戦後70年

今日から70年前の1945年8月15日。
昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送、いわゆる玉音放送が当時の日本国民に伝えられた。諸説あるようだが、日本ではこの日が終戦記念日として設定されている。

古市憲寿くんが2年前に書いた『誰も戦争を教えてくれなかった』にもあるように、僕も戦争のことをあまり知らない。終戦記念日とあるが、この日を「敗戦」「終戦」のいずれで記述するかでも数時間の論争が発生するという。

倉本聰さんは、日本経済新聞(8月1日朝刊)における「私の履歴書」で以下のように述べている。

リベラリストを自任してたけれど、右寄りと言われたり、左と言われたりしてきた。ちょうど80歳。終戦のときに10歳の、まぁ戦中派だ。疎開して空襲には遭わなかったけれど、死はすぐ隣にあって怖かった。いつも腹が減っていた。戦争は二度とごめんだ。
国を愛する気持ちはひと一倍だが、愛国心を強調すると右と批評される。国を守るのは大事なことだ。しかし、衆院を通過した安保法制には反対。戦争の臭いがするからだ。そうすると左とレッテルを貼られる。

僕もそんな風に思われること、あるいは糾弾されることを恐れて、この問題に公然と意見を述べることを避けてきたように思う。避けてきただけじゃない、たぶん考えることも停止していたんだと思う。「戦争はダメだ」「平和が一番だ」と言う当たり前の結論に身を委ね、僕はそのプロセスに真剣に向き合わなかったと思う。

古市くんは本の序章で、真珠湾攻撃の舞台になったパールハーバーを訪問した感想を以下のように語る。

アリゾナ・メモリアルの隣には、日本が連合国に対して降伏文書を調印したミズーリ号が停泊している。つまりアリゾナという「開戦」の記憶、ミズーリという「終戦」の記憶が同時に喚起されるような構成になっている。
(中略)
妙な居心地の悪さを感じる場所だった。それは、アリゾナ・メモリアルが僕の持っていた戦争というイメージを、いくつかの意味で裏切る場所だったからだろう。
そこは、あまりにも「爽やか」な空間だった。白を基調に構成された建物は南国の青空によく映える。博物館内の展示物にもグロテクスなものはあまりない。展示はすぐれて「中立的」である気がした。もちろんアメリカ目線ではあるけれども、過剰に戦争の悲惨さを説いたりはしない。日本に対する感情的なバッシングもない。
そして、そこは「勝利」に溢れた場所だった。

戦勝国のアメリカと、敗戦国の日本。
戦争をどのように遺すかということに興味を持った古市くんが語る戦争論。

僕は2012年に韓国に行ったとき戦争記念館を訪ねた。元同僚と別行動で行った理由は何だっただろう。それほど明確に語れる理由は無かったと思う。でも、殆ど人のいない記念館で、異邦人(韓国人ではない私)としての僕は、とても居心地の悪い思いを抱いた。
当たり前のことだけど、日本人と韓国人にとって、「戦争」の持つ印象や意味は違う。

松本人志は自身が主催する番組「ワイドナショー」で次のように述べている。

安倍(首相)さんがやってることに対して反対しているのって、意見じゃないですか?それはただ反対しているだけであって、対案が見えてこない。じゃあどうするのかっていう。前もいいましたけど、このままでいいわけではないんですよ。もしこのままで良いと思っていたら平和ボケですよね。世界情勢は確実に変わっているわけですから。何か変えないといけないんですけど、イマイチ誰もそのことについて(対案を、あるいは論点を)言ってくれない。

松本人志の発言が一部メディアで批難されたりしているけれども、番組を最初から最後まで観ると決して「偏った」ことを言っているわけではない。
対案を、あるいは論点を、というように僕自身が補正してしまった感もあるけれど、僕もそこを聴きたいし、語る術(意思)を持ちたいと正直に思う。

