【Apple Music】2015年音楽まとめ

7月に日本でApple Musicがローンチした。
Spotifyなどの定額音楽配信サービスが日本国内で悉くローンチが見送られていた背景もあって、Apple Musicはローンチ直後から熱烈に日本の音楽ファンに歓迎されていたように思う。テンションの差こそあれど、無料試用期間を経ても、色んな人が使い続けているという声は良く耳にする。

ローンチ直後のエントリで書いたが、待望していただけあって殆ど毎日Apple Musicを使った1年だった。おかげでCDという形態での購入はたった1枚に留まってしまった(買った理由は初回特典のDVDに魅せられたため)し、TSUTAYAさんにも1度も行かなかったと思う。それはそれで寂しいかもしれないけれど、少なくとも昨年に比べれば数段音楽への関心度は高まったと思う。間違いなく。

このエントリでは、そう言った御託はさておき、Apple Musicで良く聴いた作品をピックアップしていければと思います。思いつきのまま、順不同で。2015年にリリースされた曲には「★」をつけておきます。半数以上は2014年以前の音楽ですが、改めて良さに気付いたり、今まで知らなかった音楽に出会えるという利点もApple Musicにはあります。YouTubeへのアクセスじゃ、何だか味気ないものね。VIVA!Apple Music!

クラムボン「triology」

クラムボン「triology」。5年ぶりのオリジナルアルバムでした。

Kai Takahashi「Soda Pop - Single」

Kai Takahashi「Soda Pop – Single」。軽快なメロディが気持ち良い。

Fishmans「Neo Yankees' Holiday」

Fishmans「Neo Yankees’ Holiday」。改めて良さに気付いた1年でした。

チャラン・ポ・ランタン「テアトル・テアトル」

チャラン・ポ・ランタン「テアトル・テアトル」。豊洲野音で2回目、素晴らしかった!

The Libertines「Anthems For Doomed Youth」

The Libertines「Anthems For Doomed Youth」。再結成、待ってたよ!

!!!「As If」

!!!「As If」。朝霧JAMでも最高でした!

The Paradise Bangkok Molam International Band「21st Century Molam」

The Paradise Bangkok Molam International Band「21st Century Molam」。バンコクのバンド?に出会えました。

やけのはら「SUNNY NEW INSTRUMENTAL」

やけのはら「SUNNY NEW INSTRUMENTAL」。のんびりした休日に聴いてました。

The Strokes「Is This It」

The Strokes「Is This It」。今までストロークスが良いなんて思わなかったんだけど。

H ZETTRIO「★★★」

H ZETTRIO「★★★」。JAZZなの何なの最高なの?!

 


Kai TakahashiはCanonのプロモーションで楽曲が使用されていて、プロダクトの世界観にピッタリだなと感心した。アーティストにも企業にもプラスになるということは、カルチャーにとっても価値があること。Pharrell Williams「Happy」の時も感じたけれど、こういうプロモーションがむくむくと伸びてくるのは本当に見ていて気持ちが良いものです。Kai Takahashi(高橋海)はLUCKY TAPESというバンドのフロントマンとのこと(こちらはApple Musicでは配信されていない様子、残念)。要チェックです。

 


H ZETTRIOは最新アルバムはApple Musicで配信されていないのが本当にもったいない。
あまりに悔しいので、公式YouTubeの「Beautiful Flight」をEmbedしておきます。超かっこいいです。朝霧JAM2015ではRafvenの裏だったのでめちゃくちゃ空いていたけれど、演奏が洗練されてて本当に良かった。彼らのホーム・グラウンドで、彼らの音楽にも酔いしれたい。

 

ということで、特に気になった2つだけは詳述してしまいました。
クリスマスイヴにはThe Beatlesの楽曲も配信されたし、邦楽もどんどんラインナップしていけば良いのにと思う年の瀬です。

2016年の音楽ライフも楽しみ。
というか、自分でも色々生み出さなくちゃ。

積ん読リストを年末にちょっとだけ片付けた

2015年は意識的に本を読んでいこう。
そう決意した年始の誓いだったのだけど、残念ながら、積ん読リストは殆ど更新されず。。。
それでも、2015年12月とある日に気付けたのは良かった。積ん読リストをちょっとだけ片付けたので報告を。

