積ん読リスト(2016年1月)

年末にエントリした通り、2015年の積ん読リストをちょっとだけ片付けた。
誰かが言っていたけれど、「書物」というのはたくさんの人々の知恵が詰まっているものだと思う。

作家が著名であろうとなかろうと、多くの本は一人の人間による出版物で無いことが多い。
作家の力に加えて、編集者を始め出版に関わる多くの人たちの英智が詰まっているし、読ませるための工夫が至るところに施されている。それでいて「当たり外れ」があると感じるのは、出版文化がこの国に根付いている証拠でもあるように思うわけです。

なので、なるべく本はこれからも読んでいきたいし、
小説や仕事で役に立つ情報に偏ることなく、色んな種類の本も読みたいなと思う次第です。
今後もこの形のエントリを定期的に行なっていき、読書スタイルの変遷を追えるようにしていければと思います。


◆『The Long Good bye -ロング・グッドバイ-』レイモンド・チャンドラー
村上春樹翻訳の古典。だいぶ前に買ったけれど、分量からなかなか読み切れていない。本作に限らず、海外ものの大作って手をつけられていない。『グレート・ギャツビー』くらいの量だといけるんだけど。


◆『忘れられた巨人』カズオ イシグロ
こちらは昨冬購入したもの。評判になっていたけれど、手をつけていなかったもの。買ったのに、やはり手をつけていなかったので改めて。


◆『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』会田 誠
会田誠の作品って、けっこうどれも好きです。個展にも行ったし、MIZUMA ART GALLERYが中目黒にあった頃のギャラリーにも立ち寄ったことがある。訴えかける力があるんだよなあ。


◆『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』クリス・アンダーソン
『ロングテール』『FREE』などの著者としても有名。本書が発売されてから日が経っているけれど、「作り手」が主要になりそうな現代だからこそ、やっぱり読むべきだと直感しております。


◆『リーン・スタートアップ』エリック・リース
これも導入部で挫折しちゃいました。本ブログでもちょいちょい紹介しているフローレンスの駒崎弘樹さんの対談記事で出てきたことがきっかけかな。


◆『MBA クリティカルシンキング コミュニケーション編』
グロービスに通ったのは、もう5年前とかになるなんて。時が経つのは早いもの。時々グロービスの本は読み返しているけれど、本書は買ってから積ん読状態なので早めに読んでみようかなと思った次第。

そう言えば、今年は毎年恒例で読んでいた『7つの習慣』を読めていない。
こちらも時間を見つけて読んでいこう。定点観測できる書物って、貴重なものだから。

いとうせいこう『想像ラジオ』を読んだ

いとうせいこう『想像ラジオ』

いとうせいこう『想像ラジオ』

「話し言葉」
「会話中心」

時々、そういったフォーマットの小説を読むことがあるけれど、当たり外れが結構激しいので個人的にはあまり好みません。
あまりにリアリティを意識した「話し言葉」が綴られていると浅いと感じるし、一方で小説というフォーマットを意識したものだと流れが悪く会話として成立しない。

ラジオを聴いているからこそ、
ラジオというフォーマットが生きるわけで、
ラジオを小説にそのまま置き換えたとて、その瑞々しさがそっくり移行されるわけでは決してない。ということ。

特に、わりと日常的に「読書」に勤しんでいる人たち(村上春樹は全国民の5%くらいだと見積もっている)は、意識的・無意識的に関わらず小説というフォーマットにどっぷり浸かっている。
起承転結があり、地の文があり、適切な人称の形があり、常体と敬体があり、作家独自の文体があり、過去からの適切な引用があり、時代の不文律がある。ルールとか、マナーとか、そういった呼び方でも支障は無い。そんな中で、「話し言葉」「会話中心」の小説というのは奇を衒っている印象を持たれがちだし、前述のルールないしマナーにそぐわない側面が生じてしまう。

だから、

こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中でオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。
でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。ていうかもう凍えています。赤いヤッケひとつで、降ってくる雪をものともせずに。こんな夜更けに聴いてくれてる方々ありがとう。

