2017年振り返り

毎年振り返りしようと思うのだが、筆不精なもので、毎年できずに年を越してしまう。
2017年に関しては、色々な転機があり、2018年の飛躍を期して本エントリにつらつらまとめようと思う。

 

1. 家族
2018年の1月に新しく家族が増える予定です。
「何より家族が大切」というのは月並みな言葉だけれど、今年ほど家族という存在を意識した年はなかったと思う。
言うても2015年に結婚し、妻と一緒に暮らすようになって。自分ひとりではない状況になったことは間違いなくて。ただ、それ以上に妻が妊娠して、僕たち夫婦だけではコントロールできない「新しい生命」に対する配慮というのは、僕にとってむちゃくちゃ大きいことだったと実感しています。

そしてその配慮は妻にだけ向けられたものだけでなく、妻やお腹の中の子どもから自分にも向けられているものです。
毎日の暮らしの中で、基本的に心穏やかに過ごせているのは、間違いなく家族のおかげ。

だからこそ今は、
無事に新しい生命が生まれてくることを祈るだけ。
仕事にも全力を尽くしているつもりだけど、やっぱり頭の隅っこには、家族のことが良い意味で過ぎる日々なのです。

 

2. 仕事
2017年5月に2回目の転職をしました。
一言で転職理由のことを表現することはできない。
今年33歳になった僕が転職するのは、ポジティヴな理由もネガティヴな理由も同じくらいある。

ただやっぱり、「自分はもっとできるはず。やるべきだ」という思いは強かったと思う。
ちなみに今は、これまでずっと携わってきたマーケッターとしての役割でなく、ベンチャー企業の人事領域に100%コミットしています。「人事って何するの?」から「人事の立場から会社を強くしなやかにしたい」という気持ちに変わりました。これだけでも、新しい会社に移って良かったな/30代だけどまだ成長する余白があるんだなと思っています。

もう一つ。
前々職でお世話になった方が、「転職」をこんな風に表現していました。

転職する理由って3つしかない。現状に不満があるか、より良い条件の職場があるか、理想を求めるか。いずれかの理由があれば、きっと皆が転職を選ぶと思う。転職しないのは、いや、できないのはその選択肢がないだけ。俊輔の選択は正しい。悲しいけれど。

2017年冒頭。中村俊輔のジュビロ磐田移籍を指しながらFacebookに投稿したもの。
転職を決断した時期と重なっていたので、自分にとって指針・方針の参照になったのは間違いありません。

 

3. 小説
3年ぶりの小説を上梓しました。
『カメラトーク、セッション』という上下巻の作品は、この3年間で自分が経験したこと、現在の自分の持てる力を振り絞って書けたと思います(というと、ダサいけれど)。

と言っても、前回同様、フリーで小説を書くというスタンスは変わっていない。
無料で配信したにも関わらず、それほどダウンロード数が伸びなくて、「伝える」「認知してもらう」ことの難しさを痛感するわけで。2018年は小説家・堀聡太という人間の価値をリストラクチャする必要もあるかもしれない。

書きたいものは山ほどある。2018年も小説を書き続けたい。
だからこそ小説に関して、ブログやnoteなどでチラチラとエントリーしていこうと思う。

 

4. カルチャー
2016年から「1年間に100冊以上の本を読み、24回以上美術館に行く」と決めている。
2017年は147冊本を読み、28回美術館に行くことができた。

どれくらいの質だったのかはさておき、
インプットとして量はそれなりに大事だと思っているので、2018年も継続したい。
子どもが生まれることは承知しているが、なるべく妻と、定期的に映画館や美術館に行き、刺激を受けたいと思う次第だ。

個人的に良かったと思う作品をいくつか。

<本>
・スコット・バークン『マイクロソフトを辞めて、オフィスのない会社で働いてみた』
・村上春樹『騎士団長殺し』
・川上未映子『きみは赤ちゃん』
・新井和宏『投資は「きれいごと」で成功する』
・フィル・ナイト『SHOE DOG―靴にすべてを。』

<美術館>
山種美術館「日本画の教科書 東京編 ― 大観、春草から土牛、魁夷へ ―」
Bunkamuraミュージアム「これぞ暁斎!ゴールドマン・コレクション」
six factory「柳本浩市展“アーキヴィスト-柳本さんが残してくれたもの”」
・パナソニック汐留ミュージアム「AMBIENT 深澤直人がデザインする生活の周囲展」
・アルテピアッツア美唄「アルテピアッツァ美唄25周年「安田侃ブロンズ展―時をつなぐ」」