機会があって昨年は長崎に、今年は広島を訪問した。
「原爆」という信じられない虐殺兵器が投下された街で、僕は色々なことを思った。冬の長崎は雨で寒く、春の広島は快晴で汗ばむほどの陽気だった。過去から見た未来(つまり現在)はしっかりと時を刻んでいることを実感した。
僕は過去に恥じない人間になっているだろうか。過去から良質にアップデートされた人間として機能しているだろうか。

戦後50年の村山談話も、戦後70年の安倍談話(昨日発表されたもの)も読んでみた。もう少し色々なインプットをして、何らかの形でアウトプットをしたい。

タイトルを「戦後70年」とした。
だが、こんな風なタイトルを付けること自体が、松本人志の言う「平和ボケ」なのかもしれない。
世界を見渡せば、あるいは世界の中にちゃんと位置されている日本にいる僕らも、もはや戦時中かもしれないからだ。

ちなみにワイドナショーで話していた読者モデルの岡本夏美のコメントも興味深い。東野幸治に振られたとき、

(高校生がデモを行なっていることについて)正直意識があるのは凄いと思うけれど、クラスにこういう子がいたら、引いちゃうというかちょっと入れない。

これも致し方ないと思うけど、参政権が18歳に引き下げられるのであれば、この辺も問題かもしれない。「何が問題なのか」「何がイシューなのか」という感もあるけれど。結構面白いよ、ワイドナショー。

積ん読リスト(2015年1月)

http://d.hatena.ne.jp/ryozo18/20150115/1421297491

前のブログで似たようなことをやっていましたが、生きる上でのインプットは大切にしなければならないと。

◆『イノベーションのジレンマ〜技術革新が巨大企業を滅ぼすとき〜』クレイトン・クリステンセン
昔からの名著ですね。こんな記事もあるわけですが、どうなのでしょう。ビジネスに携わる身として、一般教養レベルでこの本は読まねばならないでしょう。

◆『ランチェスター思考〜競争戦略の基礎〜』福田秀人
戦略って、ついつい市場と自社のことを考えがちですが、競合が何を考えているか/競合に対してどんな策を講じるのかも並行して考える必要があります。ランチェスター戦略について学ぶことで、対競合の視点から、様々な示唆を与えてくれると期待しています。

◆『ビジネスモデル全史』三谷宏治
周りで「分かりやすい!」「役に立った!」と2014年に評判となった本でございます。図表も多く、インプットには最適な書物だと直感しています。

◆『ジョナサン・アイブ』リーアンダー・ケイニー
先週買ったばかりですが、並行して読んでいた『翔ぶが如く』に引き込まれ、このままでは「積ん読」モードになりそう。生い立ちパートが少し長いのですが、大事なのは本質を捉えることです。

◆『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』ブラッド・ストーン
ジェフ・ベゾスは最も成功した経営者の一人ですが、ECという枠に捉われないAmazonという企業の存在には大変興味がありました。本書で何が得られるか分かりませんが、その親玉の思想が垣間見えることを期待しています。

◆『ネットワークはなぜつながるのか』戸根勤
起業しようと思っていた時期に、システム系の知識を得たいと買った本です。そこそこ高め(2400円)の本だったこともあり、読了しなければ勿体無いなと。

◆『里山資本主義』藻谷浩介
長野でプロジェクトを行なっている先輩が、以前飲んだときにお薦めしてくれた本です。年末に買ったのですが、つい「積ん読」モードになってしまいました。

◆『すべて真夜中の恋人たち』川上未映子
川上未映子は『乳と卵』『ヘヴン』の2作を読んでいて、常に「引っ掛かり」を僕の胸に残してきました。ざわざわとした刺激を、今回も受けられるのか楽しみです。

◆『勝海舟 私に帰せず(上)(下)』津本陽
30代は「過去」を紐解く旅になると思っています。僕は幕末が好きで、幕末に関する本を書いてみたいとすら不肖ながら思っております。これもAmazonで買って暫く経つわけですが、司馬遼太郎だけでない歴史小説も読んでみようと思う次第です。