といきなり導入されても、初回はついていけない。それも無理からぬことなんじゃないだろうか。

ただ、著者は話し言葉を武器に仕事をしている(□□□のメンバーだったり、タレントとしてテレビに出たり)だけあって、読み進めているうちに、徐々にラジオを聴いているかのような錯覚に陥るから不思議だ。本書がベストセラーになるのも理解できる(裏表紙に「ベストセラーとなった」と書いてあるので、しっかり売れたのだろうと推察している)。
これだけ書くとあまりに乱暴なので具体例を一つ挙げると、主人公のDJアークの人柄や声色を想像し、何となく読者の耳元で展開されているような気分を味わえるということだ。
多かれ少なかれ、良い小説というのは、登場人物に感情移入してしまうものだし、自分が原作を映像化するときの妄想さえ勝手にしてしまうものではないかと僕は考えている。だからこそ実際に映像化されたときに、愛読者は不平不満を漏らしてしまうのではないだろうか、その思い入れの強さから。

僕はこの小説を映像化するときの妄想はしなかったけれど、DJアークの声をけっこう具体的に想像した(妻もこの小説を2年前に読んでいたけれど、面白いくらいに僕の印象とは異なっていた)。彼が章を経るごとに「弱く」あるいは「潔く」なっていく様子も、彼と同じレベルで気持ちを寄せることができたように思う。東日本大震災という重いテーマを、軽やかかつ誠実に描けるいとうせいこうの筆力は、世間で評価されているよりもずっと高いように僕は感じた。

なかなか作家間では辛口な評価もあるみたいです。
僕は、近々もう1度読みたいなと感じましたけどね。
想像の中で。

想ー像ーラジオー。

***

なお、そのときApple Musicで聴いていたThe Whitest Boy Aliveの「Rules」という2009年の作品が個人的にすごく好みだったのでご紹介しますね。
この時代のバンドって、現時点で解散しているのが殆どで、彼らも残念ながら例に漏れずといったところですが。。。

村上春樹『アフターダーク』を単行本で読んだ

afterdark

afterdark

2004年に本作が上梓されたとき、僕にとって「村上春樹の小説を読み始めたかどうかの境目の時期」だったと記憶している。
それは僕が大学生のときだった。今から思えば時間だけが有り余っていた頃で(だのに、何故か忙しい状況を作っていた)、あらゆることに時間を割く自由を持っていた。

「読書」という行為が、当時の僕にとって有効な時間の使い方だと確信していた。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を初めて読み、その次に2作目『1973年のピンボール』と、順序良く読んだ。その後は短編とか、『海辺のカフカ』とかに飛んでしまったかもしれない。あまり記憶が定かではないが、授業なんてそっちのけで、大学内のメディアセンターにこもり、ただひたすら村上春樹の世界観に没入していった。

1つだけ言えることは、僕が『アフターダーク』を読んだのは発売後しばらく経ってから、時期的には文庫本として売り出されて以降のことだった。
何の意図もない。デジタルデバイドならぬ村上デバイド。彼の小説の発売タイミングなんて知らなかったのだ。村上春樹の主要作品をおおかた読んだ後の「アフターダーク』は、とにかく暗く、しかも物語性が低いもの。村上春樹「らしからぬ」作品だなと思っていた。

僕が好きなのは『ダンス・ダンス・ダンス』であり『海辺のカフカ』であり、後に発売された『1Q84』であったのだ。物語性が高く、明るさも暗さも、真実も虚栄も含まれる作品たち。何度も何度も繰り返し読んだ。もちろん『アフターダーク』も複数回読んだけれど、他作品に比べれば、読む分量は限定的だったように思う。

***

それから時が流れ、2015年11月7日。
その週からどうも体調が芳しくなく、身体からエネルギーが湧いてこない辛い日々だった。
朝はベッドから起き上がれないし、夜は生気もなくこんこんと眠るだけだった。結婚式に参加した火曜日を除いて、お酒も殆ど飲めなかった。本も読めなかったし、小説を書こうなんて意欲も無かった。いくら寝ても眠かったし、いくら体力を消費しないようにしてもナニカが次々と身体から欠落していくのを感じた。

精神疾患の類では無いかと僕なりに心配したけれど、休みに入り、こうしてブログを書くことができている。自分を客観的に見つめることができるだけで、僕はそれほど深く損傷してはいないだろうと安堵している。専門的な見地も無いし、根拠はまるで無いけれど。でも経験上、たぶん僕は、週明けからいつもと同じように戦っていけているはずだ。

