今野真二『盗作の言語学』を読んだ

盗作の言語学

盗作の言語学

Facebookを見ていたときだろうか。
友人が子どもの写真を載せていて、友人の友人が「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」とコメントをしていた。ゴーヤの成長の早さを引き合いに出して、友人の子どもの成長の速さに驚きいや嬉しさの気持ちを伝えようとしたのだろう。友人もその気持ちを受けて「ありがとう〜」と返事をしていた。ささやかだけど、旧友を温める価値のあるコミュニケーションを認めただろう。僕以外の多くの人は。

というのも、僕はその喩えを知っていたのだ。
2014年、年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIにて、博多華丸・大吉の博多華丸(川平慈英のモノマネをする方)が「ボケ」の1つとしてこの言葉を使っていたのだった。年末のゴールデン番組、お笑い好きとしてリアルタイムでそのネタを見て、僕は文字通り爆笑してしまっていた。若手漫才師が自身の面白さを前のめりでPRするのと裏腹に、肩の力が抜けたベテランの二人の掛け合いは安定していて、会場やお茶の間の笑いを総取りしたと思う。パンクブーブー、ハマカーン、ウーマンラッシュアワーに続くチャンピオンとして相応しいネタだったと僕は思っている。

話が脱線した(僕は良く脱線してしまう)。

友人の友人はたぶんそのネタを知っていたし、友人やそれ以外の人たちが目にする場所でそれを拝借したとて悪気は全く無かったと思うし、というか友人からそれを指摘されれば、それを新しい会話の糸口として盛り上がれるだろう。そこまで意図したかは判らないけれど、何が旧友同士のコミュニケーションとして一番盛り上がるかを考えたときに、その引用がチョイスされたわけだ。なかなかクレバーな人だと僕は感心してしまう。それを友人が知らなかったからとて、前述した通り正の感情を共有できるのだ。2015年にしてリスクゼロのコミュニケーションというわけである。

だが、時と場所が違ったとして。
2015年の年間の漫才チャンピオンを決めるTHE MANZAIで、あるコンビが「よその子とゴーヤは育つのが早いねえ」と言ったらどうだろうか。彼らの使い方にもよるかもしれないが、「昨年の博多華丸・大吉のパクリだ」と糾弾される可能性が高いのではないか。彼らが前年のチャンピオンのネタを下敷きにして、コミュニケーションの厚みを持たせようと意図したとしても、ひとたび「パクリ」と認識されたとしたら先は無いだろう。

一方で、そのコンビが「犬も歩けば棒に当たる」と言ったら、どうだろうか。
彼らが生み出した「たとえ」では無い。先人が古くに高度な比喩として生み出し、以降、数限りない人たちにパクられ続けてきた(国語の教科書にも載ってる!)。同じ文字情報なのに、何故後者の場合、パクリと見做されないのだろうか。

***

前職でお世話になった方がFacebookで紹介していた『盗作の言語学』。2015年5月と比較的新しい新書が、その考え方を論理立てて説明してくれている。事例ベースで考察がまとめられているが、どれもとても興味深い。クリエイティヴに関わる人はもちろん、文化を愛する全ての人たちにとっても一読の価値がある。

著者の今野真二(日本語学を専攻とする大学教授)は、「おわりに」で、自身が本書を書いたきっかけについて語っている。

2014年5月6日の『朝日新聞』朝刊に「盗作の考現学」「蔓延するパクリツイート・コピペ論文・・・」という見出しの記事が掲載された。稿者はツイッターを利用していないので、「パクリツイート(パクツイ)」という表現自体が初めて目にするものであったし、どのようなことなのかも記事を読んで初めてわかった。

職業柄、学生のレポートなどに触れる機会が筆者は多いのだろう。
もともと頭の片隅にあった問題意識を、言語学という観点から本にまとめてみた、ということだろうか。

折しも東京オリンピックのエンブレム問題(そのことはブログでも、やや直情的に書いた。http://buncul.com/2015/07/31/word_idontlike/)が話題になっている昨今、この本の考察の役割は極めて大きい。

