろん、日本画が脈々と受け継いできた「作法」に共感を覚える人も多いと思う。そんな人からすれば、落合朗風「エバ」は言葉を呑み込んでしまうほどの異端さがあるのではないか。
だけど、時代が変われば作品も変わるし、同時代であってもスタンダードと異端児がいるというのは極めて健全なことだと思う。これからも機会を見つけて、日本画を探す旅をしていきたい。

また現在ちょうど、日本経済新聞「私の履歴書」では、美術蒐集家ジョー・プライス氏が取り上げられている。3/8付の朝刊では、初めて彼が若冲の絵を購入するという場面(しかもニューヨークで)が紹介されていた。読める環境にある方は、ぜひチェックしてみてください。

村上隆「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきた

takashi murakami exhibition

takashi murakami exhibition

久しぶりのエントリ。
2月を飛び越えて3月になってしまったけれど、実感としてもそんなところ。
軽くでも良いので、ちょこちょこ更新していこう。

という意気込みの中で、ずっと行きたいと思っていた村上隆「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館、六本木)に行くことができた。
現代アートなのか、サブカルチャー的なマンガなのか、文学というコンテクストなのか、巧妙な引用なのか、卑屈なパクリなのか判らないけれど、巨大で壮大な世界観の前に、ただただ呆然とする時間を過ごした。そこには善悪や好き嫌いなど、もはや基準値としてはどうでも良くて、村上隆にしか描けないオリジナリティを前に感心せざるをえなかった。

「株式市場とアート市場は同じ」という。
自身の作品が15,6億円という金で落札されただけあって、彼の発言には説得力がある。

「お客さんの期待を上回っていくために、開発費を投じて、作品を作っていかなくちゃいけない」
そんな旨の発言のVTRが流れていたけれど、たぶん、この「お客さん」というのはアート作品を純粋に楽しむ我々のような「庶民」ではないだろう。

かなり意図的にターゲットを外し、世の中の文脈を意識しながら、作品を作り続けていく。

これは私の感覚でしかないので、真偽のほどは定かではない(というか、真偽なんてどうでも良くて)。
その外し方に嫌悪に近い感情を抑えながらも、大胆にコンセプチュアルな作品を生み出す村上隆のクオリティに言葉を失う自分がいた。大竹伸朗とは明らかに違う。創作への純粋さは感じられなかった。

展示会はスマートフォンでの撮影が許可されていた。
パシャパシャというiPhoneの音がフロアに響いていたけれど、冷たさに似たナニカを感じた。
図録買わなかったけど、買うべきだったかなあと今更ながら思う。

読み返してみると、「あれ?この人、村上隆のことずいぶん嫌いなんだな」って思われるかもしれないけれど、それは本意ではないんです。自分の表現を借りるなら、善悪とか好き嫌いとか超えたところに村上隆というアーティストはいて、ぐいっと心根を掴んで、それで放置されて今に至る。ぐわっと書き殴ったけど、おそらく正直な感覚だと思うのです。

「アートいちはら2015秋」〜作品編〜

大好きな森ラジオステーション。森遊会の皆さんと

大好きな森ラジオステーション。森遊会の皆さんと

*全体編はこちら

あまりに好きなもの、好きなことを書くとき、
どうしても想いが先行しすぎて上手く表現できないことがある。
僕にとって「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」がそれなんだなと。前回のエントリで言葉に頼ったけれど、自らの表現力の低さを痛感しつつも、改めて想い自体の価値の重みを知った。
いずれ時間をかけて、僕らしい表現で、いちはらアート×ミックスのことを書いていければと思う。

さて「アートいちはら2015秋」に戻ろう。
このイベントは、総合プロデューサーの北川フラムさんの意向もあって、若手の作家がある程度の期間をコミットした上で参加している。その流れで、各会場に作家がいることもあって、僕たちは直接作家の話を聞くこともできる。

実は、僕はどちらかと言えば、作品そのものから何かを吸収したい / 何かを得たいと思うタイプである。
だけど、比較的僕と年齢の近い作家が多いせいか、自然とどのような制作過程を経ているのか気になっていたんだと思う。作家の方々は皆、真摯に対応してくれる素敵な人たちだった。
いくつか素敵な作品にも出会えたので、備忘録も兼ねて、本エントリに諸々書いていきたいと思う。

「仲田絵里」in IAAES
仲田絵里さんの作品に初めて会ったとき、違和感を覚えた。
一室に展示されている写真は十数点くらい。どれも、とてもあっさりした顔の女性モデルが、様々な衣装を纏い撮影されているというシンプルな構成のものだ。
何かグロテスクなものが写っているわけではないのに、何故だろうと思った。
「同じ時代」に生きている感じがしない、あっさり言うとどれも共感性が低いように感じるのだ。

