ビクターロック祭り2017に行ってきた:竹原ピストルが物凄かった

妻の友人に誘われ、今年もビクターロック祭りに行ってきた。
ビクターに所属するアーティストが集い、幕張メッセを貸し切って行なわれるこのイベント。
さしづめビクターの品評会という位置付けなのかもしれないが、アーティストの演奏は所属会社への誠意が込められていて、とても盛り上がる良いイベントだと思っている。

やや体調不良もあって、Dragon Ash(15:30〜)から会場に足を運んだ。
観たアーティストは、

・Dragon Ash…2曲だけ
・KREVA…1曲だけ
・never young beach…フルで観た
・レキシ…ほぼフルで観た
・竹原ピストル…フルで観た
・サカナクション…フルで観た

という感じ。夜の本気ダンス、ADAM atも観たかったが、今回は見送った。

さて、それぞれのレビューを書いてしまうと無尽蔵な長さになってしまう。
なので本エントリでは、物凄かった竹原ピストルのことを書こう。
住友生命のTVCMの影響で「よー、そこの若いの」が広く聴かれることになったが、もともとは野狐禅というバンドを組んでおり、HEY!HEY!HEY!やトップランナーにも出演していたことがある(野狐禅は2009年に解散してしまったようだ)。

アコースティックギターによる弾き語り。
歌を歌い、歌唱の最後に曲名を言い、時々少しだけ喋る。
派手な照明など演出があるわけでもない。たった独りだけステージに立つ。至ってシンプルだ。
(ヘッドライナーのサカナクションとは真逆と言っていい)

なのに、あるいは、だからこそ。
彼の土臭い歌唱とシンプルな言葉は、僕の胸を何度も打った。

君だけの汗のかき方で、君だけの汗をかいたらいいさ(よー、そこの若いの」)
薬づけでも生きろ(「LIVE IN 和歌山」)
あの頃の君にあって、今の君にないものなんてないさ(「Forever Young」)

「俺のアディダス〜人としての志〜」も良かった。とにかく素晴らしかった。

何を歌うか、ではなく、誰が歌うか。
竹原ピストルがこれまで経験してきたことが、30分という短い時間の中に凝縮されている。口角泡を飛ばすように激しく言葉を連ねるときもあれば、穏やかに強く歌い上げることもある。

乱暴な言い方をすれば、僕は彼が送ってきた人生とはまるで違っている。
若くしてメジャーデビューを経験するが、バンド解散後はインディーズで年間300本近くのライヴをこなしたそうだ(「それしか自身をプロモーションする手段がなかった」と彼はインタビューで語っている)。大変な紆余曲折だったと思う。苦難の時代と言ってもいいのではないだろうか。

そして最後は詩の朗読。「のろし」という自作の詩を読む。

アンダーグラウンドから狼煙をあげる
アンダーグラウンドから狼煙をあげる
アンダーグラウンドから狼煙をあげる
アンダーグラウンドから狼煙をあげる
アンダーグラウンドからのし上がる

この言葉を、堂々と言える竹原ピストルというアーティストの価値よ。
物凄い存在感の竹原ピストルは、レキシやサカナクションなどの派手でピースフルなステージとは対照的に、だけど圧倒的に観ていた人々の心を掴んだはずだ。心に、まるで楔のようなものを打ち付けたんだと思う。

ちなみに彼は、日本アカデミー賞で優秀助演賞を獲得した。
西川美和が監督を務める「永い言い訳」という作品だ。僕はまだ観ていないが、竹原ピストルという人間そのものに興味を持ったので、俳優としての姿も観てみたいと思う。すごい人間だ。敬意しかない。

『新しい音楽とことば』を読んだ

新しい音楽とことば

新しい音楽とことば

音楽を、言葉で説明するのは難しい。
「音楽を聴く者」としてだけ、31年間を過ごしてきた僕個人の実感である。

ライターの真似事をしたこともあるし、ブログにもCD評を書いているし、居酒屋で音楽仲間と音楽談義を楽しむこともあるけれど、本質を語っているつもりでも本質からまるで離れていると感じることがしばしばある。自己嫌悪とまではいかないが、正しく伝えられないことは気持ち良いことでは無い。とりわけ音楽の「作り手」という経験の無い僕が、音楽のことを正しく語ることはたぶん不可能なのだ。きっと。

