編集とは、インプットとアウトプットの中間(柳本浩市展に行ってきた)

都立大学駅から歩いて15分。
住宅や倉庫などが点在している、東京の郊外といった雰囲気の場所にsix factoryというイベントスペースがある。
http://sixfactory.jp/

そこで6/4(日)まで開かれていたのが「柳本浩市展“アーキヴィスト-柳本さんが残してくれたもの”」だ。
2016年に46歳の若さで急逝した氏のアーカイヴを集約した展覧会。彼の功績を讃え、スタッフやキュレーターがクラウドファウンディングなどを駆使して開いたというもの。彼が生前集めていた世界各国の日用品、雑誌の切り抜き、ホテルの備品など、ありとあらゆるものがコレクションとして展示されている。

まず入り口に入ると、世界各国の牛乳パックと洗剤のパッケージが、ガラスケースに収まっていた。
懐かしさを感じるとともに、各国のプロダクトデザイナーが知恵を絞って練り上げた商品が、何とも言えないクリーンな趣を醸し出している。牛乳パックはどれも各国の特徴を踏まえてデザインされているけれど、須らく牛乳パックであることが一見して判る。

柳本氏がなぜわざわざ牛乳パックの収集を試みたのか、その集合体をぼんやり眺めるだけで共感できる。
牧場を表現したようなThe 牛乳といったデザインのものや、キャラクターを配するもの、赤や緑のストライプが入っているもの、牧場というよりは牧草がメインになっているもの。たぶん牛乳(ミルク)というのは、土地に応じたイメージがあり、そのイメージを端的に表現したプロダクトデザインになっているというカラクリだろう。逆に言うと、そのパッケージから土地の生活が透けて見える。色、数字、文字量、表象…。その土地の人々が持っている感覚というのは千差万別なのだ。

プロダクトデザインはメッセージ。
端的に言うと、そういうことだろう。
それを集合体にしてみると、また新しいメッセージになりえる。それがたまらなく面白い。

僕は常々、「良質なインプットなしに、良質なアウトプットは生まれない」と言っている。
もちろん熟年を経た大人であれば、十分なインプットがなくとも、整合性の取れた何らかのアウトプットを発することはできるだろう。

ただし多くの人間は、ゼロからは何も生み出せない。
ゼロから何かを生み、あるいは生み続けるためには、相応の代償(コスト)を支払わなければならない。
コストというのはすなわち、インプットにかかるお金であり、時間であり、知性や集中力である。

とりわけ集中力が大事になる。
僕自身を省みるとインプットそのものは苦にならない。しかし、インプットを長時間保てるほど集中力や継続力を持ち合わせているかと言えば、否だ。何かに没入できるというのは才能やスキルの1つだと痛感する。(例えば、僕は書きかけで止まっているブログや、読みかけで放置されている書籍が山ほどある)

柳本氏に関して、その集中力は猟奇的と言えるかもしれない。
幼い頃から収集するという習慣はあったようで、彼の年表には、その当時彼が関心を持ったもの=収集として示されている。彼の人生そのものが収集だったというのは正確でないにしろ、費用や時間の大半を、まずは収集に充てたというのは疑いようがない。

きっと、インプットとアウトプットの中間には「編集」というフェーズがある。
「編集」というのは広義にも狭義にも解釈できる言葉だけれど、字面通り「集めて編む」ということなんだろう。その編み方が人それぞれであり、人それぞれであるということは、必ず主体者の意思が入り込むことなのではないだろうか。

つまり、柳本氏が収集したものは、柳本氏の意思によって編集され続けていたのだ。
MOOK本のような形で社会にリリースされることもあったけれど、大半は収集され、編集された場所で止まっていたのだと思う。(もちろん、彼はそれを仕事に活かしていたんだと思うが)

「自分の道を極めたい」そんな彼の純粋な意思を感じてしまう。
そう思ったから、展示会の後、僕はInstagramでこんなことを呟いた。

彼は、こんなことを言っている。

僕のファイルは整理では無く、1つのキーワードによってまとめた、ネット検索に近いものです。その情報はソースでしか無く、活用する人によっていかようにも変化します。この可能性を体験から見出す実験でもあります。

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アーカイヴという意味は日本では所蔵などのニュアンスで使われていますが、本来は蓄積した情報を未来に役立てるという意味なんですよねえ。つまり過去ではなく未来。

やっぱ、未来を生きていたいなと。
そんな僕自身のスタンスを再確認できた、とても良い展示会でした。

言葉、ことば(2015年10〜12月)

2015年最後のエントリです。
「色々あったけれど」という枕詞に相応しいほどに、2015年は良いことも悪いことも気疲れすることも手放しに喜ばしいことも「色々」あった。