もとい。
本棚を物色できるくらいの元気は取り戻せたけれど、やはり、難しい本を読む意欲は湧いていない。
だから、とりあえず村上春樹を選択することにした。困ったときの村上春樹。安心をもたらす一種の清涼剤的な効果がある(と僕は思っている)。

それで『アフターダーク』を選んだわけだけど、本作をご存知の方は「はて?」と思うからもしれない。
前述の通り、病み上がりの人間が読むには、今ひとつ明るさが足りない。深夜23:56〜翌朝の6:52までを描く物語。視点がぐるぐる動く、不定点カメラのような「私たち」が主語。よくよく考えると、結構難しいチャレンジを村上春樹がしていることが判る。中編小説という手軽さはあるとは言え、なぜ僕はこの本を選んだか。

答えは単純。
村上春樹の本は、目の見える範囲での村上作品は、そのとき『アフターダーク』しか無かったからだ。
『アフターダーク』だけ視線の先にあったのは、たぶん運命だったんだろう。

ちなみに本棚に置いていたのは単行本の『アフターダーク』。僕では無く、妻の持ち物である。
文庫本の『アフターダーク』と違い、単行本の『アフターダーク』は、当たり前だけど重みがある。
文庫本の装填は上下に明るめのグレイのスペースがあるが、単行本は全体が闇色とも言うべきダークな色調を添えている。僕の微妙な状況も重なったのだろう。これまで読んでいた『アフターダーク』よりも、目盛り1サイズ分ほど「暗さ」が深いなと感じた。
正確な物言いでは無いかもしれないけれど、登場人物たちが抱える闇やコンプレックスが、自分の心にはっきり投影されて、彼らの痛みや迷いや悩みが自分事のように感じられてたのだ。

なぜ、そんなことが起こったのか。
僕は理由を説明できるほどの言葉を持たない。

本作に登場する、マリ、高橋、カオル、白川、コムギ、コオロギ、エリなどは、だいたいが主役を張れるようなキャラクターでは無い。
マリや高橋は準主役くらいの位置付けになれるかもしれない。
だけど、いかんせん主義主張がハッキリしない。キャラクターが立ってないし、こう言っちゃ何だけど浅はかな思考の持ち主だと感じるほどだ。もちろん、村上春樹はそう読者に感じさせるために意図的に書いたのだろうけれど。

村上作品が好きな読者は、彼の登場人物がしばしば哲学的になるのを楽しみにしている。
普段、意識的あるいは無意識的に感じていることを、彼の登場人物は問題提起したり再定義したりする。読者に対してブンブンと鉈を振り回すが如く。

『アフターダーク』でも、「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」と高橋が象徴的な台詞を呟く。
僕の言い方が適切かどうか不明だけれど、あまりに読者に解釈を委ね過ぎているように感じる。小説全編を通じて、伏線の回収に至っているとは思えない。もちろん僕の読み方が甘いだけかもしれないけれど。

だけど、ナニカ、今回は登場人物たちとフィーリングが合ったように感じたのだ。
腑に落ちたことで、物語の闇を逆説的に深め、判らないことが闇となり僕の心を黒く染めたのだと思う。

これからマリがどうなるのか、高橋が実質的に成長できるのか、白川は捕まってしまうのか、コオロギは幸せになれるのか。

方向性さえ、予感しえない。
だけど、それを楽しむ余裕が、今日の僕にはあったのだ。

***

「中学生のときに、中古レコード屋で『ブルースエット』っていうジャズのレコードをたまたま買ったんだよ。古い古いLP。どうしてそんなもの買ったのかなあ。思い出せない。ジャズなんてそれまで聴いたこともなかったからさ。でもとにかく、A面の一曲目に『ファイブスポット・アフターダーク』っていう曲が入っていて、これがひしひしといいんだ。トロンボーンを吹いているのがカーティス・フラーだ。初めて聴いた時、両方の目からウロコがぼろぼろ落ちるような気がしたね。そうだ、これが僕の楽器だって思った。僕とトロンボーン。運命の出会い」