もちろん個人の自己治癒(自己満足)に止めておけば問題は無い。そこに止まらず「この音楽は素晴らしい」「この音楽は時代を象徴している」という具合に個→多へ向けた瞬間、作為的なレッテル貼りに加担する一部になってしまう。音楽を聴くというのはどこまでも主観的な行為だから何ら悪くは無いのだけれど、音楽家の意図と反してしまう(ズレてしまう)ことは本意では無いし。この匙加減が難しい。

一方で音楽にとって、音楽そのものの補完的な役割を果たす目的として、言葉が重要なのは疑いないだろう。
難しいことだと判っているのに、そういった作為が世の中でまかり通っているのは、音楽家の思いとは裏腹に「言葉」を通してでないと「音楽」をre-presentすることが出来ないからだ。
まだライヴ経験を経たことの無いバンドが世の中に認知されるには、当然客を前にしたライヴという行為が重要になる(ニコニコ動画など、インターネットメディアで注目を集めることもあるが、それは脇に置いておこう)。ただし多くの新人バンドが最初に立つステージは、キャパシティが100人に達するかどうかの狭いライヴハウスのはずだ。幸運に注目を集めたとて、一気に世間に対してブーストできるかは、客やオーガナイザーなどの「言葉」に頼らざるを得ないだろう。「あいつら、素晴らしい」みたいな賞賛を出来る限り拡散していかなければならない。恥ずかしがっている場合では無いのだ。

言葉は音楽そのものの補完的な役割を担っているが、その主要素はプロモーションだけでは無い。
本書『新しい音楽とことば』のメイントピックでもある、「歌詞」だ。むしろ「歌詞」は作り手自身によって構築されるので、これを有効に使わない手は無い。
本書で編者を務めている磯部涼は「はじめに」で以下のように語っている。

もちろん、人々がまず耳を傾けるのは「歌」、そのものである。しかし、歌詞やメロディやサウンドが絡み合った歌という芸術の中でも、歌詞という要素は妙に偏愛されているように思えてならないのだ。それはおそらく、「歌詞」が、一見、誰にでも理解しやすいような感覚を与えるからだろう。たとえば、メロディやアレンジに関しては、音楽的な言葉を持たない人は、それをなぜ「良い」と思ったのか、あるいは、「良くない」と思ったのか、ぼんやりとした印象をもってしか表現することができない。しかし、歌詞、それも特に日本語の歌詞に関しては、私たちが普段使っている言葉でつくられているため、もう少し突っ込んで表現することができる。歌を受動的に消費するだけでなく、歌から受け取ったものを能動的に表現したいと考えたとき、歌詞がまずは取っかかりになる。そう、歌詞はわかりやすいのだ。

もちろん、音楽を言葉で説明するのが難しいのと同じレベルで、「歌詞」について正しく説明することは容易では無い。
生半可にライターの真似事をして語ろうとすれば返り討ちに遭うだろう。怪我が怖ければ止めておいた方が無難だ。
無自覚な人々がTwitterなどのSNSで音楽家を褒め讃える一方で、実に様々な人々が(結果的に、あるいは意図的に)足を引っ張ることもまた多いのだ。

しかし本書が素晴らしいのは、プロフェッショナルのライター陣が意欲を持って音楽の言語化にトライしていることだ。
そしてアーティストの思いに寄り添えるだけの「語彙」「知識」を持ち合わせていることだろう。有機的に音楽と言葉が結合し、意味(無意味)を成そうと努めていることが判る。

