「バチェラー・ジャパン」が面白すぎて、春

ネタバレはありませんので、ご安心ください。

毎週金曜日にAmazonプライムビデオで配信されている「バチェラー・ジャパン」。
1人の男性(以下「バチェラー」…独身者という意味)が、25人の女性の中から1人を選ぶという恋愛バラエティ番組。各話の最後にローズセレモニーというイベントが開催され、バラを受け取らなかった女性はバチェラーのもとを去るという仕組みだ。

詳しくはAmazonの特集ページをご覧ください。

もともとは2002年にアメリカで放送されていたという「The Bachelor」。
現在では全世界30か国でエピソードが製作されているとのことだが、2017年に日本でも初めて番組が「輸入」されたことになる。参加男性も参加女性も、もちろん視聴者である我々も初めてのこと。勝手がイマイチ掴めないこともあり、僕もかなりドキドキして番組を楽しんでいる。(控え目な言い方でした。どハマりしています!)

冒頭でも書いた通り、極力ネタバレは書かないようにしたい。
Twitterで「バチェラー」と検索すれば、だいたいの流れが判ってしまうけれど、これから番組を観る方は何もチェックせず最初のエピソードから楽しんで欲しい。

番組のコンセプトだけを読むと、「あいのり」「テラスハウス」などの番組を想像されると思う。
そのイメージは間違っていないと思うけれど、僕はけっこう「バトルロワイヤル」に近い感じがしている。

もちろん違いはある。
バトルロワイヤルは殺し合いだし、バチェラー・ジャパンは恋愛模様がテーマだ。

共通点は「Dead or Alive」であることだ。その決まり方は違うけれど、
バトルロワイヤルは生徒同士の殺傷により、生命の有無が決まる。
バチェラー・ジャパンはバチェラーの選択により、参加継続の権利が決まる。バチェラー・ジャパンにおける最終的な生存とは、すなわちバチェラーの花嫁候補になることを意味する。

女性は生存するために、ありとあらゆる手段でバチェラーの気を惹かなければならない。
女性同士の嫉妬/駆け引きに勝ち、また選ばれるかどうかの不安にも耐えなければならない。(しかも段階的に女性はふるい落とされていく)
これは男性と女性の恋愛模様を描いているのだけど、全くフェアじゃない。
男性であるバチェラーは、25人の女性から選択する権利を最後まで持っているからだ。

フェアじゃないからこそ、不思議な面白さがある。

「友達を作りに来ているわけではない」
「いつも(バチェラーのことを)見てるから、見てるから、ちゃんと私を見てて欲しい」
「私が一番良い女だと思ってる」
「(「大事にしているのは?」という質問に)自分の感情、自分の意思」
「(嫉妬や愛情が入り混じり)自分の感情がいまいち分からない」
「楽しそうにデートから帰ってきたから、能天気野郎だと思ってます」

女性たちは自分の感情を正直に話している。
また画面を通じて、彼女たちが本気でこの「バトルロワイヤル」に臨んでいることも判る。
何話も観続けていると、推しメンのような女性が出てくるのも不思議で、「あの女性は落ちて欲しくない!」という風に感情移入してしまうのだ。

人は、何を基準に恋愛しているのだろう。
25人の女性は様々で、例えば、

  • 自分に自信がある女性
  • 自分の感情を正直に伝えられない女性
  • 太陽みたいに周りを明るくしてくれる女性(ギャル)
  • 料理が上手だけど嘘をつきがちな女性
  • バチェラーに対して気持ちを真っ直ぐ伝えることができる女性
  • 癒し系でほっこりする早稲田大学出身な女性
  • .
    .
    容姿、性格、特技、価値観、バチェラーへの気持ちなど、色々な観点があると思うわけだけど(それも人それぞれ)。ドラゴンクエストみたいな戦闘力チャートで示したときにバランスが良い女性か、1つだけ思い切り特化している女性かもあるし。

    僕の好みとは違うけれど、僕のバチェラー・ジャパンにおける、推しメンは後者のタイプの女性です。誰が選ばれるんだろうと、まだ3話を残しつつも楽しみで仕方ありません。
    ローズセレモニー前の、バラを受け取れるか不安な女性の表情も、また、たまらんのです。ただの変態っぽい感じになりましたが、特にエピソード8と、エピソード9は涙なしでは観られなかったです。