<映像作品>
・佐野亜裕美プロデューサー「カルテット(TBSドラマ)」
・キャメロン・クロウ監督「ザ・エージェント」
・デミアン・チャゼル監督「セッション」
・三島有紀子監督「ぶどうのなみだ」「しあわせのパン」
・ライアン・ジョンソン監督「スター・ウォーズ:エピソード8/最後のジェダイ」

<音楽>
SPARTA LOCALS「復活のファンファーレ」 in 恵比寿ザ・ガーデンホール
・FUJI ROCK FESTIVAL 2017(土曜日のみ)
・RAT BOY「SCUM」
・Cornelius「Mellow Waves」
・橋本絵莉子波多野裕文「橋本絵莉子波多野裕文」

音楽に関しては、もうApple Musicでザッピングしまくって整理がつかない状態。
!!!や8otto、サニーデイ・サービスの新譜も発売されたし、The Birthday「NOMAD」も相変わらず楽しく聴けた。STAnの西井鏡悟のソロ・プロジェクト「Blue」だって忘れちゃいけない。

新しさより、懐かしさが溢れているけれど、歳のせいでないと信じている。

 

5. できなかったこと
2017年はフルマラソンを1回だけ走ることができたが、ウルトラマラソンへの出走機会を得ることはできなかった。
正確に言うとエントリしていたのだが、転職してすぐだったこともあり、参加を見合わせたというのが正しいところだ。
練習も含めてトレイルを走ることも叶わなかった。

来年は6月に地元・栃木での100kmランを予定している。
サロマ湖に比べて厳しいコースと聞いているので、しっかりとトレーニングして挑みたい。

未来について。
予測できる未来より、予測できない未来の方が面白いかもしれない。
だからこそコツコツとそんな未来に向けてインプット&アウトプットすることが大事だと思うのです。

村上隆「村上隆の五百羅漢図展」に行ってきた

takashi murakami exhibition

takashi murakami exhibition

久しぶりのエントリ。
2月を飛び越えて3月になってしまったけれど、実感としてもそんなところ。
軽くでも良いので、ちょこちょこ更新していこう。

という意気込みの中で、ずっと行きたいと思っていた村上隆「村上隆の五百羅漢図展」(森美術館、六本木)に行くことができた。
現代アートなのか、サブカルチャー的なマンガなのか、文学というコンテクストなのか、巧妙な引用なのか、卑屈なパクリなのか判らないけれど、巨大で壮大な世界観の前に、ただただ呆然とする時間を過ごした。そこには善悪や好き嫌いなど、もはや基準値としてはどうでも良くて、村上隆にしか描けないオリジナリティを前に感心せざるをえなかった。

「株式市場とアート市場は同じ」という。
自身の作品が15,6億円という金で落札されただけあって、彼の発言には説得力がある。

「お客さんの期待を上回っていくために、開発費を投じて、作品を作っていかなくちゃいけない」
そんな旨の発言のVTRが流れていたけれど、たぶん、この「お客さん」というのはアート作品を純粋に楽しむ我々のような「庶民」ではないだろう。

かなり意図的にターゲットを外し、世の中の文脈を意識しながら、作品を作り続けていく。

これは私の感覚でしかないので、真偽のほどは定かではない(というか、真偽なんてどうでも良くて)。
その外し方に嫌悪に近い感情を抑えながらも、大胆にコンセプチュアルな作品を生み出す村上隆のクオリティに言葉を失う自分がいた。大竹伸朗とは明らかに違う。創作への純粋さは感じられなかった。

展示会はスマートフォンでの撮影が許可されていた。
パシャパシャというiPhoneの音がフロアに響いていたけれど、冷たさに似たナニカを感じた。
図録買わなかったけど、買うべきだったかなあと今更ながら思う。

読み返してみると、「あれ?この人、村上隆のことずいぶん嫌いなんだな」って思われるかもしれないけれど、それは本意ではないんです。自分の表現を借りるなら、善悪とか好き嫌いとか超えたところに村上隆というアーティストはいて、ぐいっと心根を掴んで、それで放置されて今に至る。ぐわっと書き殴ったけど、おそらく正直な感覚だと思うのです。

いとうせいこう『想像ラジオ』を読んだ

いとうせいこう『想像ラジオ』

いとうせいこう『想像ラジオ』

「話し言葉」
「会話中心」

時々、そういったフォーマットの小説を読むことがあるけれど、当たり外れが結構激しいので個人的にはあまり好みません。
あまりにリアリティを意識した「話し言葉」が綴られていると浅いと感じるし、一方で小説というフォーマットを意識したものだと流れが悪く会話として成立しない。