ライター陣は磯部涼、飯田一史、柴那典、北沢夏音、竹内正太郎、さわやか、中矢俊一郎の7名だ。
(別にこの文脈でライター陣の名前を列挙する必然性は無い。だけど彼らの挑戦を讃えて列挙したい。Amazonやレビューサイトでは編者の磯部涼の名前はあったけれど、他の諸氏の名前は記載されていないのが殆どだった)

僕の感想は至ってシンプル。
13人の音楽家は歌詞に対して独自かつ強いこだわりを持ち、またそれぞれの成功体験を得た人たちだった。その見解を読み解ける貴重な読み物として本書は有効だと感じた。

石野卓球は「いかに意味のないことを書くか」に注力し、
菊地成孔は「批判性を持った歌詞づくり」にこだわり、
じんは「マルチメディアを想定した全体のうちの1つ」として歌詞を捉え、
やくしまるえつこは「どんな解釈も受け入れ」る。
七尾旅人は「試行錯誤し自身が成長する」ための1つの要素になっていて、
三浦康嗣は「ただそこにあるもの」「リスナーのもの」というスタンスを堅持し、
若旦那(湘南乃風)は歌詞で「売れる」ことを疑わなかった。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONのフロントマン、後藤正文は以下のように語る。

自分の場合はもともとサウンド寄りの歌詞づくりをしているから、ちゃんと気にしてもらわないと意味がわからないように書いているんです。それが良いことか悪いことかはわからないけど、一歩でも能動的な気持ちが聴き手にないとコミュニケーションが成立しないような書き方をあえてしています。もちろん、その加減はむずかしいんですけどね。他のジャンルを見渡すと、やっぱりラップなんかは歌詞でコミュニケーションが成立するように送り手も聴き手も訓練されている気がするけど、それに比べると自分のやってる音楽には言葉としての弱さがある気はしている。意味以前に、サウンドの一部として言葉を書いている側面がまずは強いかなと。
(中略)歌詞カードを嫌う人もいるじゃないですか。特にサウンド指向の人ってそういう傾向があると思うんですよ。(中略)日本の英語詞のバンドがものすごく丁寧な訳詞をつけたりすることなんです。そういうのを見ると「言葉が異様に大事にされている」とは思うかな。「言葉」が大事というより、みんながその「意味」とかを大事にしすぎている気がするんですよ。無意味なものを怖がっているというか。もう少し歌うべき言葉、テーマっていろいろあるはずなのにもかかわらず、使われれている言葉の種類がそこに追いついてないというか。「なんでもないことを歌う曲」がなかなかない一方で、「共感」という言葉に集約されていくような。誰かの私小説に自分のフィーリングが一致するかしないかを計るような感覚だけで言葉が選ばれているような気がする。それだけになっていくのはどうなんだろうという気持ちがあるから、そこはもう少し幅広いほうがいいと思う。(中略)すべてものものに意味がなくちゃいけないというのはちょっと怖いなと思います。

音楽と歌詞。
1つの楽曲、1つのアルバム、1人のアーティストの楽曲群(ディスコグラフィ)、1時代として形成された楽曲群。マルチメディアのうちの1つとしての楽曲。
視点によって、歌詞の読まれ方は全然変わってくる。
何かのドラマの主題歌に起用された楽曲は、ドラマを観ていたリスナーにとって特別な物語が付与される。月9ドラマの金字塔「ロングバケーション」で採用された「LA・LA・LA LOVE SONG」を聴くと、木村拓哉と山口智子の恋物語が脳内に情景として浮かぶことだろう。久保田利伸の熱唱具合を連想する人は、稀だ。

このように音楽と歌詞単独だけで無く、様々な文脈から物語として楽曲の価値が高まることも一興だろう。
多くの音楽家たちは、単独で物語性を高めていかなければならない。それはリスクを伴うこともあるし、そもそも純粋に音楽を楽しんでほしいと願う音楽家にとっては無関係な必然性に思われるかもしれない。

