10年前のことを思い出した

walk_in_scotland

東日本大震災から6年が経った。
その日、僕は都営バスに揺られながらその瞬間を迎えた。えも言われぬ虚無感が、一瞬だけ僕の身体を過ぎったのは気のせいだっただろうか。

と同時に、社会人として丸10年を過ごそうとしていることに気付く。
2007年4月に入社し、途中で起業しようと試みた期間もあり、正確には社会人を丸10年こなしてはいない。ただまあ、「10年」という区切りを今月末で打っても差し支えなかろう。

色々なことがあった。
良いこともあったし悪いこともあった。想定外の事件があった。いくら提案しても動かない現場があった。半信半疑で進めたディレクションがヒットしたこともあった。お世辞にも、優秀なマーケッターとしては言い難い。
外部の視点。僕の活動に関する評価。加点されることもあれば、減点されることもあった。僕はだいたいにおいて評価というものを気にしていなかった。伸び伸びと動くことを許してもらっていたことが多かったから。(「評価」というものが無意味だと言っているわけではないし、「評価」を全く無視して働いてきたわけではありませんので。悪しからず)。

10年があっという間な気もするし、積み上げてきたなという気もする。
いずれにせよ、3月は、この10年間をゆっくりと振り返ってみたいと思う。

さて、2006年3月に僕は何をしていただろう。
僕は学生最後のひとり旅を敢行すべく、スコットランドを訪ねていた(その後ロンドンに寄る)。合わせて10泊程度の短い旅だったけれど、冬の薄寒さが残る島国で、僕は毎日安いビールを飲みながらぷらぷら街を歩いていた。

グラスゴーでは、セルティックFCのゲームを観に行った。
当時スコティッシュ・プレミアシップで活躍していた中村俊輔を生で観るためだ。
セルティック・パークは中央駅から約4km。英語に自信がなかった僕は、バスなどを使わず歩いてセルティック・パークまで向かった。繁華街からスタジアムに向かうにつれ、少しずつ郊外の色彩を帯びていく(つまり、ちょっと廃れたような建物が多くなる)。だがサッカー・ゲームのある日は、街中がお祭りになるようで、そこかしこのパブでファンがビールを飲んでいる。陽気に仲間と話している様子は、異国の地で珍しく羨ましさを覚えたものだ。

無事に当日券を入手し、僕は試合を観戦することができた。
試合前にセルティックの選手が続々とコールされていく。「SHUNSUKE NAKAMURA」の名前が呼ばれた途端、一番の歓声が上がる。僕は鳥肌が立った。日本人が、スコットランドという土地で認められているという揺るぎない証左。日本でテレビ越しに観ていては実感できない雰囲気だ。試合が始まってからも、彼の一挙手一投足には注目が集まり、良いプレーには惜しみない拍手が送られていた。

10年経った今でも、そのときの感覚は忘れられない。
「原点」と言うほどでもないけれど、人々が熱狂する瞬間を、自らの直接の感覚で味わうことができたのだ。

「歩く」という感覚を、社会人になっても忘れたくない。
その道を知っている・知っていないにも関わらず、
歩いたならば、何気なく目にできる景色があるはず。
歩いたならば、頬にあたる風から季節の移り変わりが分かるはず。
歩いたならば、とても良い匂いのしてくる定食屋さんを発見できるかもしれない。
僕は学生で、お金を節約するために、駅1コ分なら歩くことを心掛けている。
社会人になったら、ある程度お金が手元に入るはずだ。だけど、その引き換えに多くの時間が失われてしまうかもしれない。
だからこそ、僕は駅1コ分なら歩く感覚を大切にしようと思うのだ。

10年前に書いた自分のブログを引用するのは恥ずかしいのだが、今もだいたい似たようなことを考えて生きている。

「歩く」ということは、どういうことなのだろうか。
あまりにフィジカルに依存しているし、大量処理を目指せないアナログな感じ。
当たり前のようにタクシーに乗る人たちから見れば、「歩く」ことは非効率で徒労そのものなのだろう。

それでも、今も僕は「駅1コ分なら歩く」という感覚は忘れたくない。
あのとき、セルティック・パークまで歩かなかったら、僕はあれほどサッカーに熱狂しなかったと思うから。