男は『ファイブスポット・アフターダーク』の最初の八小説をハミングする。

「知ってるよ、それ」とマリは言う。

彼はわけがわからないという顔をする。「知ってる?」

マリはその続きの八小説をハミングする。

「どうして知ってるの?」と彼は言う。

「知ってちゃいけない?」

この小説には、どれくらい異なる世界が林立していたのだろう。
混じったり、交わらなかったり。重なったり、すれ違ったり。

闇は物事の境界を曖昧にするけれど、ナニカをしっかり浮き立たせている。
『アフターダーク』はある意味、村上作品で一番、哲学的なのかもしれない。

今野真二『盗作の言語学』を読んだ

盗作の言語学

盗作の言語学

Facebookを見ていたときだろうか。
友人が子どもの写真を載せていて、友人の友人が「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」とコメントをしていた。ゴーヤの成長の早さを引き合いに出して、友人の子どもの成長の速さに驚きいや嬉しさの気持ちを伝えようとしたのだろう。友人もその気持ちを受けて「ありがとう〜」と返事をしていた。ささやかだけど、旧友を温める価値のあるコミュニケーションを認めただろう。僕以外の多くの人は。

というのも、僕はその喩えを知っていたのだ。
2014年、年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIにて、博多華丸・大吉の博多華丸(川平慈英のモノマネをする方)が「ボケ」の1つとしてこの言葉を使っていたのだった。年末のゴールデン番組、お笑い好きとしてリアルタイムでそのネタを見て、僕は文字通り爆笑してしまっていた。若手漫才師が自身の面白さを前のめりでPRするのと裏腹に、肩の力が抜けたベテランの二人の掛け合いは安定していて、会場やお茶の間の笑いを総取りしたと思う。パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワーに続くチャンピオンとして相応しいネタだったと僕は思っている。

話が脱線した(僕は良く脱線してしまう)。

友人の友人はたぶんそのネタを知っていたし、友人やそれ以外の人たちが目にする場所でそれを拝借したとて悪気は全く無かったと思うし、というか友人からそれを指摘されれば、それを新しい会話の糸口として盛り上がれるだろう。そこまで意図したかは判らないけれど、何が旧友同士のコミュニケーションとして一番盛り上がるかを考えたときに、その引用がチョイスされたわけだ。なかなかクレバーな人だと僕は感心してしまう。それを友人が知らなかったからとて、前述した通り正の感情を共有できるのだ。2015年にしてリスクゼロのコミュニケーションというわけである。

だが、時と場所が違ったとして。
2015年の年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIで、あるコンビが「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」と言ったらどうだろうか。彼らの使い方にもよるかもしれないが、「昨年の博多華丸・大吉のパクリだ」と糾弾される可能性が高いのではないか。彼らが前年のチャンピオンのネタを下敷きにして、コミュニケーションの厚みを持たせようと意図したとしても、ひとたび「パクリ」と認識されたとしたら先は無いだろう。

一方で、そのコンビが「犬も歩けば棒に当たる」と言ったら、どうだろうか。
彼らが生み出した「たとえ」では無い。先人が古くに高度な比喩として生み出し、以降、数限りない人たちにパクられ続けてきた(国語の教科書にも載ってる!)。同じ文字情報なのに、何故後者の場合、パクリと見做されないのだろうか。

***

前職でお世話になった方がFacebookで紹介していた『盗作の言語学』。2015年5月と比較的新しい新書が、その考え方を論理立てて説明してくれている。事例ベースで考察がまとめられているが、どれもとても興味深い。クリエイティヴに関わる人はもちろん、文化を愛する全ての人たちにとっても一読の価値がある。

著者の今野真二(日本語学を専攻とする大学教授)は、「おわりに」で、自身が本書を書いたきっかけについて語っている。

2014年5月6日の『朝日新聞』朝刊に「盗作の考現学」「蔓延するパクリツイート・コピペ論文・・・」という見出しの記事が掲載された。稿者はツイッターを利用していないので、「パクリツイート(パクツイ)」という表現自体が初めて目にするものであったし、どのようなことなのかも記事を読んで初めてわかった。

職業柄、学生のレポートなどに触れる機会が筆者は多いのだろう。
もともと頭の片隅にあった問題意識を、言語学という観点から本にまとめてみた、ということだろうか。

折しも東京オリンピックのエンブレム問題(そのことはブログでも、やや直情的に書いた。http://buncul.com/2015/07/31/word_idontlike/)が話題になっている昨今、この本の考察の役割は極めて大きい。