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◆『イノベーションのジレンマ〜技術革新が巨大企業を滅ぼすとき〜』クレイトン・クリステンセン


イノベーションって、言葉にするのは簡単だけど、本書を読んでみて実際にイノベーションを目指せる組織にするのって本当に難しいんだなと実感した。

要約すると技術には2種類(持続的技術と破壊的技術)ある。
前者はこれまでと同様のビジネスモデルが通用するが、後者は通用しない。
多くの既存顧客は当初は破壊的技術を取り入れたプロダクトなど欲していない。なので企業側も破壊的技術を取り入れようか経営判断に悩む。そのように市場に対して逡巡している間に、破壊的技術をメインに据えてきた企業が市場を独占し、巨大企業(持続的技術でメシを食ってきた企業)を蹴落としてしまうというのがだいたいの要旨で間違いないだろう。

思い当たる節は幾つもあって、自分事として納得することが多かった。難解な箇所もあり何度も船を漕いでしまったのだが、経営本としては「古典」にあたる本書を年内に読み切ることができて良かったと思う。

◆『ジョナサン・アイブ』リーアンダー・ケイニー


AppleのChief Design Officerであるジョナサン・アイヴにフィーチャーした本。

ブランディングやマーケティング、プレゼンテーションに関するApple関連の著書は山ほどあったけれど、純粋にデザイン(の本質)にフィーチャーする著書はなかなか少なかったように思う。デザインを取り上げるならば彼をフィーチャーしないわけにはいかない。秘密主義のAppleの中で、筆者が丹念に取材し続けたのが分かる1冊になっている。

終盤は、やっぱりスティーヴ・ジョブズの言及が多く、主役であるジョナサン・アイヴのお株をほぼほぼ奪ってしまった。そのティッピングポイントは、Appleがもともとデザインに対して持っていた価値観が昇華して、かなり最高度水準まで洗練されてきたことで、「デザインが前提」としてAppleの中に浸透していったことを証明しているようにも思う。

ちなみに本書は特にジョナサン・アイヴにオーサライズを取っているわけではなさそう。
この手の人物評は過剰に良く描かれるか、その逆かどちらかなことが多いけれど、非常にフェアな視点で書かれているような印象を受けた。

彼に影響を与えたロバート・ブルーナー(かつてのAppleで工業デザイン部門の責任者を務め、ジョナサン・アイヴをAppleに引き抜いた人物)の言葉も面白い。

退屈な仕切り机の中ではデザインなんてできない。そんなところじゃだれも働きたがらない。天井が高くて気持ちの高揚するようなオープンスタジオが絶対に必要だ。それがものすごく大切なんだ。それが仕事の質を左右する。やる気を生むんだ。

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まだまだ積ん読リストがいっぱいあるので、2016年こそはしっかりインプットの質を高めていきたい。

『 “ひとり出版社”という働きかた』を読んだ

“ひとり出版社”という働きかた

“ひとり出版社”という働きかた

「生きる」ことと「働く」ことは同義ではない。
当たり前のことだけど、「生きる」ための手段として「働く」がある。別の言い方をすれば「生きる」という大枠の中に「働く」も位置付けられているということだ。

僕は社会人に入ってから、この大原則を殆ど意識せずにいたし、むしろ「生きる」=「働く」と認識していた気がする。
ガツガツ働き、それなりに成果も出て、収入や幸福度に結びつくのであれば幸せなことだと思う。難しいことは何も考えずにいた方が良いのかもしれない。シンプルイズベスト、何事も考え過ぎはよろしくないのだ。

幸か不幸か、僕のようなややこしい(と自称している)人間が、「生きる」≠「働く」ではないかと疑いを持ち始めると、色んなややこしいことを考えてしまう。
今まで疑いなく組織の中で働いてきたことに懐疑的になる。生きるための別の方策を無意味に無謀に考えてみたりする。ちょっと失敗しただけで「辞めます」と言いたくなる(映画『モテキ』の主人公は、上司に「お前はそんなポジションにもいねーんだよ」とド突かれて辞めることなくストーリーが結末に向かった。めでたしめでたし)。