このブログは2012年12月から続けているので、今年で丸5年になる。
その間、書けていないこともたくさんある。自分の中でぐつぐつと煮込まれている一方、間違いなく細部はぽろぽろと零れてしまっている。それらはどこへ消えていったのだろう。僕の元に却ってくるだろうか。

時の流れとは速い。
もはや2017年は「5分の1」が過ぎてしまったらしい。
フルマラソンで言うと、「8.4km」くらいのところだ。プロであれば中盤に向けて周囲を牽制する頃だろうし、練習不足のアマチュアランナーであればレースの独特の疲れに不必要に押され始める頃だろう。

【誰だって、レースの独特な疲れに、不必要に押され始めたくなんかない】

10年前の記憶を遡り、そこで生じた雑感をつらつらまとめてみただけだが、結論はシンプルだ。
やれることを、粛々とやっていくだけ。それに勝る処世術はない。

Czecho No Republicライヴイベント《ドリームシャワー2016》に行ってきた

なんて美しいバンドだろう。

初めてCzecho No Republicのライヴを観ながら、僕は泣きそうになってしまった。
間もなく32歳になる私。Czecho No Republicが奏でるメロディは、Over 30に向けられたものでは無いにも関わらず。
新木場Studio Coastに来場していたファン層は若く、まだ大学生くらいの若者がたくさんいたと思う。場違いを感じながらも、彼らの魔法のような演奏を観て、僕は呆然と「こんな夢のような共同体は長く続くまい」と思わざるをえなかった。

年の功で、昔話をさせてもらいたい。
フロントマンの武井優心はかつてVeni Vidi Viciousのベーシストであり、The Mirrazのサポートメンバーとして活動をしていた。どちらも2010年前後のロック・シーンで活躍していたバンドである。Veni Vidi Vicious活動休止に伴い、残された山崎と2010年に結成されたバンドがCzecho No Republicだ。
僕が今日まで彼らのことを記憶していたのは、某音楽雑誌の記事で紹介されていたことによる。チェコというユニークなバンド名(僕は旅好きで、チェコにも一度行ってみたいと思っていた)に加えて、主張の希薄な武井のコメントが面白かったからだ。

(Veni Vidi ViciousやThe Mirraz、THE BAWDIESと比較され)あの辺とは違うだろうなって思ってます。やっぱあの人達はカッコいいっすね。俺は、もっともやしっ子な感じがするんで。ちょっと軟弱な、風邪引きそうな感じの。『ひ弱ロックですか?』みたいな感じっていうか

(自分たちの曲は)押しつけがましくないじゃないですか。生活の一部になったらいいんじゃないですかね、チェコの曲が。通勤通学中でも、洗いもの中でも。ど主役じゃなくてもいいんで。サイコーの二番手みたいな。あと、俺達、全員、次男なんですよ。全員末っ子なんですよ。だから誰一人リーダーがいない。マジそれ出てますよね。

Czecho No Republicが世に出た頃、偶然にも僕は以前より熱心に音楽を聴かなくなってしまった。村上春樹の言葉を拝借するならば「音楽との倦怠期」である。理由は未だに言語化できないのだけれど、新しい音楽を敬遠して古い音楽ばかり聴いていた。そんな傾向は数年間続いて、昨年Apple Musicがリリースされたことでようやく解消した。

その間に、気付けばCzecho No Republicはメジャーデビューしていて、とびきりHappyでPeacefulなロック・バンドとして位置付けられていた。時の変遷に驚いたけれど、キャラ立ちしたベーシスト・砂川一黄や、コーラスもできる紅一点・タカハシマイなどが加入して、5人としての佇まいに「美しさ」が足されたことで、それは必然だったように感じる。
当時から武井の音楽(声)は、本人が自覚しているように渋さという面では程遠いものだけれど、おもちゃ箱から遊び心だけが踊りに出てきたようなポップさがあって(Vampire WeekendやLos Campesinos!など同時代の洋楽とも歩調が合っている)。まさか僕にとってのフェイバリットである「Oh Yeah!!!!!!!」がドラゴンボールのエンディング曲になっているとは思いもしなかったけれど、考えてみれば、彼らの音楽が若い世代を無条件に巻き込んだことは時代における必然であり、SEKAI NO OWARIや星野源とは違った側面から「夢」や「感動」を示している。底抜けに明るいのだ、とにかく。