なお、本書は著者も「序章」でことわっている通り、本書で扱う「盗作」を言語による作品に限定されている。
だから、エンブレムなどのデザイン、音楽、アート、ゲームや映像などのエンターテインメント作品については著者の考察は述べられていない。だけど、僕たちが「盗作」について考えるfoundationには十分すぎるほどの役割を担っていただいている。

露を帯びさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 原歌
露を帯びてさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 添削歌
(中略)多くの人には、右の原歌と添削歌との表現の違い、そして「善し悪し」は判定できないかもしれない。つまりほとんど「同じ」ものとみえる可能性が高い。しかし、白秋の眼にはまったく異なるものとしてみえていることになる。
本書においては、「同じ/異なる」をまずは明白なレベルでとらえるために、語が同じということを基準としているが、語のあるまとまりによって「表現」が構成されると考えると、右の例のように、助詞「テ」があるかないかという違いしかなくても、「表現」としてはまったく異なるという「判断」もあり得ることになる。

これは北原白秋が自身のプロジェクト(編纂物)での「添削作品」だ。
原歌と添削歌を比べると、「露を帯び」「露を帯びて」というところの違いのみだ。
だけど、北原白秋はこれらの作品は全く別物だと評する。では仮に、原歌を見たことのある表現者が、添削歌のように体裁を整えて(というのも語弊があるかもしれない)発表したとすると、それは「盗作」なのかどうか。僕には判らないし、判る人の見解が「正しい」と必ずしも言えないのではないかと思う。

僕はInstagramでこんな風に述べた。

FacebookかTwitterか判らないけれど、誰かが呟いていた。
「問題を切り分けて考えないと、また同じことが起こる」
本当にその通りだと思う。だけど「切り分ける」だけでは盗作についての理解は深まらない。
クリティカルシンキング(ロジカルシンキング)で物事を考えたって、至る結論は「自分」という枠を超えるものではない。だからこそ、本書の役割は大きいのだ。判ってもらえるだろうか。

後半には「本歌取り」「パロディ」などについての言及もある。
本歌取りは、

ここで「本歌取り」について少し整理しておこう。『集英社国語辞典』第三版は「ホンカドリ」について「和歌や連歌の修辞の一つ。先人の歌の一部を詠み込むことによって二層構造の複雑な趣をかもしだす表現技法」と説明している。
(中略)先例がある表現をとりこむことによって、複雑な構造の表現をつくることが可能になっているといえようし、先例がある表現は、どのような意味であるかということが共有されているといえよう。現代では「オリジナリティー」ということが重要視される。しかし、誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。そうすると、焦点の定まらないまったく新しい表現よりも、すでに共有されている表現をベースにして、そこから新しい表現をつくりだしたほうが「読み手」に理解されやすいということはあるだろう。ただし、この場合はベースにする表現が多くの人に「共有されている」ということが前提になる。言語生活において「和歌をつくること」が重要な位置を占めている場合には、「本歌取り」は昨日する。『古今和歌集』の歌を熟知していることが『新古今和歌集』を理解することの前提となる。

というふうに書かれている。

前提として誰もが「知っている」ことが大事で、それがfoundationとなって『新古今和歌集』が成立するということだろう。今の時代に、同様のパターンで成立するものが幾つあるだろうか。この価値観が多様化した世の中で。『古今和歌集』『新古今和歌集』両方とも、知識人のための戯れだったとも言える。セグメントで棲み分けができていたのだ。

文学や詩歌だけが知識人の戯れで無くなり、
そもそも知識人という括りで「人間」を語れなくなった21世紀。
気付けるか否か、ではなく、Google検索に引っ掛かるか否か。成否の基準も変わってしまった。

***

佐野氏のエンブレムは使用中止に追い込まれた。
もう2ヶ月も経てば、このことは一般の人からの記憶からは跡形もなく消えてしまうだろう。
だけど、クリエイティヴに関わる人たちの記憶からは消えないし、致命的なダメージとして残り続けることだろう。華やかな実績を残してきた佐野氏が、必要以上に責めに苦しまないことを僕は祈りたい。