だけど、物語性の成立が音楽家のみに許されることでは無いことは自覚的であっても良いはずだ。
誰に?もちろん、一人ひとりのリスナーが、独自の物語を紡ぐのだ。物語という言葉が嫌ならば、意味でも価値でも構わない。
それが広く伝播していくと、いわゆる「名曲」と呼ばれたりもする。下世話な言い方をすれば、「売れる」ということ。

話が脱線しそうだ(僕は良く脱線してしまう)。
僕が思うに、音楽と歌詞の関係性というのは、あくまで原点に過ぎないのかもしれない。
基本的な関係性。あるいは関係性を表出させるための出発点としてのマテリアル。

その関係性を僕はこれからも大切にしていきたい。
そのポイントを見定めて「優れている」か否かの判断も重要だと思うからだ。
そのポイントが軽視されてはいないだろうか。ミュージックステーションの30周年の特番を観ていると、そんな風に感じられなくも無い。

純粋に、音楽が好きな一人のリスナーとして、これからも素晴らしい音楽に出会いたいと思う。

余談だが、今聴いているのはBattlesの新作「La Di Da Di」。
インストゥルメンタルで音と音との組み合わせが、洪水のように脳内に溢れていく。リズムが、読めない。
なのにアルバムを聴き終わると、何だか自分が再編されたかのような錯覚に陥る。

ああ、僕は音楽が大好きだ!

今野真二『盗作の言語学』を読んだ

盗作の言語学

盗作の言語学

Facebookを見ていたときだろうか。
友人が子どもの写真を載せていて、友人の友人が「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」とコメントをしていた。ゴーヤの成長の早さを引き合いに出して、友人の子どもの成長の速さに驚きいや嬉しさの気持ちを伝えようとしたのだろう。友人もその気持ちを受けて「ありがとう〜」と返事をしていた。ささやかだけど、旧友を温める価値のあるコミュニケーションを認めただろう。僕以外の多くの人は。

というのも、僕はその喩えを知っていたのだ。
2014年、年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIにて、博多華丸・大吉の博多華丸(川平慈英のモノマネをする方)が「ボケ」の1つとしてこの言葉を使っていたのだった。年末のゴールデン番組、お笑い好きとしてリアルタイムでそのネタを見て、僕は文字通り爆笑してしまっていた。若手漫才師が自身の面白さを前のめりでPRするのと裏腹に、肩の力が抜けたベテランの二人の掛け合いは安定していて、会場やお茶の間の笑いを総取りしたと思う。パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワーに続くチャンピオンとして相応しいネタだったと僕は思っている。

話が脱線した(僕は良く脱線してしまう)。

友人の友人はたぶんそのネタを知っていたし、友人やそれ以外の人たちが目にする場所でそれを拝借したとて悪気は全く無かったと思うし、というか友人からそれを指摘されれば、それを新しい会話の糸口として盛り上がれるだろう。そこまで意図したかは判らないけれど、何が旧友同士のコミュニケーションとして一番盛り上がるかを考えたときに、その引用がチョイスされたわけだ。なかなかクレバーな人だと僕は感心してしまう。それを友人が知らなかったからとて、前述した通り正の感情を共有できるのだ。2015年にしてリスクゼロのコミュニケーションというわけである。

だが、時と場所が違ったとして。
2015年の年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIで、あるコンビが「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」と言ったらどうだろうか。彼らの使い方にもよるかもしれないが、「昨年の博多華丸・大吉のパクリだ」と糾弾される可能性が高いのではないか。彼らが前年のチャンピオンのネタを下敷きにして、コミュニケーションの厚みを持たせようと意図したとしても、ひとたび「パクリ」と認識されたとしたら先は無いだろう。

一方で、そのコンビが「犬も歩けば棒に当たる」と言ったら、どうだろうか。
彼らが生み出した「たとえ」では無い。先人が古くに高度な比喩として生み出し、以降、数限りない人たちにパクられ続けてきた(国語の教科書にも載ってる!)。同じ文字情報なのに、何故後者の場合、パクリと見做されないのだろうか。