その中でも一生に一度(であろう)、入籍というのはとりわけ僕にとって大きなイベントだ。
ライフステージが一気にアップデートされ、取り巻く環境や考えるべきポイントが極めて多岐に及ぶようになった。「入籍以前」「入籍以後」という区分けが生まれそうなくらい。丸くならず、良い意味で尖り続けていければと思う。

昨年に続き、今年も残念ながら小説を公開することができなかった。
長い作品になればなるほど、自分の意思や意欲を1点に集中する必要性を感じてしまう。本当は時間を決めて取り組めば良いのだが、仕事やプライベートの予定が詰まってしまうと執筆を継続することが困難になる。まあ、これは言い訳というか自分の弱い部分でもあるので、反省すべきポイントとして2016年に活かしていきたい。

前段が長くなってしまったが、2015年10〜12月の「言葉」についてのエントリ。
言葉メモは習慣として、1年以上続けることができている。良い傾向の1つである。

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12/12
12/11日本経済新聞朝刊 私の履歴書「奥田務」
参考URL:http://www.nikkei.com/paper/article/?ng=DGKKZO94991190Q5A211C1BC8000

儒学の祖の一人である荀子の言葉から採った「先義後利」というもので、その意味は「企業の利益はお客様と社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされる」。天保8年(1837年)に大阪で多くの豪商が一揆の焼き打ちに遭った大塩平八郎の乱があったが、大丸は逃れることができた。大丸は徳義を重んじる家風が庶民にも広く知られ、乱の頭領の大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じて難を逃れたこともある。先義後利の話を初めて聞いたときに「利益を追求するためにお客さんや社会への言い訳のようなもので詭弁(きべん)だ」と思った。しかし、後に経営者となってすべての経営活動において先義後利の視点を欠くと、必ずと言っていいほどうまくいかなかった。

百貨店業を営む大丸の社長を務め、2007年に大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合(後のJ.フロントリテイリング)を主導した奥田務さんの言葉。「先義後利」という言葉は聞いたことがあったけれど、当時の奥田さんのように、まだ僕の中で腑に落ちていない概念だ。僕もこれから経験を積むにあたり、この言葉の持つ意味合いを実感するだろうと何となく予感している。

 

12/1
村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか』。ギリシャのミコノス島を24年ぶりに再訪した際に感じたこと。

「何年か前に改築したから、昔とは印象が違ってるかもしれないね」とその青年が教えてくれた。僕が礼を言うと、ダムディロプロス青年はにこにこと手を振って「アナルギロスの雑貨屋」に戻っていった。島の人たちは(おおむねみんな)親切で友好的だ。そのへんは昔と変わらない。24年が経過しても、通貨が変わっても、辺りの風景が変化しても、冷戦が終わっても、経済が上がり下がりしても、人々の心根にはそれほど変化はなかったみたいだ。それが僕をほっとさせる。なんといっても人の心は、その土地にとっていちばん大切なものなのだから。

間接的に「福島」のことを示唆しているだろう。『職業としての小説家』に書かれていた「個の回復スペース」というのも、場所そのものの不可欠要素について言及していたけれど、円熟期に入っての村上春樹の言葉の1つ1つに深みがある。本書もさくっと読める紀行記である一方で、読んでいて唸らされるような記述もあって、とても学びになります。


 

10/25
数学者・森田真生とグラフィックデザイナー・原研哉との会談
参考URL:http://www.takeo.co.jp/reading/dialogue/15.html

そもそも「マスマティックス」には「数の学問」という意味はありません。「マテーマタ」というギリシャ語が語源で「最初から知っていたことをあらためて知る」という意味なんです。知らないことを知るのではなくて。

1年前に開催されていた竹尾ペーパーショウの企画「SUBTLE」。
「紙」というものの繊細さ、精密さを再発見することができた展示会だったけれど、専門分野の異なる両氏が何度も熱くクロス・オーヴァーしながら「デザイン」「数学」について語り合う本対談は必読です。上述した言葉はその中で身に沁みた一節。イコールという置き換え作業は、誰もが知っている初まり(前提)から展開されていくものだ。前述した村上春樹『職業としての小説家』にも同様の記述がある。同時多発的なリンクが発生している。

森田真生氏の『数学する身体』、原研哉氏の『デザインのデザイン』も併せてオススメです。


 

12/4
松本人志:ワイドナショー(2015年11月29日放送分)。ワイドナ高校生の水谷果穂がワイドナショーの感想を問われて「すごく素直な意見でとても楽しいです」と答えたのに対して放った一言。