なお、本書は著者も「序章」でことわっている通り、本書で扱う「盗作」を言語による作品に限定されている。
だから、エンブレムなどのデザイン、音楽、アート、ゲームや映像などのエンターテインメント作品については著者の考察は述べられていない。だけど、僕たちが「盗作」について考えるfoundationには十分すぎるほどの役割を担っていただいている。

露を帯びさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 原歌
露を帯びてさろんにゆらぐ蘭の葉のひとつひとつのすがしき光 添削歌
(中略)多くの人には、右の原歌と添削歌との表現の違い、そして「善し悪し」は判定できないかもしれない。つまりほとんど「同じ」ものとみえる可能性が高い。しかし、白秋の眼にはまったく異なるものとしてみえていることになる。
本書においては、「同じ/異なる」をまずは明白なレベルでとらえるために、語が同じということを基準としているが、語のあるまとまりによって「表現」が構成されると考えると、右の例のように、助詞「テ」があるかないかという違いしかなくても、「表現」としてはまったく異なるという「判断」もあり得ることになる。

これは北原白秋が自身のプロジェクト(編纂物)での「添削作品」だ。
原歌と添削歌を比べると、「露を帯び」「露を帯びて」というところの違いのみだ。
だけど、北原白秋はこれらの作品は全く別物だと評する。では仮に、原歌を見たことのある表現者が、添削歌のように体裁を整えて(というのも語弊があるかもしれない)発表したとすると、それは「盗作」なのかどうか。僕には判らないし、判る人の見解が「正しい」と必ずしも言えないのではないかと思う。

僕はInstagramでこんな風に述べた。

FacebookかTwitterか判らないけれど、誰かが呟いていた。
「問題を切り分けて考えないと、また同じことが起こる」
本当にその通りだと思う。だけど「切り分ける」だけでは盗作についての理解は深まらない。
クリティカルシンキング(ロジカルシンキング)で物事を考えたって、至る結論は「自分」という枠を超えるものではない。だからこそ、本書の役割は大きいのだ。判ってもらえるだろうか。

後半には「本歌取り」「パロディ」などについての言及もある。
本歌取りは、

ここで「本歌取り」について少し整理しておこう。『集英社国語辞典』第三版は「ホンカドリ」について「和歌や連歌の修辞の一つ。先人の歌の一部を詠み込むことによって二層構造の複雑な趣をかもしだす表現技法」と説明している。
(中略)先例がある表現をとりこむことによって、複雑な構造の表現をつくることが可能になっているといえようし、先例がある表現は、どのような意味であるかということが共有されているといえよう。現代では「オリジナリティー」ということが重要視される。しかし、誰も使ったことのない単語というものをつくりだして使うということは通常はできないし、言語に関しては、複合語として新しいとか、そうした「新しさ」以外は考えられない。そうすると、焦点の定まらないまったく新しい表現よりも、すでに共有されている表現をベースにして、そこから新しい表現をつくりだしたほうが「読み手」に理解されやすいということはあるだろう。ただし、この場合はベースにする表現が多くの人に「共有されている」ということが前提になる。言語生活において「和歌をつくること」が重要な位置を占めている場合には、「本歌取り」は昨日する。『古今和歌集』の歌を熟知していることが『新古今和歌集』を理解することの前提となる。

というふうに書かれている。

前提として誰もが「知っている」ことが大事で、それがfoundationとなって『新古今和歌集』が成立するということだろう。今の時代に、同様のパターンで成立するものが幾つあるだろうか。この価値観が多様化した世の中で。『古今和歌集』『新古今和歌集』両方とも、知識人のための戯れだったとも言える。セグメントで棲み分けができていたのだ。

文学や詩歌だけが知識人の戯れで無くなり、
そもそも知識人という括りで「人間」を語れなくなった21世紀。
気付けるか否か、ではなく、Google検索に引っ掛かるか否か。成否の基準も変わってしまった。

***

佐野氏のエンブレムは使用中止に追い込まれた。
もう2ヶ月も経てば、このことは一般の人からの記憶からは跡形もなく消えてしまうだろう。
だけど、クリエイティヴに関わる人たちの記憶からは消えないし、致命的なダメージとして残り続けることだろう。華やかな実績を残してきた佐野氏が、必要以上に責めに苦しまないことを僕は祈りたい。