***

前職でお世話になった方がFacebookで紹介していた『盗作の言語学』。2015年5月と比較的新しい新書が、その考え方を論理立てて説明してくれている。事例ベースで考察がまとめられているが、どれもとても興味深い。クリエイティヴに関わる人はもちろん、文化を愛する全ての人たちにとっても一読の価値がある。

著者の今野真二(日本語学を専攻とする大学教授)は、「おわりに」で、自身が本書を書いたきっかけについて語っている。

2014年5月6日の『朝日新聞』朝刊に「盗作の考現学」「蔓延するパクリツイート・コピペ論文・・・」という見出しの記事が掲載された。稿者はツイッターを利用していないので、「パクリツイート(パクツイ)」という表現自体が初めて目にするものであったし、どのようなことなのかも記事を読んで初めてわかった。

職業柄、学生のレポートなどに触れる機会が筆者は多いのだろう。
もともと頭の片隅にあった問題意識を、言語学という観点から本にまとめてみた、ということだろうか。

折しも東京オリンピックのエンブレム問題(そのことはブログでも、やや直情的に書いた。http://buncul.com/2015/07/31/word_idontlike/)が話題になっている昨今、この本の考察の役割は極めて大きい。

なお、本書は著者も「序章」でことわっている通り、本書で扱う「盗作」を言語による作品に限定されている。
だから、エンブレムなどのデザイン、音楽、アート、ゲームや映像などのエンターテインメント作品については著者の考察は述べられていない。だけど、僕たちが「盗作」について考えるfoundationには十分すぎるほどの役割を担っていただいている。

露を帯びさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 原歌
露を帯びてさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 添削歌
(中略)多くの人には、右の原歌と添削歌との表現の違い、そして「善し悪し」は判定できないかもしれない。つまりほとんど「同じ」ものとみえる可能性が高い。しかし、白秋の眼にはまったく異なるものとしてみえていることになる。
本書においては、「同じ/異なる」をまずは明白なレベルでとらえるために、語が同じということを基準としているが、語のあるまとまりによって「表現」が構成されると考えると、右の例のように、助詞「テ」があるかないかという違いしかなくても、「表現」としてはまったく異なるという「判断」もあり得ることになる。

これは北原白秋が自身のプロジェクト(編纂物)での「添削作品」だ。
原歌と添削歌を比べると、「露を帯び」「露を帯びて」というところの違いのみだ。
だけど、北原白秋はこれらの作品は全く別物だと評する。では仮に、原歌を見たことのある表現者が、添削歌のように体裁を整えて(というのも語弊があるかもしれない)発表したとすると、それは「盗作」なのかどうか。僕には判らないし、判る人の見解が「正しい」と必ずしも言えないのではないかと思う。

僕はInstagramでこんな風に述べた。

FacebookかTwitterか判らないけれど、誰かが呟いていた。
「問題を切り分けて考えないと、また同じことが起こる」
本当にその通りだと思う。だけど「切り分ける」だけでは盗作についての理解は深まらない。
クリティカルシンキング(ロジカルシンキング)で物事を考えたって、至る結論は「自分」という枠を超えるものではない。だからこそ、本書の役割は大きいのだ。判ってもらえるだろうか。

後半には「本歌取り」「パロディ」などについての言及もある。
本歌取りは、

ここで「本歌取り」について少し整理しておこう。『集英社国語辞典』第三版は「ホンカドリ」について「和歌や連歌の修辞の一つ。先人の歌の一部を詠み込むことによって二層構造の複雑な趣をかもしだす表現技法」と説明している。
(中略)先例がある表現をとりこむことによって、複雑な構造の表現をつくることが可能になっているといえようし、先例がある表現は、どのような意味であるかということが共有されているといえよう。現代では「オリジナリティー」ということが重要視される。しかし、誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。そうすると、焦点の定まらないまったく新しい表現よりも、すでに共有されている表現をベースにして、そこから新しい表現をつくりだしたほうが「読み手」に理解されやすいということはあるだろう。ただし、この場合はベースにする表現が多くの人に「共有されている」ということが前提になる。言語生活において「和歌をつくること」が重要な位置を占めている場合には、「本歌取り」は昨日する。『古今和歌集』の歌を熟知していることが『新古今和歌集』を理解することの前提となる。