儚ささえ感じるほどに、Czecho No Republicは美しい。
《ドリームシャワー2016》で楽しそうに演奏する5人は、音楽も、ビジュアルも完成された美しさがあって、それはマンガの中のような非現実感さえあった。それが「今だけ」許されたものだとしたら、美しさとはなんて脆いものなのだろう。
色々なバンドが音楽を辞めてしまった。Czecho No Republicも、いつかそんな決断を下す日が来るかもしれない。ファンには怒られるかもしれないが、HappyでPeacefulな新木場Studio Coastにいてこそ逆説的に、そんな思いに駆られた僕を許して欲しいと思う。誰に?というツッコミが入りそうなのだが、そんな確信めいた悲劇的な妄想が(半ば勝手に)頭に浮かび、消えては浮かんだ。そんな繰り返しの中で、僕はぼんやりと彼らのライヴを眺め、何より楽しんでしまったのだ。

少しだけ安心しているのは、そういった刹那性を彼ら自身が自覚していることだろう。
「Firework」「Festival」「Forever Dreaming」「Amazing Parade」といった曲名やモチーフを選択していることから明白だ(武井は「楽園志向」という言い方を記事の中でしていた)。《ドリームシャワー2016》で最後に演じた曲は「ダイナソー」。恐竜なんて絶滅しちゃったじゃんという。そして7/20に発売される新作アルバムのタイトルは「Dreams」。メンバー自身が、自分たちの「楽園志向」を重々承知の上で、夢をばら撒いてくれているのかもしれない。

夢を見せてくれる音楽。
Czecho No Republicであれば、言い過ぎじゃないと思う。

IMG_7864

IMG_7865

第31回サロマ湖100kmウルトラマラソン雑記(2016年6月27日)

昨年のエントリはこちら

年に1度、Crazyな挑戦を翌日に控えていた中で、ふと目に入った友人のInstagram。
僕は面識が無いのだが、(おそらく)同世代の女性が病気で亡くなったという報。詳細は判らない。僕も何処かですれ違ったことがあるかもしれない。
僕もここ2年、祖父を続けて亡くしている。それはそれで悲しいことだけれど、同世代の女性が亡くなるという報には、悲しみを超えた虚無、何も考えられなくなるような想いが去来する。

去来。
行ったり、来たり。

高揚していた感情と混ぜになり、なかなか寝付くことができなかった。

それでも昨年よりはマシで、2時間半くらいは断続的に眠れた気がする。
2時間半前に胸をよぎった想いは、完全には消えない。一緒に走る友人に、そのことを話すわけにはいかない。テンションは、走ることに集中させる時間である。僕の、僕だけの事情として、この場はやり過ごすことにした。

幸い「眠いなあ」という気分は無い。前日にゼッケン貼り付けや荷物仕分けもしていた(昨年はそれを朝起きてから行なったので非常に慌ただしくスタート直前を過ごしてしまった)。予定通りの時間にホテルを出発し、スタートの45分前には現地に到着した。緯度が高いせいか午前4時の空は明るく、朝焼けの海が眼前に広がっていた。

本日の天気予報は、雨。
雨量は少ない様子だが、1時間ごとの予報には全部傘マークが並んでいる。
東京にいた時点で予想していたことなので、防寒・防雨の想定および対策はしている。一緒に走る友人は半袖短パンだけれど、僕自身は「やることはやった。走るしかないな」と悟るような想いだった。

荷物を預けて、スタート地点に到着する。まだ3分ほど余裕がある。雨は降っていない。
ストレッチを念入りに行なう。またこの場所に戻ってきた。懐かしい感情に浸るも、昨年に苦労した(心が折れた)ポイントを再確認するのは忘れない。
レストステーション(54.5キロ地点)を超えた後半戦、何度心が折れそうになったか判らない。途中でリタイアした友人の分まで走ろう、何より北海道の端っこまで来てリタイアしたくないという「想い」だけで完走できたに違いない。過酷な13時間をリマインドすると、否応無く気持ちが引き締まる。