    「人生はドラマだ」
    それは長期的な視点に立ったから言える言葉であって、毎日、周りにいる人たちとの関係性においてドラマチックが表出しているとは限らない。

    非日常であり、不条理なルールのもとだからこそ、人間の本質/本心が露出されてしまうことがあると思うし、特にこの番組では、心が痛むほどに女性たちの生き様が垣間見えるような気がしてならない。

    最新話では、「5人→4人」に絞られ、いよいよ物語は最終章へと進んでいく。
    バチェラー・ジャパンから目が離せない。

    Twitterで「バチェラー」と検索すると、こんな感じの感想が。笑

    若さゆえ:ラ・ラ・ランドとナビ派展

    僕には1つの仮説がある。
    どんな世界においても「若さ」がブレイクスルーを生み、時代を変えていると。

    2002年にArctic Monkeysがバンドを結成し、2005年にデビュー曲「I Bet You Look Good on the Dancefloor」が生まれた。このとき彼らは20歳前後だった。
    カート・コバーンもジム・モリソンもジミ・ヘンドリックスも志村正彦も20代で活躍し、同じ20代で短い生命を終えている。

    日本ハムファイターズの大谷翔平は18歳でプロ入りし、最初からピカピカに輝いていた。
    FCバルセロナのリオネル・メッシも17歳でデビューを果たし、その活躍は誰もが知るところにある。

    ミクシィもグリーもサイバーエージェントも2ちゃんねるも、
    フェイスブックもツイッターもグーグルも、
    寝食を忘れて若者たちが夢中になって作り上げ、結果として時代を変えた。

    もちろん若さが成果に結びつかなかった事例も、事実としてたくさんある。
    だが若さゆえの「何も知らない」が武器になり、前述のように、歴史に残るインパクトを多数残してきたのも事実だ。

    「認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」
    と言ったのは「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブル。あまりに広く認知されているが、劇中での設定年齢が20歳であったことも見逃せない。

    さて本題。
    先週、妻と一緒に映画「ラ・ラ・ランド」と、三菱一号館美術館の企画展「ナビ派展」を鑑賞した。
    結論から言うと、どちらもとても良かった。

    まずは「ラ・ラ・ランド」。
    僕はTVドラマ「Glee」の大ファンなので、ミュージカル作品に対するアレルギーはない。
    喜怒哀楽を表現するために用いられる歌とダンスが何といっても印象的だった。ポップなのにダサさがないのは、アメリカ文化への憧憬(≒白人コンプレックス)によるものだけではあるまい。
    冒頭に「Another Day of Sun」が流れ、そのままウキウキして作品にのめり込む。デイミアン・チャゼル監督を始めとするスタッフ陣の演出のセンス、セバスチャン(演:ライアン・ゴズリング)とミア(演:エマ・ストーン)の掛け合いのスピード感は楽しさしかなかった。

    劇中の登場人物は、人間的には欠落している部分もあるのだけれど、Gleeを観ていたときと同様に物語の中で自然に気持ちを寄せていくことができる。
    「それが物語っていうもんだろ?」と反論されるかもしれないが、ミュージカルという舞台装置が、観者の共感を加速させているのは間違いない。
    デイミアン・チャゼルの前作「セッション」でも感じたことだが、チャゼルは物語の整合性をそこまで丁寧に描くことはしない。あえて余白を残している。それはつまり、論理の飛躍や破綻をある程度のレベルであれば許容し、受け手のイマジネーションに解釈を預けているということだ。

    ラブ・ストーリーという枠組みに乗せ、徹底的に耽美に描かれたラ・ラ・ランド。
    「夢を追いかけている」「夢を追いかけたい」「夢を諦めてしまった」という普遍的なモチーフも重なり、多くの映画ファンを虜にしたことだろう。

    続いては「オルセーのナビ派展」。
    有楽町駅から徒歩5分くらい、ビル街を抜けて姿を見せた洋風な建物が三菱一号館美術館だ。(この美術館を訪ねるのは初めてだった)

    ナビ派とは何か。
    館内の紹介文を引用すると、19世紀末、新しい芸術の創造を目指し、自らを新たな美の「ナビ」(ヘブライ語で「預言者」)と称した若い画家たちのグループである。
    本展でも展示があった、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、フェリックス・ヴァロットン、アリスティード・マイヨールの面々が挙げられる。