と同時に、もっと文化的な背景について学ぶ努力もしていきたいと思う。
ちゃんと自分の言葉で語れるように。そしてそれを、いつかアウトプットできるように。

とは言え、たぶん、僕のスタンスは変わらないだろう。
僕は、僕のためにも、新しい作品を生み出せるようにするだけだから。

又吉直樹『火花』を読んだ

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我がドラゴンズの又吉こと又吉克樹は今シーズン不調だが、こちらの又吉こと又吉直樹の小説『火花』は絶好調である。今年3月に発売され、いまや200万部突破という話題の小説を読んでみた。

200万部を打った作家と自らの執筆経験を比較するのも恐れ多いのだが、「物を書く」とりわけ「物語を書く」というのは自らを切り売りするだけでなく、深層心理(あるいは真相)へと深く潜り込む作業だと思っている。
名探偵コナンは難解な事件を30分(前後編にすれば1時間)で解決してしまうけれど、それほど才能の無い人間が小説を書き、自らの考えを深めるべく執筆していくとゴツゴツとした岩場に何度もぶつかる。それは痛いだけじゃなくて、真っ直ぐ掘り下げていたと思っていたらまるで見当違いの方角へ進んでいたと気付かされることもある。いわゆる「ノッている」ときならまだしも、だいたいは疲弊する。何より小説の場合、ある程度の時間を要するのだ。最終的な風景が見えるまで、途方もないと思わせる道のりに立たされる。
それでも「書く」のが止められない状況になることがある。「この小説を何としても書き上げよう」という強い意思があるからだ。それゆえ日々どんなに疲れていても書こうと思えるし、執筆が止まったときにも意識の片隅に小説のことが頭を過る。
その状況に自分を持っていくことができれば、それはとても幸福なことだし、その状況がどうしても作れないときは最悪、書くのを止めなければならない(言うまでもなく、作家にとって最も不幸なことの1つだ)。

又吉直樹の『火花』は圧倒的に前者の強い意思を感じる。
漫才コンビ・ピースのボケ担当としてバラエティ番組で活躍していることもあり、神谷と徳永という二人の芸人を扱うことは彼の領域にピタリと当てはまる。また「笑いを生む」でなく「笑いを表現する」という意思がもともと強かったんだと思う。その意思をしっかりと感じるし、実際漲っていたのだろう。意思あればこその本作なんだと思う。

文章の感性が瑞々しいというわけではなく、どこか昭和(昭和以前)を感じさせるのは、彼が敬愛する太宰治などの影響かもしれない。そんなに引用を感じさせるような記述は無いのだけど(そして太宰を語れるほどの知見を私自身も持ち合わせていない)、独特の一文の長さには、現代の作家性の中でひときわユニークであるというイメージを持った。どことなくフェミニンな要素のある作家なのかもしれない。

祭りのお囃子が常軌を逸するほど激しくて、僕達の声を正確に聞き取れるのは、おそらくマイクを中心に半径一メートルくらいだろうから、僕達は最低でも三秒に一度の感覚で面白いことを言い続けなければ、ただ何かを話しているだけの二人になってしまうのだけど、三秒に一度の間隔で無理に面白いことを言おうとすると、面白くない人と思われる危険が高過ぎるので、敢えて無謀な勝負はせず、あからさまに不本意であるという表情を浮かべながら与えられた持ち時間をやり過ごそうとしていた。

「笑い」のことを小説や映画などで表現するのは野暮と糾弾する必要があるかもしれない。
芸人は舞台やテレビで「笑い」を取るべきだと言う人もいるかもしれない。

だけど、あるメディアを通じてでしか語れない(表現できない)こともあると思うし、又吉直樹本人もドキュメンタリー番組で「小説も笑いも一緒」という節の発言をしている。彼にとって書くことは「笑い」を追求するための1つの実験に過ぎないのかもしれない。そして小説『火花』からは、その野心が表出し、愛すべき実験の試行錯誤さえ垣間見える清々しいアウトプットだなと僕は感じた。そして最終的に又吉直樹は、神谷も徳永のことも愛し切ったのだと思う。

「笑い」が好きな人は、必読である。
願わくば、文庫版が出る前に。