ランナーたちは雨に備え、やや厚手の格好に身を包んでいた。レインコートを纏うランナーも少なくない。
昨年と同様、覗かせる肌身は筋肉が隆々としていて、血の滲むトレーニングを積んできたことを想起させる。凄いなあ。俺はせいぜい、5月に60キロ走と50キロ走をやったに過ぎない。走り込みの量で比較すると、友人の1/3程度になってしまっているだろう。こんなタフなレースで、僕は13時間後に完走の喜びを味わえるだろうか。

スタートの号砲が鳴る。
スタートラインを突破するまで、今年は55秒だった。前回よりも3分ほど早くスタートラインを超えた。
そのせいか、周りのランナーのペースは速い。スロースタートを決め込む僕は、ひたすら抜かされていく。
友人は触発されるように、ゆるりとギアを上げている感覚があった。昨年リタイアしているだけあって、彼には満を持してのレースになる。力みは無いけれど、彼のペースには鍛えてきたプロセスに裏付けされた説得力がある。それを阻害してはいけない。彼に「先に行く」よう目線を送る。

僕らはレース序盤から、お互いがお互いのペースを尊重するという選択をすることになった。
併せて僕は思う。そもそもマラソンとは個のスポーツだ。何をするにも、ランナーの自由が何より尊重されて然るべきだし、とりわけ雨が降るであろう特異なレースにおいて、「正しい」選択が何か確証を持てるわけが無い。
スロースタートの僕がギアを上げ切らず体温を奪われて早期リタイアするかもしれないし、ペースを上げた友人が後半に地獄を見るかもしれない。それでも、それが本人の選択ならば後悔は無いだろう。

こんな風に、僕らは爽やかに決別した。

走り出しは曇り空だったが、4キロほどを通過した時点で、粒としての雨が落ちてくる。案の定だ。一時的とは思えない、存在感のある雨。改めて、参加者はタフなレースを覚悟し直したことだろう。

5キロを過ぎると、サロマ湖100キロウルトラマラソンらしい、長い直線が控えている。一本道で言うとここから約15キロだ。風景は多少変わるけれど、2時間弱を黙々と走る他無くなる。
ある意味、参加者はここでペースを作る。速過ぎだと思えばペースを落とすし、遅いかな?と思ったらペースを上げる。序盤だから、力の出し入れは比較的容易だ。

考えてみれば、僕は5年前に雨のレースは経験したことがある。
その年は2011年で、東日本大震災を経て間も無くの時期だった。埼玉県で開催されたフルマラソンだった。東北を支援したい気持ちのランナーも多かったのでは無いだろうか。今は熊本の地震が明けて間も無い時期である。無理矢理当時の心境を重ねる必要は無いのだが、走りながら、ぼんやりと当時を思い出したりしていた。単純に暇だっただけかもしれない。

それでも時間の経過と共に、精神や身体は何かしら気になることも出てくる。

今回は最初の折り返しを経て、20キロ地点を通過する直前だった。
冷たい飲み物のせいか腹に不安がよぎり、5分ほどトイレ休憩に立ち寄ることにした。
20キロを超えても、なお、トイレに行った方が良いかな?と自問する時間が続いた。だいたいこの時間帯になると、同じペースを保つランナーが前後に存在するようになる。彼らのペースに合わせることで、エネルギーは省力化される。なるべくならば離脱したく無い。トイレから復帰した後に、ペースの緩いランナーと一緒になることで、無駄なペース・アップを招きかねない。

何事かをぼんやり考えるのはマラソンの常だけど、不安はイコール邪念である。邪念は身体を不必要に揺さぶり、ペース維持に微妙な狂いを生じさせる。

30キロ手前で、「こんなに疲弊して大丈夫かな?」と思う。
睡魔にも襲われる。寝不足かもしれないし、森沿いの独特な空気感のせいかもしれない。2キロくらいは眠気でフラフラになり、これからを絶望してしまった。
ランナーにとっての眠気は要注意だ。体温の低下も影響しており、悪化すると低体温症に陥ることもあるからだ。