    妻はもともと、モーリス・ドニが好きだったようで。色使いの独特さ、ドニならではの佇まいの潔さは僕の目にも普通ではないものとして映った。

    僕はナビ派というものをこれまで意識したことはなかったが、なるほど、過去の時代の流派の影響も受けつつ、絵画を再定義しようとする意欲をひしひしと感じることができる。
    僕はピエール・ボナールの作品をとりわけ気に入った。図録の表紙にも選定された「黄昏(クロッケーの試合)」は輪郭線を排し、塗りと模様の組み合わせだけで1つの達成を成し遂げたような作品だ。印象主義の絵画が情景に対するイマジネーションを掻き立てるのと対照的に、「黄昏(クロッケーの試合)」からは何も想像できない/想像させないような意図すら感じさせる。

    やや説明的になってしまった。
    僕が言いたいことを端的にまとめるなら、「デュフィは色彩が綺麗」「ロバート・ハインデルは踊り子の物語性を訴えかける」「ピカソはとにかく天才だ」みたいなことが言えるのに、ナビ派の作家たちに関しては、そういったことがなかなか難しい。好きな人は好きだけど…というように結論を留保しがちな難解さがあると言えなくもない気がする。

    否定的に聴こえてしまったら、僕の本意ではない。
    僕はたくさんの解釈を思索できるので、何時間でも絵の前に立っていられるような魅力を持っていると感じている。フェリックス・ヴァロットンの「髪を整える女性」のようにセンスしか感じないような作品もあり、とても楽しい時間を過ごすことができた。

    さて、冒頭の「若さ」についてである。
    ラ・ラ・ランドの監督であるデイミアン・チャゼルは32歳で、僕と全くの同じ年齢だ。
    そしてナビ派で上記した面々において、展示されている殆どの作品は作家が20代(30代前半)で描かれていたものが多かった。
    (なおラ・ラ・ランドの音楽を担当しているジャスティン・ハーウィッツも1985年生まれで、チャゼルと大学時代に知り合ったという同世代である)

    僕と同じ年齢、またそれよりも下の年齢のときに、これほどまでに才気溢れた作品を上梓できるというのは、どれだけの凄まじさなのだろうと、まずは感服してしまう。
    「僕」という何も実績のない人間と比較することに意味は乏しいのだけれど、同じ人間であるという共通項(それに伴う視点)で俯瞰したときに、ラ・ラ・ランドやナビ派にまつわる全ての事項のエネルギーはあまりに熱々しく迸っている。

    「映画に新たな観点を導入しよう」
    「既存の枠組みに対抗しよう/絵画の再定義に挑戦しよう」

    その意志は固く、頑なである。
    頑なでないなら、どうしてあれだけのパワーは産出できるだろう。
    冒頭に「若さ」について言及した自らの仮説に対して、僕は一層の納得を感じてしまうのだ。

    最後に(蛇足かもしれない)。

    ナビ派の代表格として知られた、件のピエール・ボナールだが、本展では展示されていた30歳を過ぎてからの作品に対して、僕はそれほど親密な気持ちを寄せることができなかった。(ちなみに図録の作家解説には1900年頃からは光に溢れる柔らかくも鮮やかな色彩表現を確立していく、とある)

    あくまで、僕個人の印象だが、ナビ派という括りの中で才気溢れた作家たちが、それぞれ新しいフェーズに向かう旅路において「何かを知る」ようになったのではないだろうか。きっとそれは、年齢と無縁ではいられなかったのだ。

    「若さ」という武器は、人生で何度も再来することのない得難いものである。
    僕はそう思うからこそ、ラ・ラ・ランドを完成させたデイミアン・チャゼルの達成を声高に祝したいのである。現在という時間軸において立ち会えたことを心から嬉しく思うのだ。

    ビクターロック祭り2017に行ってきた:竹原ピストルが物凄かった

    妻の友人に誘われ、今年もビクターロック祭りに行ってきた。
    ビクターに所属するアーティストが集い、幕張メッセを貸し切って行なわれるこのイベント。
    さしづめビクターの品評会という位置付けなのかもしれないが、アーティストの演奏は所属会社への誠意が込められていて、とても盛り上がる良いイベントだと思っている。

    やや体調不良もあって、Dragon Ash(15:30〜)から会場に足を運んだ。
    観たアーティストは、

    ・Dragon Ash…2曲だけ
    ・KREVA…1曲だけ
    ・never young beach…フルで観た
    ・レキシ…ほぼフルで観た
    ・竹原ピストル…フルで観た
    ・サカナクション…フルで観た