誰のことを言うてんねん。誰のことを何目線で言うてんねん。

「一億総ツッコミ時代」という少し前の言葉もあったように、TwitterなどのSNSで批評家ぶることがもはや常態化した昨今、ワイドナショーで女子高校生が何となしに発した一言+松本人志の返しがとても興味深かった。Face to Faceだと、このように「笑い」という温かみのあるコミュニケーションの中で盛り上がるけれど、匿名性の高い空間だとそうもいかない。僕自身もこうしたエントリを続けているけれど、松本人志の言葉は常に意識の片隅においておくべきポイントだと自戒したい。というかワイドナショー、やっぱり面白いです。

 

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ちなみに、
2015年のブログのエントリ数は39本(本エントリを含む)。
一番読まれたエントリは「漫才の歴史が変わったウーマンラッシュアワーの凄さ」。
2013年12月のエントリだけど、ダントツでアクセス数を稼いでいます。なんでだろ。

2015年7〜9月のエントリはこちら
2015年4〜6月のエントリはこちら
2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

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最後になりましたが、2016年も引き続き「文化とカルチャーの間で」をお願いいたします。
今年は小説も書くぞー!

言葉、ことば(2015年7〜9月) 

2015年4〜6月のエントリはこちら
2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

7〜9月の集約が思いの外、遅れてしまった。
印象的な言葉はたくさんある。だけどそれをキャッチアップできるのは、その当人次第だと常々感じる。同じ言葉を発していたとしても、著名人か一般人かで受け止められ方は変わる。「お前が言うな」と糾弾されることもある。

このエントリを続けていくにあたり、そのあたりのバイアスに影響されず、少しでも価値のある言葉を拾っていくことが重要だなと思う次第である。

余談だが、10/26から僕は自分のMacに新OS「OS X El Capitan」をインストールさせた。新機能の1つ「ライブ入力」、未だ慣れないけれど、なんやかんや続けている。凄いかもしれないと思うからだ。キーボードを打っているとき、人間は色々なことを考える。その打ち方が変わるということは、自らの思考過程を変えると言っても言い過ぎでは無いと僕は思う。まだ利便性は高くないけれど、「ライブ入力」をOFFにするには、早いんじゃないかって思います。

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8/19
『“ひとり出版社”という働きかた』(西山雅子)谷川俊太郎の言葉

自分の詩の理想型をそのように(道ばたの草)想い描いている。つまり、詩というのは、なにかを伝えるものじゃなくて、そこに存在するものだと思っているのね。道ばたの雑草はなにも意味していないし、伝えようともしないけれど、そこにあるだけで美しいわけでしょう?人が見て、感じる力さえあれば。本もそれと同じでいいと思うよね。だって今もう、どんなにいい作品もストックになりようがなくて、全部フローで流れていくじゃない。

自分でもブログを書いたけれど、改めてこの本は面白いなと感じます。詩人・谷川俊太郎がいつまでも情報に対する感度がみずみずしくて驚くばかりです。なかなか書き手で「コンテンツは全部フローだよね」って言い切れる人はいないと思うから。本書を読んでいただければと思うけど、だからと言って、自分の仕事に対して誇りを持っている姿勢が僕はさすがだなと思うわけです。

 

8/21
『コミュニティデザイン』山崎亮

いえしま地域の場合、まちづくり活動もさることながら、主幹産業が衰退する中で新たな産業をどう生み出すかということが大きな課題だった。(中略)採石業の後に観光業に取り組む場合も同じ轍を踏まないように気をつけなければならない。いえしまをリゾート化して、一度にたくさんの人が呼べるようにすれば、一時的に景気が良くなるかもしれない。しかし何年かあとに尾奈じような課題に直面することになるだろう。じわじわと観光拠点をつくり、じわじわと観光案内人を育て、じわじわと町民におもてなしの心を理解してもらう。その間、じわじわと来訪者が増えてくれば、その対応にあわてることもなく、借金して設備投資する必要もなく、急に人を雇うこともない。観光まちづくりをゆっくり進めることにはそれなりの意味があるのだ。そしてその速度は、住民が試行錯誤を繰り返しながらプロジェクトを推進し、そのプロセスで主体性を取り戻すための重要な時間をあたえてくれる。コミュニティデザインにおいて「ゆっくりであること」は大切なことだ。

即効性なんて、どこにも無いんだという話。
あるいは、即効性があったとしても、それにこだわるのは良くないよねというメッセージかもしれない。
人が、人の手を借りて、人の手の中で、じわじわと成長していくっていうのは、人も組織も地域もプロジェクトも変わらない。家島を始め、様々な地方で実績を上げてきた氏の言葉は、じっくりと重みがあります。4年前の情熱大陸も面白かったので、改めて見直してみようかなと思います。(ていうか、もう4年も前のことなのか・・・)