意識をクリアにしなければならない。
ちょっとテンションを変えようと、エイドの水を首筋にかける。やや冷た過ぎる。
身体が余計に冷えてしまったと思うが、結果的に良かったのかもしれない。少し経つと眠気が収まり、ペースが戻ってくる。自分の意思で地面を蹴っているという感覚がある。更にペースアップするよう、心の内がざわめき始める。「ちょっと待て、まだ早いよ」と頭が言いなだめても、僕の身体は前に行きたがる。頭よりも、結局のところ身体が先に反応してしまったのだから手がつけられない。もっともペースアップは悪い選択では無かった。序盤に抜かれた何十人ものランナーがスピードを一律落とす中で(35キロ過ぎからアップダウンがあるため、殆どのランナーがペースダウンしていた)、僕は国道沿いを軽快に駆け抜けて行く。

スタートから4時間40分。42.195キロ地点に到達する。昨年よりも20分早い。フルマラソンのペースを多少上回るくらいのスピードだ。
そして間も無く、前方に友人の姿を捉える。
奇しくも昨年、彼が離脱したポイントである。時を置かず彼に並び、「追いついた」と言う。彼は寒そうに見えたが、疲れているわけでは無さそうで声に余裕があった。このままお互いがペースを作り合いながら走れば、54.5キロ地点のレストステーションまでは1時間ちょっとで到達するはず。心強いパートナーだ。

それでも、僕らは自分たちのペースを楽しむ(優先する)ことにした。
並走することもあれば、僕が前に出て距離を空けることもある。僕が休憩すれば彼は待たずに先を行く。雨は時々止むが、寒さを和らげるほどの猶予は与えない。ウェアも少し水分を含むようになり、脱ぎたいなと思うまでになった。相変わらず僕は登り坂もペースを落とさずに進むことができた。けれど来るべき後半に向けて、ペース維持の調整を、何処かで入れるべきだとも感じるようになる。

6時間ちょっとでレストステーションに到着する。栄養補給だけでなく、昨年と同様、ウェアを全て取り替える。着替えスペースでは運良く椅子に座ることができた。他のランナーには悪いが、身体のために最大限活用させていただくことにする。
休憩時間は20分。着替えの他に、補給食を摂取する。ゼリー飲料1種、アミノバイタル半分、レッドブル1本。ちょっと長く留まり過ぎたかもしれない。ただ僕の与り知らぬところで身体は休まったかもしれない。

冬用のコンプレッションウェアを上下に纏い、その上から半袖Tシャツを被る。
防寒万全とまでは行かなかった。走り出すとひんやりとした風が身体に刺さる。決して強い風では無い。雨が降っていなければ、身体を良い具合にクールダウンしてくれただろう。それでも、前半に身体が冷えた恐怖があったので、多少慎重に歩を進めなければと懸念することにした。

ただ十分に休憩を取ったので、60キロまではこれまでのペースが落ちることは無かった。
さて、難関となる60〜70キロ。
昨年は「残り40キロもあるのか」という想いが頭を過ぎり、苦しいランになってしまった。
今年もここがターニングポイントに成るだろう。60〜70、70〜80の10キロ×2を我慢して走り、ワッカ原生花園にそこそこのタイムで入れれば完走が見えてくる。60キロを過ぎてストレッチをする。その後、素知らぬ顔で距離を縮めたいと思っていた。

一方で、少し前から感じていた違和感があった。胃に何かが溜まっている。何度か厳かに放屁してみるが、焼け石に水のような感じで、徐々に身体に重みが出てしまう。
66キロ過ぎに「魔女の森」というエリアに差し掛かった。森の中を走るコースで、空気が一段とひんやりとする。視界が澄み、必要以上に眩しさを感じる。頭がクラクラとする。温かみが欲しいのに。
吐ければ楽になる。そんなことを思い、試みるも上手くいかなかった。タイミング良く、吐くことはなかなかできない。一度だけ、胃液が喉元近くまで押し寄せてきた。胸が詰まり「今だ」と思い停止するが、結局は吐けなかった。ランナーたちは無情にも僕を追い抜いていく。燃料は切れ、ガソリンタンクが空っぽになっているような状態に陥っていた。スポーツ飲料などを口に含んで誤魔化すも、一番苦しいポイントはしばらく僕の周りに影を落としていた。