種明かしはこう。
モデル(作家の仲田さん本人だ)は、幼い頃に亡くなった自身の母親の遺品を着て、撮影に臨んでいるというコンセプトだ。「母親の遺品を、娘の自分が着て撮影する」という必然性。

モデル(仲田さん)は今を生きているのに、身に纏っているのは古き時代のもの。
仲田さんも綺麗な人なので全然着こなしているのだけれど、やっぱり違和感がある。

その差分がそっくり価値になっている。
「生きること」「母娘の血縁の価値」を表現している作品なのかもしれない。

なお、仲田さんの写真集の出版元は赤々舎
以前本ブログでも書いた『ひとり出版社という働きかた』でも紹介されていた注目の出版社である(なかなか採算の取れない「写真集」をpublishしている)。
自分の興味・関心が繋がっているなあと、しみじみ感じます。

仲田絵里さんと

仲田絵里さんと

「佐藤香」 in アートハウスあそうばらの谷
アートハウスあそうばらは、養老渓谷駅から徒歩8分くらいの場所にある。いちはらアート×ミックスのために、古民家をリノベーションして造られた展示スペースだ。ハイキングに進む道すがら、ぐっと低い谷間をぬって訪れると、カフェも併設されたアートイベントを象徴したような場所だということが判る。

秋イベントでは、土絵作家の佐藤香さんの大作が展示されていた。

土絵作家、と聞いてもピンと来ないと思うけれど、彼女から話を聞くと、なかなか大変なチャレンジをしていた。
まず素材集めから大変だ。彼女が使用する具材は絵の具では無い。文字通り、土だ。

いちはらアート×ミックスに限らず、大地の芸術祭を始めとする地方のアートイベントに招かれる佐藤さん。
そこで展示をするにあたって、佐藤さんは「現場」の土の採取を試みる。良い土はわりと崖の方にあったりするそうで、命がけで具材を調達している。

作品はどれも大掛かりで、見るものを呑み込むような力強さがある。
どうしてこんな細い方が、このような大きなサイズの作品を作れるのか不思議である。
土絵作家と聞けば肯けるけれど、やはり使われている色は、土をベースにした色合いだ。
古墳とか、壁画とか、そういったものを連想させる。青とかピンクとか、そういう色は皆無だけど、紋様の独特さに迫力があって、多分見るものを唸らせるのだと思う。

具材となっている土も展示されていたが、同じ「土色」でも、色によってはかなり様相が異なっている。
赤っぽい色、黒、淡い茶色、土が太陽に照射され続けて褪せてしまったような色。どれもリアルで、何となくデジャヴだ。紋様さの独特さのことを言及したけれど、どこか懐かしさを感じるのは、僕自身が土遊びに興じていた幼少期があるからなのかもしれない。

佐藤さんは気さくな方で、作品を語ることのできる「言葉」も持ち合わせていた。
日本にとどまらず、海外でも活躍していきそうな作家である。

土絵作家・佐藤香さんと作品

土絵作家・佐藤香さんと作品

採取した土たち

採取した土たち

長くなりそうなので、一旦ここまで。
2015年のアート納めには早いので、12月もアートに触れる機会があると良いなあと思っている。
同時に、僕自身の創作意欲も増したように思う。何かを残せる人生でありたい。

栗山斉さんの不思議で美しい作品

栗山斉さんの不思議で美しい作品

月出工舎

月出工舎

「アートいちはら2015秋」に行ってきた

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*作品編はこちら

妻と初めて1日デートした場所は、千葉県市原市だった。
芸術肌な彼女の趣味に合わせて「アートが好きだ」と嘯き、参加したのが1年半前の「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」。それから不思議で楽しい縁があり、市原市には何度か足を運んでいる。僕ら夫婦にとって大切な場所だ。

そんな市原市では、11/21,22,23,28,29と「アートいちはら2015秋」が開催されている。
「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」の関連イベントだ。僕らは2日目に参加してきた。
タイミング良く、本イベントの総合プロデューサーを務める北川フラムさん(「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」の総合ディレクターも務めている方)と巡るバスツアーも企画されているとの情報を聞きつけた。参加しない理由が無かった。