    という感じ。夜の本気ダンス、ADAM atも観たかったが、今回は見送った。

    さて、それぞれのレビューを書いてしまうと無尽蔵な長さになってしまう。
    なので本エントリでは、物凄かった竹原ピストルのことを書こう。
    住友生命のTVCMの影響で「よー、そこの若いの」が広く聴かれることになったが、もともとは野狐禅というバンドを組んでおり、HEY!HEY!HEY!やトップランナーにも出演していたことがある(野狐禅は2009年に解散してしまったようだ)。

    アコースティックギターによる弾き語り。
    歌を歌い、歌唱の最後に曲名を言い、時々少しだけ喋る。
    派手な照明など演出があるわけでもない。たった独りだけステージに立つ。至ってシンプルだ。
    (ヘッドライナーのサカナクションとは真逆と言っていい)

    なのに、あるいは、だからこそ。
    彼の土臭い歌唱とシンプルな言葉は、僕の胸を何度も打った。

    君だけの汗のかき方で、君だけの汗をかいたらいいさ(よー、そこの若いの」)
    薬づけでも生きろ(「LIVE IN 和歌山」)
    あの頃の君にあって、今の君にないものなんてないさ(「Forever Young」)

    「俺のアディダス〜人としての志〜」も良かった。とにかく素晴らしかった。

    何を歌うか、ではなく、誰が歌うか。
    竹原ピストルがこれまで経験してきたことが、30分という短い時間の中に凝縮されている。口角泡を飛ばすように激しく言葉を連ねるときもあれば、穏やかに強く歌い上げることもある。

    乱暴な言い方をすれば、僕は彼が送ってきた人生とはまるで違っている。
    若くしてメジャーデビューを経験するが、バンド解散後はインディーズで年間300本近くのライヴをこなしたそうだ(「それしか自身をプロモーションする手段がなかった」と彼はインタビューで語っている)。大変な紆余曲折だったと思う。苦難の時代と言ってもいいのではないだろうか。

    そして最後は詩の朗読。「のろし」という自作の詩を読む。

    アンダーグラウンドから狼煙をあげる
    アンダーグラウンドから狼煙をあげる
    アンダーグラウンドから狼煙をあげる
    アンダーグラウンドから狼煙をあげる
    アンダーグラウンドからのし上がる

    この言葉を、堂々と言える竹原ピストルというアーティストの価値よ。
    物凄い存在感の竹原ピストルは、レキシやサカナクションなどの派手でピースフルなステージとは対照的に、だけど圧倒的に観ていた人々の心を掴んだはずだ。心に、まるで楔のようなものを打ち付けたんだと思う。

    ちなみに彼は、日本アカデミー賞で優秀助演賞を獲得した。
    西川美和が監督を務める「永い言い訳」という作品だ。僕はまだ観ていないが、竹原ピストルという人間そのものに興味を持ったので、俳優としての姿も観てみたいと思う。すごい人間だ。敬意しかない。

    ストレイテナーの「REMINDER」が必要なとき

    suchmos、LUCKY TAPES、Czecho No Republic、H ZETTRIO、水曜日のカンパネラ…。
    最近聴いている比較的新しいアーティストを挙げるとすると、こんな感じだろうか。

    別に最新の音楽シーンを切り取っているという感覚は無い。
    前回のエントリで言及した通り、Czecho No Republicは2011年には作品を出しているし、H ZETTRIOのピアニスト・ヒイズミマサユ機はミュージシャンとして既に名声を得ている(椎名林檎率いる東京事変のメンバーだったのだと、僕は最近知った)。suchmos、LUCKY TAPES、水曜日のカンパネラも音楽メディアではかなり取り上げられている。決して「ド新人」枠として語るべきでは無い人たちなのだ。

    だけど、少なくとも僕にとって、数多ある音楽の中で「新しい」を感じることは良い傾向だということを理解して欲しい。
    僕はしばらくの間「古い」音楽に回帰していたし、ネガティヴな言い方をすると、「古い」音楽を傾向として聴かざるをえなかったのだ。そのサイクルから抜け出すことができなかった。僕は音楽から、新鮮で建設的な刺激を享受できなかった。9割9分くらいは僕に原因があったのだろう。

    Apple Musicが日本に訪れてから1年ばかりが過ぎ、僕の中でようやく「古い」音楽からの脱却に成功した。
    「新しい」音楽を能動的に、リラックスして聴くことができている。とても良い傾向だと感じる。感じる、というより、感じられるという方が正確だろうか。耳が、自然と「新しい」音楽を求めているのだ。