70キロ手前で、私設エイドとして有名な斉藤商店さんに立ち寄る。冷たいおしぼりに加え、お茶、トマト、キウリ、凍らせたブルーベリーなど、「ここにしか無い」サービスが特徴だ。後半戦に臨むランナー(もちろん僕も含む)にとって、希望の拠点なのだ。
フラフラになりながら立ち寄る。オーナーの斉藤登久代さんがそんな僕に駆け寄っておしぼりを渡してくれる。
「死にそうな顔で走ってるんじゃない!」と激励される。笑って頷くと、それで良いという風に微笑みを返してくれた。登久代さんのことはテレビで知ったに過ぎないのだけど、ちゃんと元気を貰えるから有難い。優しさだけでは、こんなボロボロな状態で残り30キロを走り切ることなど不可能なのだ。

とは言うものの、タイムは悪いわけでは無い。
昨年よりも20分上回るペースは継続されているし、10キロごとのラップも1時間10分台でまとめている。苦しみは先ほどがピークだったようで、だんだん波が戻るように身体は平静を取り戻すことができた。
ワッカ原生花園までの10キロは殆ど時計を見ず、ただ「1キロずつ進もう」と考えるだけだった。コースは道路沿いで何の変哲も無い。じわじわと1キロ間隔で刻むことは憂鬱を招きがちだけど、このときの僕は「あの看板まで走ろう」「あのカーブを曲がれば距離表示の看板が現れるはずだ」「給水まで500メートルなら、そこまでは歩かずに進もうか」と、かなり前向きなマインドを取り戻していた。

登久代さんの激励と、ブルーベリーのビタミン。
それぞれ僕のメンタルと身体を補正してくれたのかもしれない。

そんなこんな、今年も無事にワッカ原生花園に戻ってきた。「戻ってきた」という感覚だ。実際に声にも出してみる。「戻ってきた」と。スタートから9時間37分(80キロ地点)、長い長い旅も終盤と呼んでも良い状況だ。
ざっくりと試算する。残り20キロを3時間23分で走れば良い。さすがに2時間23分(10キロを1時間10分、一番速い頃のペース)で走りサブ12を達成するのは困難だけれど、もしかしたら12時間10分台で帰ることはできるかもしれない。

達成したい具体的な目標、
それに伴う絶対的な意思、

その2つが揃えば、人間はそれに向けて能力をフル稼働するものらしい。このレースを通じて学んだことだ。

昨年はコースを蛇行しながら、何とか完走に向けて気力を振り絞る苦しいレースだった。今年も約10時間走ってきて、身体の節々は痛むし、降りしきる雨にうんざりもしているが、「まずは最後の関門まで。ペースを乱さずに走ろう」と極めて冷静に自分をコントロールすることができていたと思う。ワッカ原生花園に咲くオレンジ色の花々を観るほどに、昨年とは違う余裕が自分にはある。早ければ2時間、遅くとも3時間で、このCrazyなチャレンジは終わる。せっかくならば悔いの残らぬようベストを尽くしたい。そういう想いで、まずは往きの9キロを走り切る。今年から、折り返し前に長く急角度の坂を登らなくてはいけない。多くのランナーが余力を残すべく歩いていたけれど、僕はのろのろと確実に走ることができた。

12時間10分台でなく、
12時間0分台でのFINISHが見えてきた。

全力で復路も走ろう。
意欲が、再び沸き上がる。

そう決めてから、何人抜いたか判らない。抜かれたのは1人だけだった。
この時間帯のランナーとしては元気な方だと自負して良いだろう。緩やかなアップダウンがあるワッカ原生花園のコースの中で、復路は比較的走りやすい。関門を終え、後続のランナーとすれ違うことも無いのでコースが広々としている。往路を走ったことでコースマップも頭に入ることも、そう感じる要因だろう。

そんな風にして、1キロ7分前後のペースで、1キロずつを詰めることができた。
残り3キロの表示、改めて時計を見ると、目論んでいた記録の達成は確実なものとなる。だからと言って、力を緩めるのは性に合わない。というよりも、もうスピードを落とすことを身体が良しとしていない。早く、ゴールの瞬間を味わいたいと思っている。
フルマラソンでも、最後の3キロは長く感じるものだ。毎度「何故フルマラソンは40キロでは無いんだろう」と先人を恨んでいる。だけど、3/100という数直線における範囲はあまりに小さく感じるし、それを苦しみ深いものにトランスフォームするのはありえないとすら感じていた。