というふうに書かれている。

前提として誰もが「知っている」ことが大事で、それがfoundationとなって『新古今和歌集』が成立するということだろう。今の時代に、同様のパターンで成立するものが幾つあるだろうか。この価値観が多様化した世の中で。『古今和歌集』『新古今和歌集』両方とも、知識人のための戯れだったとも言える。セグメントで棲み分けができていたのだ。

文学や詩歌だけが知識人の戯れで無くなり、
そもそも知識人という括りで「人間」を語れなくなった21世紀。
気付けるか否か、ではなく、Google検索に引っ掛かるか否か。成否の基準も変わってしまった。

***

佐野氏のエンブレムは使用中止に追い込まれた。
もう2ヶ月も経てば、このことは一般の人からの記憶からは跡形もなく消えてしまうだろう。
だけど、クリエイティヴに関わる人たちの記憶からは消えないし、致命的なダメージとして残り続けることだろう。華やかな実績を残してきた佐野氏が、必要以上に責めに苦しまないことを僕は祈りたい。

と同時に、もっと文化的な背景について学ぶ努力もしていきたいと思う。
ちゃんと自分の言葉で語れるように。そしてそれを、いつかアウトプットできるように。

とは言え、たぶん、僕のスタンスは変わらないだろう。
僕は、僕のためにも、新しい作品を生み出せるようにするだけだから。

The Libertinesの狂気を求めて

the-libertines-album-cover

朝5時に起きて、新幹線に飛び乗り、暴風域の関西で20時半までみっちり仕事をして(その間、宝塚線の運休により30分駅でタクシー待ちぼうけ)、新幹線で帰京する。家に着くのは24時前後。Boseのノイズキャンセリングイヤホンをしているから、新幹線の轟音は気にならない。だが行きの新幹線と違い、車内に充満したアルコールの臭いには辟易する
どうでも良い話だけど、僕は出張のとき、移動中にビールを飲まない。先輩社員に勧められればそのポリシーはあっさり覆すけれど、一人でいるときにはまず飲まない。そう決めている。
本質的には、新幹線で他人がビールを飲んだって構わないのだ。僕だってプライベートのときには構わず飲む。350ml缶をを2本は持ち込む(プレモルとサッポロビールだ)。行きも帰りも飲む。でも出張のときには飲まない。だからこそ辟易できるわけであり、そんなとき少なからず狂気が芽生える。

狂気、狂うこと。
あまりこの言葉に良いイメージは持たれないだろう。
自分の娘に「狂子」という名前をつけないのが、その証左でもある。僕だって、そんな名前をつけるんだったらキラキラネームをつける。(今鹿[なうしか]とかね)

僕は狂気という言葉の、すぐ隣に青春を位置づけてしまう。
青春。何て青い響きだろう。サカナクションの「Aoi」が聴こえてきそうだ。
でも僕は、青春が狂気とマッチしたとき、サカナクションでもカナブーンでもなく、The LibertinesというUKのロックンロール・バンドを連想する。「リバティーンズ宣言」というすこぶるダサい邦題を課せられた「Up The Bracket」というアルバムを。あるいはバンド名をタイトルにした「The Libertines」というアルバムを。20代前半の僕の青春総てが含まれていると言っても過言では無い。

僕にとって青春とは、福士蒼汰と本田翼の月9ドラマのように、キラキラと輝くものでは無い。
何だか理由も判らずイライラして、先輩に反発し、論破されると彼(あるいは彼女)のいないところで酒を浴びるほど飲んで愚痴るような、そんな鈍く鬱屈した時代がそうだ。僕が詩を書いていたのもその時代で、「死」や「痛み」、「裏切り」などをモチーフとして多用した。もちろん詩を書いているなんて誰にも言えなかった。文字の集積からキリキリとした疼きを感じさせる。人前で披露するだに憚られるほどの負のオーラを纏ったメロディ。今も昔も、ザラザラとした雑音と共に脳内を廻る。