    その求め方は、大学時代、近所のGEOに通いつめて音楽を漁っていた頃に、程度の差こそあれ似ていると思う。
    PC(当時はPanasonicのレッツノートを使っていた)の容量が許す限り、僕はたくさんの音楽データを詰め込んで、朝から晩までiPodで聴いていた。そんな時代/行為を笑う世代も出てくるのだろう。夜な夜な音楽データ(しかも聴きたい曲でなく、アルバムの全曲を)を取り込むなんて、とても非効率なことだからだ。
    それでも僕は、そんな風に音楽と接触していた日々のことを誇りに思う。音楽は記憶としてしっかり僕の中に染み付いているから、時々思い出したかのように「古い」メロディが蘇ってくる。不意に。過去と現代のクロスオーヴァー。時と場合によるけれど、何にも代え難い素晴らしい瞬間として味わえることもある。そういう瞬間は、誰しもに訪れるものでは無いだろう。それが少なくとも僕にとっては意味のある音楽だと確信しているなら尚更だ。音楽との濃密な接触、浅いコミュニケーションだと絶対にRemindされない類のものだ。

    ***

    さて、今日の主役はストレイテナーだ。
    何気が触れたのか、僕がストレイテナーの音楽を聴いてしまった夜のことを、取り留めなく書きたいと思う。

    気が触れた、
    というのは、あまりに語弊がある。
    だけど、その日僕がストレイテナーを聴いていた経緯や理由をロジカルに答えることはできないし、それは僕が普段「音楽を聴く」というプロセスにおいて、ストレイテナーという選択肢が無いことをシンボリックに表現しているに過ぎない。
    Apple Musicをザッピングをする中で、(もしかしたら「誤って」)何かの拍子にストレイテナーにヒットしたんだろうと思う。

    誤解の無いように言うと、僕はストレイテナーの音楽が好きだ。
    「Killer Tune」「Melodic Storm」「ROCKSTEADY」「YES,SER」「Play the Star Guitar」など、イントロが流れるだけで懐かしい思いに駆られる。ロックが殆どタイ・アップされていない時代に、ホリエアツシとナカヤマシンペイの2人構成でバンドがスタートし、それから数年間で生み出された楽曲には孤高に挑もうとする野心で溢れている。

    幾つかのメンバー加入があっても、だいたいストレイテナーの特徴に変わりは無い。
    フロントマン・ホリエアツシの細く硬質な歌声と、ちょうど良くバックエンドが支える演奏は信頼するに十分なテクニックを有していて、聴いていて「裏切られた」という感覚に陥らない。
    その辺は僕がストレイテナーに肩入れする理由の1つなのかもしれない。ELLEGARDEN、ACIDMAN、THE BACK HORNやLOST IN TIMEなど、彼らと同世代のバンドに僕がハマらなかったのは、歌詞や歌唱、振る舞いに過剰な厚みを感じてしまうからだ。「ロックは重い」という経験をしばしばしたというのが大きいと思う(まあ、それぞれ全然違うタイプのロックではあるけれど)。
    それに比べると、巷で流行している「草食系」と言えなくも無いビジュアルのホリエアツシ。ささやかなロックンローラーとしての静かな情熱を僕は好ましく感じていたし、ステージに上がると別人のように、演奏で客を囃し立てる潔さは唯一無二の存在だった。だから僕は、音楽フェスがあれば迷わずストレイテナーの「場所」は押さえていた。

    つまるところ、ストレイテナーとは。
    あまり目立つことの無かった僕が、大学時代にようやく見つけた「青春」だったのかもしれない。
    2005年にASIAN KUNG-FU GENERATION主催「NANO-MUGEN FES」に行き、初めてストレイテナーの生の演奏を聴いて、身体がバキバキに凍りつくくらいに凄まじいロック・ナンバーが展開されて、20歳の僕はただただ両腕を振り上げるしか無かったんだ。気付けば、かなり前方まで行ってしまい、汗が飛び交うモッシュの渦に呑まれた。ライヴ中の僕は、聴衆としてひたすら「青春」を満喫していたし、それが音楽を聴取する上での基本的態度として身についたわけだ。