◆『天璋院篤姫(上)(下)』宮尾登美子
風邪を引いているときに、Huluで一気見してしまいました(今のところ43話まで)。原作の宮尾登美子さんの作品は一度も読んだことがありませんでした。これを機に。これは図書館で借りたものなので、あと1週間で読み切らねば笑

1つもファイナンス(会計/財務)に関する「積ん読」リストが無いなと。当然、現在進行形のものも。

TEDxKeio SFCに行ってきました(「伝える」ということ)

既に多くの人が知っている、カンファレンス・TED。

世界の至高のプレゼンテーションが見れるサイトで、世界的に人気があります。聞くところによると、チケットも高額で、しかもすぐソールドアウトになってしまうとか。

そんなTED、実際のカンファレンスで視聴する機会を得、行ってきました。と言っても、TEDx(テデックス)という、地域毎で個別に行なわれているイベントです。今回開催されたTEDxは、TEDxKeio SFCと銘打ち、たくさんの魅力的なプレゼンターの発表を、実際に目にすることができました。

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詳しいレポートは、僕が他で運営しているブログに、後日アップします。http://d.hatena.ne.jp/HORISOH/

今回凄いなあと感じたのは、TEDが持つミッション「idea worth spreading」です。広めるべきアイデアを、世界中の多くの人々に知ってもらいたい。そのために通常のカンファレンスだけでなく、サイトにていつでも見れるようにしたコンセプト。世界の第一線で活躍されている方、あまり脚光は浴びていないけれども価値のあるアイデアや技術をお持ちの方、不思議な体験をされた方・・・。多彩でエネルギッシュなスピーカーのプレゼンテーションは、どれも魅力的です。

「伝える」ということ。大昔はFace to Faceに限定されていました。

それが、

集会という「場」の設計、印刷技術の発展で、1対多というものが広がりを見せるようになりました。

更には、テレビやラジオが公共に向けて、同時に、情報を提供できるメディアに成長しました。

そしてインターネットです。リアルタイムでの情報共有も、ストレージとしての情報蓄積の両面が可能になりました。更には、情報はいつでも、どこでも、網羅的に共有できるものに。テキスト情報はおろか、静止画情報、動画情報など、伝えられる「モノ」にもバリエーションが見られるようになる。

情報革命、という安易な言葉で片付けたくはないのですが、人類がこれまで経験した歴史を考えると、インターネットの「伝える」パワーというものは、想像している以上に価値があるものだと思います。そして、そのパワーが政治、経済、文化、人間に影響を及ぼしていく。

それがプラスの要素だけでなく、マイナスの要素も多分に含まれていることは周知の事実。利便性の側面だけでなく、時には人の生命を脅かす情報革命。

よりリッチに、コンビニエンスに、大きく、うねりを上げて進んでいく様子を、僕は、「文化」「カルチャー」という観点で考え続けたいと思います。

歴史小説を書くということ

僕は司馬遼太郎の歴史小説が好きだ。

高校時代には坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』、
大学時代には新選組副長土方歳三を描いた『燃えよ剣』、大村益次郎の生涯を描いた『花神』、
社会人に入ってから吉田松陰、高杉晋作を描いた『世に棲む日日』、

これらは、ほんの一例に過ぎない。時期を問わず、短編や中長編、エッセイなど、僕は氏の作品に触れている。氏の作品を通じて、先人の偉業を知り、思考法や人生観を学ぶことができる。それは僕の人生に大きな影響を与えるほど、楽しくスリリングなものだ。

ここ最近僕は、歴史小説はどのようなプロセスを経て書かれているのか気になっている。例えば坂本龍馬を題材としたときに、書き手はどのような龍馬像を想定し、読者に届けるに至るのだろうか。