今は、僕にとって青春では無い。
その時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
30歳を過ぎ、日々の仕事に忙殺され少しずつ責務の大きさに押されながらも、わりかしクールに日々を送っている。熱くなり過ぎず、正面からぶつかり過ぎないこと。パートナーにも恵まれ、僕はかなり自己肯定できるくらい満足度の高い生活を送っている。はっきり言って、喜ばしいことだ。

でも時々僕は、空白を埋めるべく、あるいは空白を作るべくThe Libertinesの音楽を聴く。
狂気という世界に閉じ込められた王様、フロントマンであるピート・ドハーティの狂気を身体に染み込ませる。
UKロックが好きな人ならば、彼の音楽の素晴らしさを知るだろう。薬物依存でズタボロになったとしても、2〜3分のトラックはグルーヴィでメロディに優れ、そして遊び心に富んだ仕掛けが仕込まれているのに驚き、そして愛する。死んだ魚のような眼で、いかにも「俺は絶望してる」という歌を、歌う。全然呂律が回っていない。そこが、味と言えば味だ。しかも韻の踏み方が格好良いんだよね。

I lived my dream today.
And I have lived it yesterday.
And I’ll have lived it tomorrow.
Ah, don’t lookat me that way.

「The Man Who Would Be King」

薬物依存の彼が、夢を生き続けることを歌う。
僕は基本的に歌そのものを聴きたいと思うので、アーティストのパーソナルな事情はなるべく切り離したいと思っている。だが、もう僕は彼の事情を知ってしまっている。狂気の海にどっぷり浸かっていることを知ってしまっている。
4つの文が意味するものを、意図せず拡大解釈しがちだ。
最初の3文は、まるで子どもが純粋に信じていることじゃないか。
俺のことそんな眼で見るな、と言ってひっくり返すピート・ドハーティ。

と、ここまで書いていて、特に2枚目のアルバムはもう一人のフロントマンであるカール・バラーが作っていたことを思い出した。彼もピートに負けず劣らず狂っていると思う。その方向性が違うだけで。
最も、僕はカールに対して狂気ではなく、「不思議なやつだ」という感覚を抱いてしまう。
というのもピートはThe Libertines解散後もBabyshamblesだったり、ピート・ドハーティ名義で素晴らしい楽曲を生み続けているのに対し、カールはDirty Pretty Thingsという「それほどユニークでは無い(あまり目立たない)」バンドを3年間続けたに過ぎない。それはThe Libertinesの域から抜け出せない、そこそこに優秀な音楽に留まった。

少し脱線した。
結論を急ごう。

言いたいのは、結局次のことだけだ。

村上春樹は空白を得るために走ると書いていた。
僕は狂気を得るためにThe Libertinesを聴く。

なぜ狂気を得る必要があるのか。
それは活動する上でのエネルギー源になりうるからだ。理性や理屈や論理を超えたもの。何か為すためには、たぶん狂うほどのエネルギーが必要なのだ。
リターンを期待するだけで何かに夢中になることはできない。
「何かを為す」。日々、満足度の高い生活を送っていると現状維持が目的になる。何かを変えるための労力が惜しくなる。変えることが悪にさえなる。

「王になるはずだったのに」
1800年代の引用もまた滑稽なほどに正直で、大人が妄想するには狂い過ぎている。だけど、その狂気を浴びたくなるのも確かだ。

そう考えると、「リバティーンズ宣言」という邦題もあながち悪くはないか。

参考:
http://kawasaki5600.blog64.fc2.com/blog-entry-286.html?sp

まだ夢は終わっていない

諦めない。
最後まで悪あがき。
諦めたら、そこで試合終了。
やり続ける。
止まっても、また歩き出す。

そんな曲に出会えた。オールディーズ・ミュージック。
熱い気持ちになれた。齢30にて。

「Don’t Dream It’s Over」Crowded House