と同時に、もっと文化的な背景について学ぶ努力もしていきたいと思う。
ちゃんと自分の言葉で語れるように。そしてそれを、いつかアウトプットできるように。

とは言え、たぶん、僕のスタンスは変わらないだろう。
僕は、僕のためにも、新しい作品を生み出せるようにするだけだから。

好きじゃない言葉

僕は、あまりニュースソースに反応しないようにしている。
それでも人間なので、ニュースを見ていると何らか喜怒哀楽の感情が自然に湧いてしまう。
喜び、楽しみのポジティヴな感情は良いけれど、怒りや哀しみのネガティヴな感情はいけない。

語弊があるね。
怒りや哀しみの感情自体が悪いのではない。
それが負の連鎖に繋がってしまい、根源的な「怒り」「哀しみ」と乖離してしまうといけないのだと思う。

卑近な例を挙げて説明してみる。
・ポケットに入れていた1万円札をどこかに落としてしまった。ものすごく悲しい。
・ついてないと自分自身を嘆く。日々疲れていたせいで、注意力が散漫だったのかもしれない。
・日々の疲れは何のせいだろうか。仕事か?人間関係か?夏の暑さのせいか?
・そう言えば、今年の夏はとりわけ暑い気がする。温暖化の影響だろうか。
・温暖化を生み出すメーカーは悪だ。これまでずっと業績が良かったけれど、たまたまコンプライアンスの問題が報道されている。
・結果的に、僕はそのメーカーを憎む。匿名のメディアでデマを流し、負の連鎖を拡散させる。僕の中で負の連鎖を留めておくことなどできない。

もとは、1万円札を不注意で落としてしまったことに端を発している。
それがみるみるうちに負の連鎖が大きくなってしまった。「怒り」「哀しみ」を押し殺すとストレスになるので、適度に発散するのは良いと思う。だが、それが内なる感情という枠を逸脱して広がってしまうのは良くない。手に触れる様々な物事が「個人メディア」になりうる時代に、注意しなければいけないことだと個人的には思っている。

さて、今回のエントリはそれを延々と語るためのものではない。
東京オリンピックのエンブレムとして、佐野研二郎氏のデザインが採用されたこと・されて以降のことを厚めに言及していきたいと思う。

まあ、賛否両論だったのだ。
僕自身は「可もなく不可もなく と言うよりは やや素晴らしい寄り」という感想だ。つまり「賛」の立場にある。だけど世の中には多くの人間がいて、「1964年のデザインの方が潔くて良い」「Tの視認性が低い」「シンプルに格好悪い」「ピンと来ない」など「否」の感想を持たれる方も少なくない。

それ自体は悪いことだとは思わない。
デザインとは難しいもので、万人を納得させられるものを拵えることは至難の技だからだ。
Appleのデザインは優れていると言われているけれど、機能もそれなりにユーザーを満足させる出来になっている。プロダクトデザインには、機能という付加価値としてデザインが活きてくる。だからこそ、「良い」ものであればファンも納得できるのだ(それが至難と言えば至難なのだが)。

一方で、「まだ何も出来上がっていない」東京オリンピックのデザインが先行して作られているわけだけど、そこに価値を見出そうとするのは、もともと不自然なことだ。賛否両論が生まれやすい環境にあるんだと思う。

そもそも「良い」ものは賛否両論のいずれも出てくるものだと僕は思う。
村上春樹の小説だって、今でこそ市民権を得ているけれど、昔は賛否両論だったと聞く。村上春樹本人も、「日本の文壇の中ではずいぶん冷遇された」という類のコメントを残している。僕の友達も「春樹の何が面白いか判らない」「答えが無いから読んでいてモヤモヤする」ということを言っている。友達と共通の話題で盛り上がれないのは残念だが、そういうもんだと思う。万人が優れていると思うものなど、実は幻想なのだ。サザンオールスターズくらいではないか?