 

9/7
日本経済新聞「私の履歴書:荒蒔康一郎」
参考URL:http://www.nikkei.com/article/DGKKZO91172230R30C15A8BC8000/

「先生、今度の宿直はいつですか。お邪魔してもいいですか」。中学2年の夏休み。理科の鈴木直之先生が学校に泊まる日を楽しみにしていた。生物への興味は年を追うごとに高まっていて、大学出たての鈴木先生は私たち生徒の疑問に親切に答えてくれた。口癖は「興味があるならやってみな」。

(中略)話を中学時代に戻そう。先生から解剖の手ほどきをしてもらった。カエル、ウサギ、ネズミ、マムシなど。田舎ならではの贅沢(ぜいたく)な学習だと思う。胴体が太くなったマムシを解剖すると、いくつか卵がでてきた。マムシは卵胎生でお腹(なか)の中で孵化(ふか)して、出てくると聞いて驚いた。大学時代にはこの時の解剖の腕前が役に立つ。理屈はわかっても納得せず、なんでもやってみることを心がけた。光合成による酸素の作り方は知っていたが、水槽の中に水草からたくさんの酸素を発生させるために重曹をいれ、ライトをあてて出てきた水泡から酸素を採取した。時間さえあれば先生がいる理科室に入り浸っていたのが懐かしい。どんなことでもこの目で見ないと納得しない現場主義の考え方はこんなことから根付いていく。

ほかの勉強はそっちのけ。読書も仏細菌学者、パスツールや野口英世の伝記などばかり。母は「もっと違う本も読みなさい」とあきれ顔。父は黙って見ていた。実は社会人になっても「小さなファーブルになりたい」と酔っ払うと言っていた。

元キリンビール会長の「私の履歴書」、初回の言葉。興味関心というのは本当に大事だけど、幼少期〜青年期にその芽を摘まないように配慮や環境の整備をすることは大人の責務だ。なかなか難しいことだけど、「ファーブルになりたい」と言ってしまうくらいのキラキラした大人だったら信用しても良いかもしれない(否、ちょっと痛いかも。笑)

 

9/20
村上春樹『職業としての小説家』。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。

スティーブ・ジョブズも似たような思想で、数々のプロダクトを作っていたと多くの方が解釈しているのは広く知られていることだけど、村上春樹の新著を読むと、同様の考え方で、彼の文体は作り上げられたように感じる。自己表現(アウトプット)にはある程度、インプット量が必要であることは間違いないかもしれないけれど、いざ走り出すときには、なるべく荷物は少なくした方が良いってことなのかな。その答えは、自らの試行錯誤の果てにあるだろう。

 

あっという間に、2015年が終わろうとしています。
無事、年末に着地できるよう、もう一踏ん張り。まずはリズムを取り戻さないと。

2015年7月7日

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私事ですが、2015年7月7日に入籍しました。

2015年7月6日〜7月7日はちょっとリッチに、横浜のインターコンチネンタルホテルに宿泊。

入籍に至るまで、自分なりに考えることもありましたが、改めて友人や家族が2倍になることが幸せだなと感じます。(もともと共通の友人は一人だけでした)

まだまだ力不足な僕ですが、これからの人生も楽しく元気に生きていければと思います。取り急ぎ報告まで。

言葉、ことば(2015年4〜6月) 

2015年1〜3月のエントリはこちら
2014年10〜12月のエントリはこちら

言葉探しは、楽しい。

僕にとって意味を持つライフイベントが目白押しだった2015年4〜6月。
素敵な人にも会えたし、懐かしい友達にも再会した。広島、奈良、名古屋など普段は行かない場所にも行くことができた。理屈よりは、活動を大事にした3ヶ月間だった。けれど、そうして生きる上でも言葉は当たり前のように目に、耳に、頭に入ってくる。

そのうちの一部を、下記にご紹介。

4/22
北野武インタビュー。
参考URL:http://www.cinra.net/interview/201504-kitanotakeshi

リタイアを控えた人によく言うんだけど。「リタイアした後に何かやろう」としてもダメなんだよね。どうせ続かない。働いているうちから会社にウソをついてでも遊ばなきゃ。それでリタイアすれば楽しくなるし、困らない。だって好きなことをやるだけでいいんだもん。