そんな風に距離は、残り2キロとなり、残り1キロとなる。
レース最後に祝福されるビクトリーロードは、ラスト300メートルにわたり続く道だ。沿道からたくさんの声援をいただける嬉しい場所。

僕はそこから更にギアを上げて、10人くらいを一気に抜いた。
あくまで他人を追い越すというのではなく、自分に発破を掛ける最後のダッシュだ。
僕以外の時間が静止してしまったかのように、とても静謐な時間だった。

走れるものだ。改めて思う。
終盤はずっと集中を保てていた。最後まで、感情が正負いずれにも振られ過ぎるということが無かった。
僕の力を超えたものだと、確信を持って言える。

それでも、ゴールラインを超えたときは涙が出るほど嬉しかった。
実際に涙も出た。12時間2分47秒。このタフな1日を完走することが1番の目標として設定していた僕にとって、望外の喜びである。

去来する様々な思いを少しだけ宥め、記念撮影をする。
僕自身はフィジカルには強みは無いけれど、少なくともメンタルにおいて「自分に負けたくない」と思う力はかなり強いことが判った。こうと決めたら前だけを向いて、力を尽くすことができる。自分にとって新たな発見だ。

別々のランだったけれど、一緒に走った友人も30分ほど遅れてゴールする。
途中何度も一緒になり、抜きつ抜かれつしながらレースを共にした。感覚的には、レース全てで同一の記憶を有したように思う。
来年のことは判らないけれど、またサロマ湖を走れたら素晴らしいことだと思う。もちろん、それは本人がどんなチャレンジを選択するか次第。僕だって来年は別のチャレンジをしているかもしれないわけだし。いや、サロマ湖に帰ってくるだろう。きっと。

***

最後に。
サロマ湖100キロウルトラマラソンにおける若きレジェンド鈴木健司さんが、本レースで20回目の完走を果たした。いわゆる10回完走者に贈られるサロマンブルーから、グランドブルーという新たな称号を獲得されることとなった。心より祝福の気持ちでいっぱいだ。

直接の面識は無いけれど、通り掛かるたびにお声掛けさせてもらった(今年は計3回ほど)。
ただ走るだけでも大変だろうに、声を掛けると鈴木さんは顔をくしゃっとして応じてくれる。僕自身が、逆に励まされていた。

20回もサロマ湖を走る。
僕には想像もつかない世界だ。僕も走り続ける中で、鈴木さんの境地に達することがあるかもしれない。それまでは粛々とトレーニングを積み、鈴木さんの背中を見ながらサロマに臨んでいきたいと思う次第だ。IMG_7844

IMG_7845

6月の雨

休日出勤で、しかも大阪出張。
おまけに体調がよろしくないと言う状態だったんだけど、僕は走ることに決めた。
僕にとって走ることは、日々のリズムを作ることと同じだ。特に夏場は水分を多く取るので、新陳代謝を促すためにも、しっかりと汗をかかなくてはいけないと思っている。それが疎かになると姿勢も悪くなるし、食欲も減退する。「ビールで乾杯!」も素敵だけれど、地道に走っておくことも悪くない。

別に格好つけるわけじゃない。
聖人君子よろしく、「さあ、みんな走ろうじゃないか」と宣誓したいわけでもない。
僕にとっての事実を、なるべく歪曲しないよう努めて語るとすれば、こういうことが言いたいんじゃないかとキーボードを打ちながら感じる次第だ。

走る上で絶好な環境と、そうでない環境があるとしたら、今宵は残念ながら後者だったと思う。
走り始めて200メートルも経たないうちに、弱い雨が降り始めたのだ。今日は半袖Tシャツに短パン、防寒防雨とは言い難い格好である。