ラジオを聴いているからこそ、
ラジオというフォーマットが生きるわけで、
ラジオを小説にそのまま置き換えたとて、その瑞々しさがそっくり移行されるわけでは決してない。ということ。

特に、わりと日常的に「読書」に勤しんでいる人たち(村上春樹は全国民の5%くらいだと見積もっている)は、意識的・無意識的に関わらず小説というフォーマットにどっぷり浸かっている。
起承転結があり、地の文があり、適切な人称の形があり、常体と敬体があり、作家独自の文体があり、過去からの適切な引用があり、時代の不文律がある。ルールとか、マナーとか、そういった呼び方でも支障は無い。そんな中で、「話し言葉」「会話中心」の小説というのは奇を衒っている印象を持たれがちだし、前述のルールないしマナーにそぐわない側面が生じてしまう。

だから、

こんばんは。
あるいはおはよう。
もしくはこんにちは。
想像ラジオです。
こういうある種アイマイな挨拶から始まるのも、この番組は昼夜を問わずあなたの想像力の中でオンエアされるからで、月が銀色に渋く輝く夜にそのままゴールデンタイムの放送を聴いてもいいし、道路に雪が薄く積もった朝に起きて二日前の夜中の分に、まあそんなものがあればですけど耳を傾けることも出来るし、カンカン照りの昼日中に僕の爽やかな声を再放送したって全然問題ないからなんですよ。
でもまあ、まるで時間軸がないのもしゃべりにくいんで、一応こちらの時間で言いますと、こんばんは、ただ今草木も眠る深夜二時四十六分です。いやあ、寒い。凍えるほど寒い。ていうかもう凍えています。赤いヤッケひとつで、降ってくる雪をものともせずに。こんな夜更けに聴いてくれてる方々ありがとう。

といきなり導入されても、初回はついていけない。それも無理からぬことなんじゃないだろうか。

ただ、著者は話し言葉を武器に仕事をしている(□□□のメンバーだったり、タレントとしてテレビに出たり)だけあって、読み進めているうちに、徐々にラジオを聴いているかのような錯覚に陥るから不思議だ。本書がベストセラーになるのも理解できる(裏表紙に「ベストセラーとなった」と書いてあるので、しっかり売れたのだろうと推察している)。
これだけ書くとあまりに乱暴なので具体例を一つ挙げると、主人公のDJアークの人柄や声色を想像し、何となく読者の耳元で展開されているような気分を味わえるということだ。
多かれ少なかれ、良い小説というのは、登場人物に感情移入してしまうものだし、自分が原作を映像化するときの妄想さえ勝手にしてしまうものではないかと僕は考えている。だからこそ実際に映像化されたときに、愛読者は不平不満を漏らしてしまうのではないだろうか、その思い入れの強さから。

僕はこの小説を映像化するときの妄想はしなかったけれど、DJアークの声をけっこう具体的に想像した(妻もこの小説を2年前に読んでいたけれど、面白いくらいに僕の印象とは異なっていた)。彼が章を経るごとに「弱く」あるいは「潔く」なっていく様子も、彼と同じレベルで気持ちを寄せることができたように思う。東日本大震災という重いテーマを、軽やかかつ誠実に描けるいとうせいこうの筆力は、世間で評価されているよりもずっと高いように僕は感じた。

なかなか作家間では辛口な評価もあるみたいです。
僕は、近々もう1度読みたいなと感じましたけどね。
想像の中で。

想ー像ーラジオー。

***

なお、そのときApple Musicで聴いていたThe Whitest Boy Aliveの「Rules」という2009年の作品が個人的にすごく好みだったのでご紹介しますね。
この時代のバンドって、現時点で解散しているのが殆どで、彼らも残念ながら例に漏れずといったところですが。。。

今野真二『盗作の言語学』を読んだ

盗作の言語学

盗作の言語学

Facebookを見ていたときだろうか。
友人が子どもの写真を載せていて、友人の友人が「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」とコメントをしていた。ゴーヤの成長の早さを引き合いに出して、友人の子どもの成長の速さに驚きいや嬉しさの気持ちを伝えようとしたのだろう。友人もその気持ちを受けて「ありがとう〜」と返事をしていた。ささやかだけど、旧友を温める価値のあるコミュニケーションを認めただろう。僕以外の多くの人は。

というのも、僕はその喩えを知っていたのだ。
2014年、年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIにて、博多華丸・大吉の博多華丸(川平慈英のモノマネをする方)が「ボケ」の1つとしてこの言葉を使っていたのだった。年末のゴールデン番組、お笑い好きとしてリアルタイムでそのネタを見て、僕は文字通り爆笑してしまっていた。若手漫才師が自身の面白さを前のめりでPRするのと裏腹に、肩の力が抜けたベテランの二人の掛け合いは安定していて、会場やお茶の間の笑いを総取りしたと思う。パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワーに続くチャンピオンとして相応しいネタだったと僕は思っている。