脇道に逸れてしまったけれど、そういう「ややこしい」自分に対して納得性を持たせる上でも、何かしらの刺激や理論武装が必要になる。「ややこしい」人間への対処法は、その名の如く「ややこしい」処方箋を必要とする。馬鹿につける薬はない、の一歩手前くらいの面倒さ加減ではないだろうか。

そんな中読んだ『“ひとり出版社”という働きかた』(西山雅子著)はドンピシャで面白かった。

本書の中には「一人」または「小規模」で出版社をやり繰りする人たちの様子が描かれている。
著者の西山雅子はかつて出版社に勤務し、現在はフリーランスとして活動をしている。ここで描かれているような「ひとり出版社」という位置付けで活動しているわけではは無いとあとがきでも述べている。この形で「働く」ことは「生きる」ことが保証されているわけではない。むしろ困難が山ほど発生すると述べている。
巷のビジネス本のように「これをやったら成功者になれる!」と息巻くようなハウツー本ではない。
本書は、西山が「ひとり出版社」として活動している人たちへの取材を行ない、主にひとり語りのような形で自分の活動を紹介するという構図になっている。大変そうだが、とても生き生きと働いている人たちの様子が眩しい。

本書は「働きかた」というタイトルがついている。だがそれを超えて、「生き方」まで言及している方が非常に多いと感じた。
例えば赤々舎・姫野希美は大手出版社が手を出しづらい写真集の編集および出版に果敢にチャレンジする。写真家と二人三脚で取り組み、出版にこぎつける熱意と創意工夫には何度も驚かされた。

写真に写しとられたものが、その人にとって、どれほど切実な存在なのか。その写真が人間についてのなにを考えさせてくれるのか。それが私にとって、とても大事なんです。つまり、人は人に興味がある。でも、一番わからないのも人間。たぶん、自分自身も含めてわからない。(中略)私は特別な感受性をもっている人間ではないので、少なくとも私がこんなに心が動くなら、同じようにこの作品を必要としてくれる人がいるはずだと。

彼女の発言は、人間への純粋な好奇心に基づいている。
この章では、彼女が若かりし頃に上海に2年間住み、不動産の仲介業をやっていたことも紹介されている。「ビジネスには興味がない、人間に興味があったから上海に住んでみた」という言葉からも、彼女が「人間」をきっかけにした「働きかた」「生き方」を志向していることが窺える。

そういうことなんだと思う。
冒頭でも書いた通り、「生きる」と「働く」は完全に同義ではない。
でもどこか繋がっているべきなのだ。というのが登場する人たちの共通した考え方ではないかと僕は感じた。

何より面白いのは、全ての人たちが「本を愛している」という事実だ。
出版不況や電子書籍の台頭など、出版業界がなかなか立ち行かないのは良く報道で耳にする。
だけど本を愛し、情熱を持って仕事に取り組む彼らの言葉には力があるし、それを編んだ著者・西山雅子の思いも全ページを通じて真っ直ぐに伝わってくる。
スペシャルインタビューの谷川俊太郎や、寄稿の内沼晋太郎の話も面白かった。一番のオススメはミシマ社の三島邦弘の章かな。

本を愛する人、ものづくりに情熱を燃やす人なら、読んでおいて損はないと思う。

戦後70年

今日から70年前の1945年8月15日。
昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送、いわゆる玉音放送が当時の日本国民に伝えられた。諸説あるようだが、日本ではこの日が終戦記念日として設定されている。

古市憲寿くんが2年前に書いた『誰も戦争を教えてくれなかった』にもあるように、僕も戦争のことをあまり知らない。終戦記念日とあるが、この日を「敗戦」「終戦」のいずれで記述するかでも数時間の論争が発生するという。