また話が脇道に逸れた。
僕の「好きじゃない言葉」の話だ。

「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」。
人間の思考停止を誘発する言葉。ネガティヴな印象しか与えない言葉。クリエイティヴを馬鹿にするような言葉。クリエイターの勇気を奪う言葉。

クリエイティヴな作業をするとき、誰しもが自分に影響を与えたものを意識せざるを得ないと思う。
自分に直接的に影響を与えていなくても、インプットの数が多ければ多いほど、自分の中の引き出しには様々な可能性が生まれている。全く新しいものなど、インプット無しには生まれない。たくさん参照するものが多い中で、組み合わせたり、何かを引き算したりして生まれるものだと思う。

クリエイターの真鍋大渡も言う。http://www.creativevillage.ne.jp/2776

斬新なものをアウトプットするためには、まず類似研究や先行事例といったものを過去に遡ってリサーチすることが必要ですね。Perfumeのプロジェクトでも先行事例を共有するところから始まり、そこからどうやって新しいものを作っていくかということをまずは考えます。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉のように、できる限りのルーツを探ってそのコンテキストの中でも解釈されるものであることが嬉しいし、さらにはその流れの先に行きたいと思っています。

その足し引きの「もと」になるものを指摘して、「あれはパクリだ」「○○の作品に似ている」は本当にクリエイターの才能を馬鹿にしているし、やる気も勇気も削いでしまう。

物を作る、ゼロから新しいものを生み出す。
アマチュアでもプロフェッショナルでも、このクリエイターなプロセスは絶対的にユニークだし、誰かにやんや言われる筋合いのものではない。アウトプットは賛否両論を生むかもしれないけれども、盗作疑惑の批判は軽々しく口にするものではないと僕は思う。

文字をあしらったデザインだとしたら、アルファベットやひらがなのパクリなのだろうか?
ひらがなのもとになったのは漢字だ。じゃあ、ひらがなは漢字のパクリなのだろうか?

僕が懸念していること。
「盗作」だったり「斬新さ」を恐れて、クリエイティヴが進化しないことだ。
過去のもので優れたデザインは確かにある。だけど、社会は様々な進化を遂げているし、価値観も大きく変容している。デザインやクリエイティヴがその変化についていけず、無難なものだけをアウトプットするようになったとき、そのときこそ僕は、「過去を盗作しているだけ」と糾弾してやろうと思う。

追記:
Bubble-BさんのFacebookでシェアされていたブログ。
ここで書いていたようなことが、最悪のケースで発生しうること(「パクリ」と告発するリスクが少ないことが理由)が簡潔な言葉で書かれていた。うーん、考えさせられる。
personalogs.「東京オリンピックのロゴを巡る騒動を見て、改めて著作権侵害の非親告罪化はヤバいと思った」

The Libertinesの狂気を求めて

the-libertines-album-cover

朝5時に起きて、新幹線に飛び乗り、暴風域の関西で20時半までみっちり仕事をして(その間、宝塚線の運休により30分駅でタクシー待ちぼうけ)、新幹線で帰京する。家に着くのは24時前後。Boseのノイズキャンセリングイヤホンをしているから、新幹線の轟音は気にならない。だが行きの新幹線と違い、車内に充満したアルコールの臭いには辟易する
どうでも良い話だけど、僕は出張のとき、移動中にビールを飲まない。先輩社員に勧められればそのポリシーはあっさり覆すけれど、一人でいるときにはまず飲まない。そう決めている。
本質的には、新幹線で他人がビールを飲んだって構わないのだ。僕だってプライベートのときには構わず飲む。350ml缶をを2本は持ち込む(プレモルとサッポロビールだ)。行きも帰りも飲む。でも出張のときには飲まない。だからこそ辟易できるわけであり、そんなとき少なからず狂気が芽生える。

狂気、狂うこと。
あまりこの言葉に良いイメージは持たれないだろう。
自分の娘に「狂子」という名前をつけないのが、その証左でもある。僕だって、そんな名前をつけるんだったらキラキラネームをつける。(今鹿[なうしか]とかね)

僕は狂気という言葉の、すぐ隣に青春を位置づけてしまう。
青春。何て青い響きだろう。サカナクションの「Aoi」が聴こえてきそうだ。
でも僕は、青春が狂気とマッチしたとき、サカナクションでもカナブーンでもなく、The LibertinesというUKのロックンロール・バンドを連想する。「リバティーンズ宣言」というすこぶるダサい邦題を課せられた「Up The Bracket」というアルバムを。あるいはバンド名をタイトルにした「The Libertines」というアルバムを。20代前半の僕の青春総てが含まれていると言っても過言では無い。