話が脱線した(僕は良く脱線してしまう)。

友人の友人はたぶんそのネタを知っていたし、友人やそれ以外の人たちが目にする場所でそれを拝借したとて悪気は全く無かったと思うし、というか友人からそれを指摘されれば、それを新しい会話の糸口として盛り上がれるだろう。そこまで意図したかは判らないけれど、何が旧友同士のコミュニケーションとして一番盛り上がるかを考えたときに、その引用がチョイスされたわけだ。なかなかクレバーな人だと僕は感心してしまう。それを友人が知らなかったからとて、前述した通り正の感情を共有できるのだ。2015年にしてリスクゼロのコミュニケーションというわけである。

だが、時と場所が違ったとして。
2015年の年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIで、あるコンビが「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」と言ったらどうだろうか。彼らの使い方にもよるかもしれないが、「昨年の博多華丸・大吉のパクリだ」と糾弾される可能性が高いのではないか。彼らが前年のチャンピオンのネタを下敷きにして、コミュニケーションの厚みを持たせようと意図したとしても、ひとたび「パクリ」と認識されたとしたら先は無いだろう。

一方で、そのコンビが「犬も歩けば棒に当たる」と言ったら、どうだろうか。
彼らが生み出した「たとえ」では無い。先人が古くに高度な比喩として生み出し、以降、数限りない人たちにパクられ続けてきた(国語の教科書にも載ってる!)。同じ文字情報なのに、何故後者の場合、パクリと見做されないのだろうか。

***

前職でお世話になった方がFacebookで紹介していた『盗作の言語学』。2015年5月と比較的新しい新書が、その考え方を論理立てて説明してくれている。事例ベースで考察がまとめられているが、どれもとても興味深い。クリエイティヴに関わる人はもちろん、文化を愛する全ての人たちにとっても一読の価値がある。

著者の今野真二(日本語学を専攻とする大学教授)は、「おわりに」で、自身が本書を書いたきっかけについて語っている。

2014年5月6日の『朝日新聞』朝刊に「盗作の考現学」「蔓延するパクリツイート・コピペ論文・・・」という見出しの記事が掲載された。稿者はツイッターを利用していないので、「パクリツイート(パクツイ)」という表現自体が初めて目にするものであったし、どのようなことなのかも記事を読んで初めてわかった。

職業柄、学生のレポートなどに触れる機会が筆者は多いのだろう。
もともと頭の片隅にあった問題意識を、言語学という観点から本にまとめてみた、ということだろうか。

折しも東京オリンピックのエンブレム問題(そのことはブログでも、やや直情的に書いた。http://buncul.com/2015/07/31/word_idontlike/)が話題になっている昨今、この本の考察の役割は極めて大きい。

なお、本書は著者も「序章」でことわっている通り、本書で扱う「盗作」を言語による作品に限定されている。
だから、エンブレムなどのデザイン、音楽、アート、ゲームや映像などのエンターテインメント作品については著者の考察は述べられていない。だけど、僕たちが「盗作」について考えるfoundationには十分すぎるほどの役割を担っていただいている。

露を帯びさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 原歌
露を帯びてさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 添削歌
(中略)多くの人には、右の原歌と添削歌との表現の違い、そして「善し悪し」は判定できないかもしれない。つまりほとんど「同じ」ものとみえる可能性が高い。しかし、白秋の眼にはまったく異なるものとしてみえていることになる。
本書においては、「同じ/異なる」をまずは明白なレベルでとらえるために、語が同じということを基準としているが、語のあるまとまりによって「表現」が構成されると考えると、右の例のように、助詞「テ」があるかないかという違いしかなくても、「表現」としてはまったく異なるという「判断」もあり得ることになる。

これは北原白秋が自身のプロジェクト(編纂物)での「添削作品」だ。
原歌と添削歌を比べると、「露を帯び」「露を帯びて」というところの違いのみだ。
だけど、北原白秋はこれらの作品は全く別物だと評する。では仮に、原歌を見たことのある表現者が、添削歌のように体裁を整えて(というのも語弊があるかもしれない)発表したとすると、それは「盗作」なのかどうか。僕には判らないし、判る人の見解が「正しい」と必ずしも言えないのではないかと思う。