倉本聰さんは、日本経済新聞(8月1日朝刊)における「私の履歴書」で以下のように述べている。

リベラリストを自任してたけれど、右寄りと言われたり、左と言われたりしてきた。ちょうど80歳。終戦のときに10歳の、まぁ戦中派だ。疎開して空襲には遭わなかったけれど、死はすぐ隣にあって怖かった。いつも腹が減っていた。戦争は二度とごめんだ。
国を愛する気持ちはひと一倍だが、愛国心を強調すると右と批評される。国を守るのは大事なことだ。しかし、衆院を通過した安保法制には反対。戦争の臭いがするからだ。そうすると左とレッテルを貼られる。

僕もそんな風に思われること、あるいは糾弾されることを恐れて、この問題に公然と意見を述べることを避けてきたように思う。避けてきただけじゃない、たぶん考えることも停止していたんだと思う。「戦争はダメだ」「平和が一番だ」と言う当たり前の結論に身を委ね、僕はそのプロセスに真剣に向き合わなかったと思う。

古市くんは本の序章で、真珠湾攻撃の舞台になったパールハーバーを訪問した感想を以下のように語る。

アリゾナ・メモリアルの隣には、日本が連合国に対して降伏文書を調印したミズーリ号が停泊している。つまりアリゾナという「開戦」の記憶、ミズーリという「終戦」の記憶が同時に喚起されるような構成になっている。
(中略)
妙な居心地の悪さを感じる場所だった。それは、アリゾナ・メモリアルが僕の持っていた戦争というイメージを、いくつかの意味で裏切る場所だったからだろう。
そこは、あまりにも「爽やか」な空間だった。白を基調に構成された建物は南国の青空によく映える。博物館内の展示物にもグロテクスなものはあまりない。展示はすぐれて「中立的」である気がした。もちろんアメリカ目線ではあるけれども、過剰に戦争の悲惨さを説いたりはしない。日本に対する感情的なバッシングもない。
そして、そこは「勝利」に溢れた場所だった。

戦勝国のアメリカと、敗戦国の日本。
戦争をどのように遺すかということに興味を持った古市くんが語る戦争論。

僕は2012年に韓国に行ったとき戦争記念館を訪ねた。元同僚と別行動で行った理由は何だっただろう。それほど明確に語れる理由は無かったと思う。でも、殆ど人のいない記念館で、異邦人(韓国人ではない私)としての僕は、とても居心地の悪い思いを抱いた。
当たり前のことだけど、日本人と韓国人にとって、「戦争」の持つ印象や意味は違う。

松本人志は自身が主催する番組「ワイドナショー」で次のように述べている。

安倍(首相)さんがやってることに対して反対しているのって、意見じゃないですか?それはただ反対しているだけであって、対案が見えてこない。じゃあどうするのかっていう。前もいいましたけど、このままでいいわけではないんですよ。もしこのままで良いと思っていたら平和ボケですよね。世界情勢は確実に変わっているわけですから。何か変えないといけないんですけど、イマイチ誰もそのことについて(対案を、あるいは論点を)言ってくれない。

松本人志の発言が一部メディアで批難されたりしているけれども、番組を最初から最後まで観ると決して「偏った」ことを言っているわけではない。
対案を、あるいは論点を、というように僕自身が補正してしまった感もあるけれど、僕もそこを聴きたいし、語る術(意思)を持ちたいと正直に思う。

機会があって昨年は長崎に、今年は広島を訪問した。
「原爆」という信じられない虐殺兵器が投下された街で、僕は色々なことを思った。冬の長崎は雨で寒く、春の広島は快晴で汗ばむほどの陽気だった。過去から見た未来(つまり現在)はしっかりと時を刻んでいることを実感した。
僕は過去に恥じない人間になっているだろうか。過去から良質にアップデートされた人間として機能しているだろうか。

戦後50年の村山談話も、戦後70年の安倍談話(昨日発表されたもの)も読んでみた。もう少し色々なインプットをして、何らかの形でアウトプットをしたい。

タイトルを「戦後70年」とした。
だが、こんな風なタイトルを付けること自体が、松本人志の言う「平和ボケ」なのかもしれない。
世界を見渡せば、あるいは世界の中にちゃんと位置されている日本にいる僕らも、もはや戦時中かもしれないからだ。