バスツアーは、

・IAAES[旧里見小学校]
・月出工舎[旧月出小学校]
・アートハウスあそうばらの谷
・内田未来楽校
・森ラジオステーション
・市原湖畔美術館

という主要エリア全てが網羅されていて、1箇所に滞在する時間は多少タイトだったものの、のんびり鑑賞しがちな僕ら夫婦にとって、全てを満喫できるというのは非常に喜ばしいことだった。
少々文字数も多くなってしまうので、「アートいちはら2015秋」で心に残った作品については別エントリにて紹介するが、魅了的な作品がとても多くて、ほくほくとした気分で三連休を過ごすことができた。多くの現場では作家の方々が待機してくれていて、作品の制作経緯だったり、制作意図などを直接聴くことができた。普通の美術展では考えられないことだし、作品を別視点で見ることのできる貴重な機会だったと思う。

紅葉のピークは来週末とのことだが、市原は銀杏の黄色で色付いていた。
春の菜の花とはまた違う、趣きのある素敵な光景だった。

***

大前提として、「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」もジャンルとしては、最近良く耳にするビエンナーレやトリエンナーレなどと同様のアートイベントに違いないだろう。
僕自身、この手のイベントは門外漢なわけであくまで私見だけど、「中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス」は単なるアートが主役なイベントでは無いように感じている。

温かさを感じることが多いのだ。

例えば。
たくさんの魅了的なアート作品の傍らでは、イベントを支える地域ボランティアの姿が必ずある。
時には猪汁を振舞ってくれたり、時には受付を担当してくださったり、時にはみかんを袋いっぱい分けてくれたり、時にはバスの出発を見送り手を振ってくれる。

別エントリでも書いたけれど、地元の人たちは現代アートにおいて「何が面白いか」なんてことが(乱暴な言い方だけど)判っていない人たちも少なからずいるんじゃないかと思う。というか、そういうことに価値を感じているのではなく、そこから派生する様々な物事に面白みを感じてくださっているのではないだろうか。それは全然悪いことじゃないし、むしろより健全だとさえ感じる。

その証拠に、市原に来る観光客を案内しようとする彼らの熱意は本当に高い。クリエイティヴという現場で、「作り手」である作家に負けないほどの溢れんばかりの情熱があると感じさせる。

そんな雰囲気の中で楽しむことができたので、今回のバスツアーでは参加者の方と個人的にメールアドレスを交換させていただいたり、地域NPOのチラシをいただいたりして、本当に僕たちの人生にとっても意義深かったと思う。

北川フラムさんはバスの中で、「市原市が抱える問題をどのように解決するか」ということを話されていた。
僕たちも微力ながら、その過程を楽しみながら見つめ、また時には関わっていければと思った次第だ。

湖畔美術館

湖畔美術館

木村崇人さんの作品

木村崇人さんの作品

小湊鐵道バス

小湊鐵道バス

妻の現場に行ってきた

11/20〜22の期間中、西荻窪で開催されていた妻の展示会「Koristella展」に行ってきた。
とても印象的な絵を描ける妻と、女性らしい可愛いアクセサリーをコラボレーションしていただいた今回の企画展。「マッテとポッケ」というお店の雰囲気にもぴったり合っていて、僕自身も誇らしい気持ちを持つことができた。妻のチャレンジに心から敬意を表したい。

妻はもともと絵を描くことが好きだった。
仕事が終わり、夕食を共にした後で、時々おもむろにパレットに絵の具を敷いて、とても象徴的な女性の絵を描いていた。彼女の絵は、彼女のまっすぐで邪気のない性格を反映しているように感じる。それは、例えば僕のように、邪な感情ばかり抱いている者の心に、ぐさっと懐かしさと切なさを打ち込んでくる。
表現が適切かどうか今ひとつ自信がないけれど、年に数回姪っ子に会って、すっかり心が浄化されるような感覚に似ていると思う。なんでこんなに癒されるのかというと、それは子どもが本来持つ無邪気さであったり、汚れていない純度の高い素直な感情表現がそうさせるんだと思う。

身内びいきで大変恐縮だけれど、彼女の絵は、それに近い力がある。
誰しもが持つ想像力に向かって、じわりと喚起を促すような。

彼女の絵に囲まれた彼女は、とても堂々としていて素敵だった。
料理をするときに、割と高い確率でフライパンを焦がしてしまうような、おっちょこちょいな要素は一切無かった。ほくほくとした充実感を彼女は纏っていたんだと思うし、それがおそらく彼女の絵を見た全ての人たちの実感でもあったはずだ。

「またこれからも絵を描いていきたい」
そう宣言する彼女をいつまでも応援するだろうし、僕自身も「作る」という行為にこだわっていきたい。妻の現場で、その決意が強まったのは本当に妻のなせるわざで、有難いことだと思うのです。

マッテとポッケ

マッテとポッケ

アクセサリーとパッケージにして

アクセサリーとパッケージにして

内装もおしゃれ

内装もおしゃれ

感嘆する夫

感嘆する夫

ポストカード

ポストカード