僕にとって青春とは、福士蒼汰と本田翼の月9ドラマのように、キラキラと輝くものでは無い。
何だか理由も判らずイライラして、先輩に反発し、論破されると彼(あるいは彼女)のいないところで酒を浴びるほど飲んで愚痴るような、そんな鈍く鬱屈した時代がそうだ。僕が詩を書いていたのもその時代で、「死」や「痛み」、「裏切り」などをモチーフとして多用した。もちろん詩を書いているなんて誰にも言えなかった。文字の集積からキリキリとした疼きを感じさせる。人前で披露するだに憚られるほどの負のオーラを纏ったメロディ。今も昔も、ザラザラとした雑音と共に脳内を廻る。

今は、僕にとって青春では無い。
その時代はいつの間にか過ぎ去ってしまった。
30歳を過ぎ、日々の仕事に忙殺され少しずつ責務の大きさに押されながらも、わりかしクールに日々を送っている。熱くなり過ぎず、正面からぶつかり過ぎないこと。パートナーにも恵まれ、僕はかなり自己肯定できるくらい満足度の高い生活を送っている。はっきり言って、喜ばしいことだ。

でも時々僕は、空白を埋めるべく、あるいは空白を作るべくThe Libertinesの音楽を聴く。
狂気という世界に閉じ込められた王様、フロントマンであるピート・ドハーティの狂気を身体に染み込ませる。
UKロックが好きな人ならば、彼の音楽の素晴らしさを知るだろう。薬物依存でズタボロになったとしても、2〜3分のトラックはグルーヴィでメロディに優れ、そして遊び心に富んだ仕掛けが仕込まれているのに驚き、そして愛する。死んだ魚のような眼で、いかにも「俺は絶望してる」という歌を、歌う。全然呂律が回っていない。そこが、味と言えば味だ。しかも韻の踏み方が格好良いんだよね。

I lived my dream today.
And I have lived it yesterday.
And I’ll have lived it tomorrow.
Ah, don’t lookat me that way.

「The Man Who Would Be King」

薬物依存の彼が、夢を生き続けることを歌う。
僕は基本的に歌そのものを聴きたいと思うので、アーティストのパーソナルな事情はなるべく切り離したいと思っている。だが、もう僕は彼の事情を知ってしまっている。狂気の海にどっぷり浸かっていることを知ってしまっている。
4つの文が意味するものを、意図せず拡大解釈しがちだ。
最初の3文は、まるで子どもが純粋に信じていることじゃないか。
俺のことそんな眼で見るな、と言ってひっくり返すピート・ドハーティ。

と、ここまで書いていて、特に2枚目のアルバムはもう一人のフロントマンであるカール・バラーが作っていたことを思い出した。彼もピートに負けず劣らず狂っていると思う。その方向性が違うだけで。
最も、僕はカールに対して狂気ではなく、「不思議なやつだ」という感覚を抱いてしまう。
というのもピートはThe Libertines解散後もBabyshamblesだったり、ピート・ドハーティ名義で素晴らしい楽曲を生み続けているのに対し、カールはDirty Pretty Thingsという「それほどユニークでは無い(あまり目立たない)」バンドを3年間続けたに過ぎない。それはThe Libertinesの域から抜け出せない、そこそこに優秀な音楽に留まった。

少し脱線した。
結論を急ごう。

言いたいのは、結局次のことだけだ。

村上春樹は空白を得るために走ると書いていた。
僕は狂気を得るためにThe Libertinesを聴く。

なぜ狂気を得る必要があるのか。
それは活動する上でのエネルギー源になりうるからだ。理性や理屈や論理を超えたもの。何か為すためには、たぶん狂うほどのエネルギーが必要なのだ。
リターンを期待するだけで何かに夢中になることはできない。
「何かを為す」。日々、満足度の高い生活を送っていると現状維持が目的になる。何かを変えるための労力が惜しくなる。変えることが悪にさえなる。