正確を期すために付け加えておくと、本エントリは企画レベルに留めている。出版社への交渉やプロモーションなどは考えていない。悪しからず。

閑話休題。

司馬遼太郎氏『手掘り日本史』を読むと、幾つかのヒントが見えてくる。

一部引用すると、

史料というのはトランプのカードのようなもので、カードが勝負を語るものでないように、史料自体は何も真実を語るものではない。決してありません。史料に盛られているものは、ファクトにすぎません。しかし、このファクトをできるだけ多く集めなければ、真実が出てこない。できるだけたくさんのファクトを机の上に並べて、ジーッと見ていると、ファクトからの刺激で立ち昇ってくる気体のようなもの、それが真実だとおもいます。

ただファクトというものは、作家にとって、あるいは歴史家にとって、想像の刺激材であって、思考がファクトのところにとどまっていては、ファクトの向こうに行けない。そのためにも、ファクトは親切に見なければいけないと思います。

(中略)

戦後、二宮尊徳は泥棒なり、という説を立てた人がいたそうです。なぜかと申しますと、二宮尊徳は薪を背負って本を読んでいますね。そこで、二つのファクトが考えられる。彼は極貧なり、というファクトがひとつ。彼は薪を背負っている、というファクトがひとつ。この二つのファクトだけをつないでみると、その薪はどこからとってきたんだ、という疑問が出る。極貧だから山をもっているはずがない。だから泥棒だ、という真実が引き出されるわけです。

しかし、そこにもうひとつのファクトを入れてみればどうでしょう。それは、どこの村にも入会山というものがあるということです。農村出身の人なら誰でも知っているこのファクトを、もうひとつ入れてみなければならないので、そうすると二宮尊徳はやっとふつうの人になるんです。

ファクトとトゥルーのかね合いには、厄介な、非常にむずかしい問題が多くあって、それがまた、ひとつひとつのケースで変わってくるんですね。

氏は、上記のことからも分かる通り、多くのファクトを大切にして、出来るだけ真実に近い形を小説として読者に提示した。本書でも書かれているが、奇談奇説(義経が生きてジンギスカンになった、というような説のこと)は否定する。読者が人物に対する「期待」と異なっていたとしても。

読者は、氏の筆力はもちろん、歴史ファンとして歴史を読み解く読み物として価値を感じているわけだ。

翻って。

氏の姿勢に沿って、坂本龍馬を描くとする。極論すると、一次資料が『竜馬がゆく』ではマズい。『竜馬がゆく』で描かれている坂本龍馬は、氏が集めたファクトに沿って成立したものだからだ。『竜馬がゆく』でない坂本龍馬像を提示するためには、氏と同じ(似た)プロセスを経て行なわないと、読者へ説得力を持って伝えることができない。

「司馬遼太郎さんが●●と言っている」
「ゆえに、僕は▲▲という視点を提示したい」

では、氏が「価値」として感じる歴史小説にはなれない。ファクトが圧倒的に不足している。

ただし、歴史小説の書き手には「逃げ道」も用意されている。歴史小説は、あくまでフィクション(創作、作り上げ)だからだ。

基本的に、フィクションは自由だ。ある出来事に対して、無限もの解釈が存在する。読者の存在を無視すれば、いくらでも説得力のない筋書きを用意できる。

だが、多くの書き手は、読者の存在を気にする。
読者に気に入ってほしいと強く願っている。

読者。

読者が相当の歴史通だったら、
読者が坂本龍馬の大ファンだったら、
読者が小学生で、読み物を通じて初めて坂本龍馬を知る場合だったら、
読者がハードボイルドが大好きで、小説にそういった要素を求めているとしたら、

読者には、様々なニーズ/ウォンツがある。

場合によっては司馬遼太郎氏のスタンスが求められるし、場合によっては大河ドラマ『龍馬伝』のような筋書きや演出が求められる。

歴史小説を書くということは、それらを見極めることが非常に重要だということが分かる。