僕はInstagramでこんな風に述べた。

休日出勤だん。会社のデカいプロジェクトが終了(僕は殆どヘルプだけ)。と言いつつ、今日は1日立ちっぱなしだったのでコーヒーで一服。 最近話題の、あのテーマ。「パクる」って教育の議論みたいなもんで、誰もが知ってる・経験していることだから議論に参加しやすい。ただの空中戦になりがちなので僕なりに考えを深めてみようと。この本を知ったのは、前の会社の偉い人のFacebook。知りたい情報は、いろんな経路で入ってくるね。

FacebookかTwitterか判らないけれど、誰かが呟いていた。
「問題を切り分けて考えないと、また同じことが起こる」
本当にその通りだと思う。だけど「切り分ける」だけでは盗作についての理解は深まらない。
クリティカルシンキング(ロジカルシンキング)で物事を考えたって、至る結論は「自分」という枠を超えるものではない。だからこそ、本書の役割は大きいのだ。判ってもらえるだろうか。

後半には「本歌取り」「パロディ」などについての言及もある。
本歌取りは、

ここで「本歌取り」について少し整理しておこう。『集英社国語辞典』第三版は「ホンカドリ」について「和歌や連歌の修辞の一つ。先人の歌の一部を詠み込むことによって二層構造の複雑な趣をかもしだす表現技法」と説明している。
(中略)先例がある表現をとりこむことによって、複雑な構造の表現をつくることが可能になっているといえようし、先例がある表現は、どのような意味であるかということが共有されているといえよう。現代では「オリジナリティー」ということが重要視される。しかし、誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。そうすると、焦点の定まらないまったく新しい表現よりも、すでに共有されている表現をベースにして、そこから新しい表現をつくりだしたほうが「読み手」に理解されやすいということはあるだろう。ただし、この場合はベースにする表現が多くの人に「共有されている」ということが前提になる。言語生活において「和歌をつくること」が重要な位置を占めている場合には、「本歌取り」は昨日する。『古今和歌集』の歌を熟知していることが『新古今和歌集』を理解することの前提となる。

というふうに書かれている。

前提として誰もが「知っている」ことが大事で、それがfoundationとなって『新古今和歌集』が成立するということだろう。今の時代に、同様のパターンで成立するものが幾つあるだろうか。この価値観が多様化した世の中で。『古今和歌集』『新古今和歌集』両方とも、知識人のための戯れだったとも言える。セグメントで棲み分けができていたのだ。

文学や詩歌だけが知識人の戯れで無くなり、
そもそも知識人という括りで「人間」を語れなくなった21世紀。
気付けるか否か、ではなく、Google検索に引っ掛かるか否か。成否の基準も変わってしまった。

***

佐野氏のエンブレムは使用中止に追い込まれた。
もう2ヶ月も経てば、このことは一般の人からの記憶からは跡形もなく消えてしまうだろう。
だけど、クリエイティヴに関わる人たちの記憶からは消えないし、致命的なダメージとして残り続けることだろう。華やかな実績を残してきた佐野氏が、必要以上に責めに苦しまないことを僕は祈りたい。

と同時に、もっと文化的な背景について学ぶ努力もしていきたいと思う。
ちゃんと自分の言葉で語れるように。そしてそれを、いつかアウトプットできるように。

とは言え、たぶん、僕のスタンスは変わらないだろう。
僕は、僕のためにも、新しい作品を生み出せるようにするだけだから。

今日から英語の勉強を始めます

7つの習慣(英語版)

7つの習慣(英語版)

今日から英語の勉強を始めます。
今日は5分だけ本を読みました。
『7つの習慣』の英語版。
英語でも読んでみたくて、数年前に買って放置していたものです。

昇進に必要だから、
今の仕事で使うから、
転職に有利だから、

とか、そういう短期的な必要性やビジョンを見据えてのことではありません。
詳しくはTwitterで色々呟いてみましたのでご参照ください。

ポリシーを4つ定めました。

・頑張り過ぎない
・効果的に
・学習の記録を取る
・続けるために発信する

本ブログでも「言語」という項目を立てました。やる気はあります。

ただし語学というのは、一般的に熱しやすく冷めやすいものです。
日本なので、使う機会が少ないのでなかなか身に入らない。だからこそ、頑張り過ぎずに続ける仕組みを作ることが大事だと思っています。
その仕組みの1つが、「英語やってるよ!」と公言すること。一人で黙々と、それほど好きでもないことを続けるのは結構難しい。「英語やってるよ!」と言いふらすことで、止めづらくなるし、むしろ言うことが快感になるくらい、ブログ、Twitter、Instagramなどに投稿していこうかなと思っています。

2、3年後の未来のための先行投資。
何を投資するかって?「時間」です。