「王になるはずだったのに」
1800年代の引用もまた滑稽なほどに正直で、大人が妄想するには狂い過ぎている。だけど、その狂気を浴びたくなるのも確かだ。

そう考えると、「リバティーンズ宣言」という邦題もあながち悪くはないか。

参考:
http://kawasaki5600.blog64.fc2.com/blog-entry-286.html?sp

短期間で文章をまとめ上げる能力について

先日、サロマ湖100kmウルトラマラソンのブログを書いた。今日の昼に読み直してみたけれど「こんなにも誤字があるかね」というような内容で、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。初めての100km走だ、6,000字を超えるほどの熱量は評価しよう(自分に対して)。でもね、同じ言い回しをそこかしこでしていたり、ストライド走法のことを「スライド」と書いてしまったり、過去形/現在形/未来形の使い分けにブレがあったり、なかなか統一感のあるトーンで文章が書けていない。

話が逸れるけれど、トーンとは、つまり僕らしい文章のことだ。僕らしさとは何か?それを明確にすることはしていないから、僕は僕の文章をトーンという言葉で表現している。
改めて。僕はトーンを意識した文章を書きたいと思っている。文章の巧拙は、たぶんトーンには関係なくて、むしろ書けることが増えれば増えるほど、トーンがバラけてくるのかもしれないとさえ思っている。トーンとは身近で、かつ奥深いものだ。

さて話を本題に戻す。短期間で文章をまとめ上げる能力というのは希少価値が高いと思う。長い時間をかけて面白い文章や小説を生み出すというのも希少価値は高いけれど、ニーズという側面で見れば、短期間で書けるというスキルは裾野広く重宝されることだろう。そして、それはライターを専門職としない方(もちろん専門職であっても、この能力の高さは喜ばれるだろうが)にとって、その能力が極めて有効になるんじゃないかと思っている。

デザイナー、研究職、政治家、スポーツ選手、経営者…etc
別のフィールドでとりわけ強みを有している方が、それを正しく言語化することで、他者に伝わっていく。旬、というのも大事になるから、あまりダラダラと書かない方が良い。5分以内で読めるものをさっくりとまとめ上げる。他者に伝わっていく。
もちろん強みを何1つ有していなくても、上手い文章はすっと自分に落ちる。そもそも文章とは書き手と読み手のキャッチボールみたいなもので、いくら高尚な文章を書いたとて読み手に伝わらなければ、(あんまり)意味がない。

僕はけっこう、ダラダラと文章を書いてしまう。
たくさんの文章が、「草稿」として眠っていることが多い。
それは将来に活きるネタなのかもしれない。いずれにせよ、僕の中で眠る宝(のようなもの)を、僕は有効に活用していこうと思う。

読書メモとか、映画メモとか、音楽メモとか

だいぶ前からHuluを契約しているんだけど、わりとダラダラと視聴してて記憶に残っていないことがしばしば。読書メモも含めて、マメに感想などメモしておきたいなと思った次第。

とは言え、巷にある映画や読書レビューって、悪口になりがち。
「俳優が大根」とか、「著者が何を意図して本を書いているか判らない」とか、けっこう酷いレビューも多い。確かに酷いなと思う作品もあるけれど、制作に携わっている全員をテーブルに並べたとして、一人くらいは必死で、良い作品にしようと思っているはず。

制作者の側に肩入れするわけじゃないけれど、これからは「作り手」がイニシアチブを持てる時代。そのクオリティの高低は問題じゃなくて、何かを「作ろう」という意思が大事。

批判するのは簡単。
百歩譲って、100%批判するのであれば、ブログに書かずに心に留めておけば済む話。
僕も小説を書いているわけで、批判は辞めてほしいと言っているわけじゃない。
だけど、批判を恐れて中途半端な作品を作られるよりは、100人中1人が面白い、それくらいにエッジの効いた作品を僕は待ちたいと思う。『トレインスポッティング』だって『1973年のピンボール』だって、大衆に迎合して作られたわけじゃないはず。でも、むっちゃ面白い。

そういうのを胸に刻みながら、なおかつ自分の芸の肥やしになればと思いつつ、これからちょくちょく読書メモとか、映画メモとか、音楽メモとか書いていきます。

ただ僕のことです。かなり偏ると思うけどね。笑

そうそう、 Apple Musicも出ることだし。定額音楽配信サービスの中では、もうダントツでAppleだって思ってる。