どうしたものか、引き返そうか。
こんな場合、たいてい「ちょっとだけ粘ろう」と思い、実際に走り続けるのが常だ。
理由は単純で「もう走り出したのだから」というもの。ランナーとは面倒くさがり屋が多いと勝手に思っているんだけど、せっかくランニングウェアに身を包み、シューズの紐をキツく結んだとしたら、それはもう立派な達成であり、達成したからにはそれなりの余韻のままにゴールしたいと思うものでは無いだろうか。傘をさすほどでもないくらいの、弱い雨じゃないか。

ということで、この日も例に漏れず、走るのを止めなかった。
悪いことに、雨の量はどんどん増していった。たかだか40分ほどのランの予定だったのに、後半になるとウェアに水が染み込むようになってしまっている。記録用に短パンに忍ばせたiPodが心配になる。水没しないだろうか。

有難いことに、この日の僕は、尻上がりに走るのが楽しくなっていった。
最初の2キロくらいは膝に違和感があるだ、背中が張っているだ身体の故障を嘆いたものだが、それらのダルさは早々に出払われてしまって、雨を浴びることが快感になっていったのだ。

6月の雨は、打たれても痛くなかった。
汗と雨が混ざり、僕の身体を心地良く撫でていく。
腕で額の汗を拭うと、冷たいタオルで触られるような快感があった。
最後の1キロは、もう普通に雨だった。傘を持っていなかったとしたら、コンビニで買わなくちゃいけないくらいの雨だ。
それでも僕は、もちろんコンビニには寄らず、歩道をただ闊走する楽しさに酔いしれていた(シラフである)。

両腕を天に向けて、まるで全世界を支配したかのような気分で、僕は6月の雨に打たれた。
誰に示すわけでもなく、僕はただ、単純に雨に打たれて気持ち良くて、時が許せばこのままずっと走っていたい気持ちになった。

明日から、また新しい1週間が始まる。
時々、仕事をしていても、まるで苦しくなく時をやり過ごせるときが来る。
そこまでは求めない。ただ健やかに、全身にできてしまった湿疹が早く治れば良いなと願うだけです。

村上隆「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきた

takashi murakami exhibition

takashi murakami exhibition

久しぶりのエントリ。
2月を飛び越えて3月になってしまったけれど、実感としてもそんなところ。
軽くでも良いので、ちょこちょこ更新していこう。

という意気込みの中で、ずっと行きたいと思っていた村上隆「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館、六本木)に行くことができた。
現代アートなのか、サブカルチャー的なマンガなのか、文学というコンテクストなのか、巧妙な引用なのか、卑屈なパクリなのか判らないけれど、巨大で壮大な世界観の前に、ただただ呆然とする時間を過ごした。そこには善悪や好き嫌いなど、もはや基準値としてはどうでも良くて、村上隆にしか描けないオリジナリティを前に感心せざるをえなかった。

「株式市場とアート市場は同じ」という。
自身の作品が15,6億円という金で落札されただけあって、彼の発言には説得力がある。

「お客さんの期待を上回っていくために、開発費を投じて、作品を作っていかなくちゃいけない」
そんな旨の発言のVTRが流れていたけれど、たぶん、この「お客さん」というのはアート作品を純粋に楽しむ我々のような「庶民」ではないだろう。

かなり意図的にターゲットを外し、世の中の文脈を意識しながら、作品を作り続けていく。

これは私の感覚でしかないので、真偽のほどは定かではない(というか、真偽なんてどうでも良くて)。
その外し方に嫌悪に近い感情を抑えながらも、大胆にコンセプチュアルな作品を生み出す村上隆のクオリティに言葉を失う自分がいた。大竹伸朗とは明らかに違う。創作への純粋さは感じられなかった。

展示会はスマートフォンでの撮影が許可されていた。
パシャパシャというiPhoneの音がフロアに響いていたけれど、冷たさに似たナニカを感じた。
図録買わなかったけど、買うべきだったかなあと今更ながら思う。

読み返してみると、「あれ?この人、村上隆のことずいぶん嫌いなんだな」って思われるかもしれないけれど、それは本意ではないんです。自分の表現を借りるなら、善悪とか好き嫌いとか超えたところに村上隆というアーティストはいて、ぐいっと心根を掴んで、それで放置されて今に至る。ぐわっと書き殴ったけど、おそらく正直な感覚だと思うのです。