    僕がゲリラ豪雨を避けてスターバックスに向かう道すがら、ストレイテナーの「Reminder」を聴いたわけだけれど、それが後年どんな影響を僕に及ぼすだろう。答えは単純「どんな影響も与えやしない」。

    そこから何かが変わっていくだろう
    壊れた形や消え失せた色
    そこにある何かが伝えていくだろう
    優しさや悲しみや遠い記憶を
    (ストレイテナー「REMINDER」)

    それでも僕は、この曲を聴いて「懐かしさ」を感じ、思わず2000年代前半の色々なことを思い出したのだ。

    思い出させること、あるいは、思い出させるもの。
    リマインダーという言葉はいつしか、警告や通知のように、人為的な手段として用いられることが多くなったけれど、そういう情緒がちゃんとあり、いささかメランコリックに人を寄せてしまう引力があろう。痛みや迷い、苛立ちや怒り。思い出されるものは負の感情が伴い、それでも経験して有意義だったと感じるものが少なくない。

    あまりに僕はストレイテナーと同じ時期に音楽を聴いてしまった。
    「青春」というタグが貼られ、良いも悪いも「青春」抜きにストレイテナーを語ることは困難だし、不意にFlashbackされる厄介さに巻き込まれたくないと感じることが、この先も続くだろう。

    新作「Cold Disc」を遅ればせながら聴いた。エラく格好良かった。
    あの頃と変わらぬホリエアツシが歌い、信頼できるバックエンドがきっちりと支える。ちょっとアコースティックな楽曲も幾つかある(調べてみると、アコースティック編成でのライヴもちょこちょこやっているらしい)。

    また巡り会う世界はきっと
    変わり果てていても
    辿り着く時には僕も
    少しは優しくなれるかな

    負けられない戦いに僕らは
    (ストレイテナー「Force」)

    時代は変わる。
    ストレイテナーもちょっと変わり、だけどちっとも変わらない。

    それでも、いや、だからこそ、好ましい思い出はそっと胸の奥に仕舞い、ストレイテナーの再登場をしばらく待つことにしたい。時折エネルギーが切れる僕だから。

    未来のことが正確に判るならば、定期的に「REMINDER」をセットできれば良いのだけどな。

    村上隆「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきた

    takashi murakami exhibition

    takashi murakami exhibition

    久しぶりのエントリ。
    2月を飛び越えて3月になってしまったけれど、実感としてもそんなところ。
    軽くでも良いので、ちょこちょこ更新していこう。

    という意気込みの中で、ずっと行きたいと思っていた村上隆「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館、六本木)に行くことができた。
    現代アートなのか、サブカルチャー的なマンガなのか、文学というコンテクストなのか、巧妙な引用なのか、卑屈なパクリなのか判らないけれど、巨大で壮大な世界観の前に、ただただ呆然とする時間を過ごした。そこには善悪や好き嫌いなど、もはや基準値としてはどうでも良くて、村上隆にしか描けないオリジナリティを前に感心せざるをえなかった。

    「株式市場とアート市場は同じ」という。
    自身の作品が15,6億円という金で落札されただけあって、彼の発言には説得力がある。

    「お客さんの期待を上回っていくために、開発費を投じて、作品を作っていかなくちゃいけない」
    そんな旨の発言のVTRが流れていたけれど、たぶん、この「お客さん」というのはアート作品を純粋に楽しむ我々のような「庶民」ではないだろう。

    かなり意図的にターゲットを外し、世の中の文脈を意識しながら、作品を作り続けていく。

    これは私の感覚でしかないので、真偽のほどは定かではない(というか、真偽なんてどうでも良くて)。
    その外し方に嫌悪に近い感情を抑えながらも、大胆にコンセプチュアルな作品を生み出す村上隆のクオリティに言葉を失う自分がいた。大竹伸朗とは明らかに違う。創作への純粋さは感じられなかった。

    展示会はスマートフォンでの撮影が許可されていた。
    パシャパシャというiPhoneの音がフロアに響いていたけれど、冷たさに似たナニカを感じた。
    図録買わなかったけど、買うべきだったかなあと今更ながら思う。

    読み返してみると、「あれ?この人、村上隆のことずいぶん嫌いなんだな」って思われるかもしれないけれど、それは本意ではないんです。自分の表現を借りるなら、善悪とか好き嫌いとか超えたところに村上隆というアーティストはいて、ぐいっと心根を掴んで、それで放置されて今に至る。ぐわっと書き殴ったけど、おそらく正直な感覚だと思うのです。