北野武監督の最新作『龍三と七人の子分たち』を前に、インタビューを受けた北野武。上記はその後半なんだけど、実は前半の方が読み物としては面白くて。芸人・ビートたけしが垣間見える編集の妙は、「たけしがやるなら仕方ねえなあ」と思わず笑ってしまうような内容。「たけしがやるなら仕方がない」「堀がやるなら仕方がない」。そういう風に生きていかなきゃ面白くないよなと。

 

4/23
チームラボ・猪子寿之インタビュー
参考URL:http://logmi.jp/35472

僕らは、チームラボという社名どおりチームでものをつくるんだけれども、僕自身もそうなんだけれども、個人で考えたり個人で作業をするというよりは、チームで考えてチームで作業しながらまた考えていくという、結構共同作業的なことが仕事のほとんどなんだけれども、あんまりチームで何かものをつくるとか、チームで何かアウトプットするということと真逆なんだよね、今の教育は。 例えば宿題は個人でやりなさいだし、テストなんて共同的にチャレンジしたら捕まっちゃうじゃない。でもそれ意味がわからないわけじゃんね。別にコピーで済むような問題を出すほうが悪いというか、コピーで済むようなことはコピーしたほうがいいじゃん。 だから全く概念が違っていて、個人で何かアウトプットを出すよりも、共同的で創造的なアウトプットを出すことを大人になってすごく求められているのにそういう場がない。なので、せめて学校の外で遊ぶような場所をつくって、そこを共同的で創造的な体験をする場所にしたい。 3歳と5歳の子どもがいる社員が自分の子どものためにつくりたくて始めたというそういうプロジェクトです。

これはちょっと目から鱗だった。
コピーで済むことの意味というのを、僕はあまり考えていなかった。
全部が全部チームでやることの意義はさておき、教育の世界に限れば、どういう課題を設定するかは教育者側に委ねられている。その彼らが「はい、今日は単語テストですよ〜」「カンニングはもちろんダメですよ〜」みたいなことを何の疑念も無く行なうことの危うさを感じられるテキストだなと。

 

4/28
TV番組「Get Sports」ダルビッシュ有のインタビュー。「なぜストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強をしているのか?」という質問に対して。
参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=KuAAuwRAwjs

「こういうところで差をつけていくしかない。(メジャーの選手と比べると差をつけるとしたら)頭でしかないから。知識とか知恵とかを持っておかないと、そいつらと同じレベルだったら良いんだけど、勝つにはこういうことをやらないと絶対無理だと思います。日本人はどんだけ才能を持ってても絶対無理です、メジャーのトップになるには。僕には責任があると思う。どの選手に対しても。すごく才能があっても怪我をしてダメになった人はざらにいるけれど、例えば障害を持ってて野球をしたくてもできない人も絶対いると思うんですよ。その人たちがもし野球ができたら、こういうこと(ストイックに体調管理したり、栄養学などの勉強したりすること)をすると思うんですよ。全部に全部を賭けてやると思うんですよ、それだけ思いが強いから。それをやらない人たちは甘えだと思う。僕はそこが根本にあるので忘れないようにしているし、だからなるべく野球では一番上にいきたいと思うけれど、責任を持って色々やらなくちゃいけないと思います」

YouTubeのコメントで「天才が努力をする」という言葉があったけれど、僕のような凡人から見ると、その行為はしごく脅威に感じる。圧倒的に「勝てない」感を感じさせるからだ。
だけど、どこに目標を設定しているかによって、ダルビッシュのコメントはその通りだと思うわけです。勝てる領域で、勝てる努力をする。負けてられないなと思うのです。

 

5/20
宇野維正さんのツイート。
参考URL:https://mobile.twitter.com/uno_kore/status/580250224054038528

「海街diary」試写。大体みんなスッピンで、大体みんな汗ばんでて、4人ともただごとではなく魅力的。是枝監督、女好きだよなー。最高でした!

音楽や映画の世界を中心にジャーナリスト・エディター・ライターとして活躍している宇野さん。ロッキング・オンに所属されていたときから、僕は彼の文章が大好き。言っちゃえば、「分かるやつだけ、分かれば良い」というようなアンニュイな姿勢は、ロックを語るライターとしてあるべき姿かもしれないとさえ、若かりし少年・ほりそうは思ったものだった。
そんな宇野さんが、肩の力を抜いて「海街diary」についてツイート。もう観るっきゃ無いでしょ、という感じは流石だなと。

 

ある程度、心に余裕があることは大事です。
緊張しながらでは言葉が「刺さる」余地が残されていないから。「待つ」ほど仰々しく構えるつもりはないけれど、不意な出会いを受け入れる余地がある程度に、これからも言葉探しをしていきたい。いよいよ、来月は31歳になるなあ。