ちなみにワイドナショーで話していた読者モデルの岡本夏美のコメントも興味深い。東野幸治に振られたとき、

(高校生がデモを行なっていることについて)正直意識があるのは凄いと思うけれど、クラスにこういう子がいたら、引いちゃうというかちょっと入れない。

これも致し方ないと思うけど、参政権が18歳に引き下げられるのであれば、この辺も問題かもしれない。「何が問題なのか」「何がイシューなのか」という感もあるけれど。結構面白いよ、ワイドナショー。

又吉直樹『火花』を読んだ

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我がドラゴンズの又吉こと又吉克樹は今シーズン不調だが、こちらの又吉こと又吉直樹の小説『火花』は絶好調である。今年3月に発売され、いまや200万部突破という話題の小説を読んでみた。

200万部を打った作家と自らの執筆経験を比較するのも恐れ多いのだが、「物を書く」とりわけ「物語を書く」というのは自らを切り売りするだけでなく、深層心理(あるいは真相)へと深く潜り込む作業だと思っている。
名探偵コナンは難解な事件を30分(前後編にすれば1時間)で解決してしまうけれど、それほど才能の無い人間が小説を書き、自らの考えを深めるべく執筆していくとゴツゴツとした岩場に何度もぶつかる。それは痛いだけじゃなくて、真っ直ぐ掘り下げていたと思っていたらまるで見当違いの方角へ進んでいたと気付かされることもある。いわゆる「ノッている」ときならまだしも、だいたいは疲弊する。何より小説の場合、ある程度の時間を要するのだ。最終的な風景が見えるまで、途方もないと思わせる道のりに立たされる。
それでも「書く」のが止められない状況になることがある。「この小説を何としても書き上げよう」という強い意思があるからだ。それゆえ日々どんなに疲れていても書こうと思えるし、執筆が止まったときにも意識の片隅に小説のことが頭を過る。
その状況に自分を持っていくことができれば、それはとても幸福なことだし、その状況がどうしても作れないときは最悪、書くのを止めなければならない(言うまでもなく、作家にとって最も不幸なことの1つだ)。

又吉直樹の『火花』は圧倒的に前者の強い意思を感じる。
漫才コンビ・ピースのボケ担当としてバラエティ番組で活躍していることもあり、神谷と徳永という二人の芸人を扱うことは彼の領域にピタリと当てはまる。また「笑いを生む」でなく「笑いを表現する」という意思がもともと強かったんだと思う。その意思をしっかりと感じるし、実際漲っていたのだろう。意思あればこその本作なんだと思う。

文章の感性が瑞々しいというわけではなく、どこか昭和(昭和以前)を感じさせるのは、彼が敬愛する太宰治などの影響かもしれない。そんなに引用を感じさせるような記述は無いのだけど(そして太宰を語れるほどの知見を私自身も持ち合わせていない)、独特の一文の長さには、現代の作家性の中でひときわユニークであるというイメージを持った。どことなくフェミニンな要素のある作家なのかもしれない。

祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞き取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の感覚で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高過ぎるので、敢えて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。

「笑い」のことを小説や映画などで表現するのは野暮と糾弾する必要があるかもしれない。
芸人は舞台やテレビで「笑い」を取るべきだと言う人もいるかもしれない。

だけど、あるメディアを通じてでしか語れない(表現できない)こともあると思うし、又吉直樹本人もドキュメンタリー番組で「小説も笑いも一緒」という節の発言をしている。彼にとって書くことは「笑い」を追求するための1つの実験に過ぎないのかもしれない。そして小説『火花』からは、その野心が表出し、愛すべき実験の試行錯誤さえ垣間見える清々しいアウトプットだなと僕は感じた。そして最終的に又吉直樹は、神谷も徳永のことも愛し切ったのだと思う。

「笑い」が好きな人は、必読である。
願わくば、文庫版が出る前に。